きみに出逢ってからもう30年になるんだ。
わたしのすきな木。
近年は「鹿の木」と呼んでいる。
長く伸びた幹が鹿の後ろ姿みたいだから。
春過ぎて、きみが緑の葉に包まれるのを見るとほっとする。
今年も元気そうだ。
たくさんの想い出が沁み込んでいる木。
子どもたちが小さい頃、ここで母が握ってきてくれたおにぎりを皆で食べたよね。
子どもたちが木登りをすきになったのはあなたのおかげ。
(約20年前の子どもたちと鹿の木)
いつも変わらずそこにいて
わたしたちを迎え入れてくれた。
わたしには特別な木。
そして、驚いたことに
この木の話をしたこともなかったのに
亡き父のパソコンの中に
一枚のこの木の写真があったのだ。
10年程前、父が大阪から弟の家に泊まり掛けで上京した時のもの。
そういえば早起きして公園を散歩したと言っていたことがあったなあと思い出す。
大きな公園の中の何百本何千本とある木の中で
父が足を止めてシャッターを押す…なんという奇遇。
これは偶然というより木に呼ばれたとしか思えない。
木のこころが「わたしはあなたの家族のともだちなんですよ」と
袖を引いたに違いない。
と、万年ドリーマーなわたしは確信している。
ここは管理されている公園。
今までにも知っている木が何本も伐られていった。
ヒトに危険が及ばないよう樹木の専門家が病気の木や老木を見定めて伐採を決めているようだ。
永遠のものなど何も無いと
わかってはいるけれど
ずっとそこにいてほしい…と願う。
想い出と時間を共有してくれているたいせつなともだちだから。
子どもたちは皆大人になり、今はひとりでこの木に会いにいく。
昔はまだ細くしなっていた枝も、今ではわたしの力ではびくともしないほど太く逞しく育っている。
会いに行くたび、幹に手を当てる。
木は冬の寒い日でも驚くほど温かい。ちゃんと日々を生きている。
以前、うつくしい木の写真を撮る写真家マイケル・ケンナ氏の個展のインタビュー映像で、氏が語っていた言葉を思い出す。
「木とひとは同じ。会えば会うほど親しくなり、知れば知るほど関係は深さと複雑さを増す…」
ひととひと
ひとと木
ココロのつながりは同じなんだなぁ。