優しさって、目には見えにくい。
時に、かたちに表れているのを見つけるとうれしくなる。
たとえば、こんなん。
木を傷つけないように塀を削ってある。
こういう、切られずに生を得た木はきっとこの家のひとに感謝していることだろうなあ。
昔住んでいたアパートの二階の窓のすぐ外に大きな木が立っていた。
そよそよと風に葉を揺らす心地よい音や、カーテン越しに映る葉影が
ひとりで都会に居るのを忘れさせてくれて、わたしはこの木がとてもすきだった。
それなのに・・・ある日仕事から帰るとその木は忽然と姿を消していた。
我が目を疑い、窓から乗り出して下をのぞいてみると、
無残にもスパッと切られた切り株だけがそこにあった。
おそらく一階の住人にとっては、陽を取られる厄介な存在だったのだろう…。
それでも、木にとっては突然の悲劇。
なにも悪いことなどしていないのに。
かなしくて、かわいそうで、涙がこぼれた。
そんなふうに最期を迎える木には、たったひとりだけでも偲んであげるニンゲンが必要だ。
ふしぎなことに、その晩わたしは夢をみた。
窓を開けると、ざわざわとその枝葉を揺らして木が元気に元通りそこにある、という夢。
「あ~よかったねえ、やっぱり切られてなんかいなかったんだねえ」とわたしは木に話しかける。。。
翌朝目覚めても、そこにはもちろん姿はなかった。
夢のなかへ、きっとお別れを言いにきてくれたのだと今でもわたしはそう思っている。
子どもじみているって笑われそうだけれど。
ひとでも木でも動物でも、
ほんとうはもっとシンプルにわかりあえるパイプラインを
その身の深い何処かに持っているはず。
いろんな余計なものを取っ払って、はだかのこころだけで向き合えば、
コトバがなくてもきっと通じあえる。 と、わたしは信じたい。
一番ややこしくしているのは、ニンゲンなのかもしれないよね。
見えにくいからこそ、「やさしさ」はこころの目でみつけよう。
自分のこころにこそ、言い聞かせよっと。