うちの真ん中っ子・次男坊。
学校に行かないという道を選んでからもうすぐ一年。
自動的に学年も上がり義務教育最後の学年だ。
[ 学校に行かない子の親 ] となってみて
またもや、たくさんのことを学んだ。
何しろ初めての経験。若葉マークつきの初心者だ。
当事者になってみなきゃわからないことって、すこぶる多い。
この一年、手探りしながら行きつ戻りつ
息子は息子で、わたしはわたしで、時に一緒に、道を探していたような気がする。
関連本を読みあさり、専門家の話を聞きに行き、
心理相談員さんとも定期的に話をし、同じ状況の親御さんたちとも話した。
学校に行っている友達の親御さんたちともよく話す。
もちろん、バトルを経て当の息子とも近頃はいろんな話をする。
結果、わかったことは。
学校に行かない子どもをひとくくりに考えてはいけない ということ。
ひとりひとりみな違う。
ひとりひとり人格が違うのと同じこと。
なので、おのずと解決の道もひとりひとり違う。
そして、誰でも「不登校」になりうる ということ。
みんな特別な子どもじゃない。
ただ、総じてみな自分に厳しく一生懸命生きているってところは共通している。
いい加減に生きることが不得手な不器用さを
持ち合わせているところは大きな共通点だね。
学校に行かない子どもは、サボっているわけではない。
サボって気楽でいられる子は「不登校」にはならない。
逃避しているように見えて、その実、そうではない。
逃避にも器用さが必要だ。
逃避できるくらいなら、そんな楽なことはない。
逃避することも出来ずに苦しんでいる。自分からは決して逃げられないのだから。。。
大人からみれば、自分で自分を生きにくくしているようにしかみえない。
不器用でムズカシイ子どもは、
ただでさえフクザツな思春期特有の波に自ら翻弄されてしまう。
言葉にすると大袈裟に聞こえるけれど、
見ていると可哀相になるくらい不器用で真摯な生き様だ。
それでも、そうすることが彼の生き方なのであって・・・。
ここまで書いて読み返したら、
我ながら、不登校を必死に擁護する親バカ って感じだなあ。
でもね、「不」登校に縁のない親御さんにまで
理解してもらおうなんて全然思っていない。
わたしだって、我が子がこうなって初めて理解しているんだもん。
しかも、我が子の場合オンリーの理解だから。
というより、理解できているのかも怪しい。
今でも、「キミにわかるわけがない」ってのが彼の口癖だから。
それにしてもわたし、「不登校」という言葉はあまりすきじゃない。
どうしても「不」や「un」がつくと、否定的なニュアンスを感じてしまう。
本当は行きたいのに行けない理由があって行けない子。
行きたくないから行かない子。
こころとからだの不具合で行けない子。いろんな子がいる。
「不」登校という言葉は、学校サイドから見た呼び方でしかない。
一昔前の「登校拒否」のほうがまだ収まりがいいかも。
ひとと違う道を行くのは、そうせざるを得ないこころの作用。
本能的にそういう道を選んだ我が子を前にして、
親は何をどうしたらいいのか・・・戸惑い、途方に暮れるのは自然なこと。
親として出来る事はなにか。。。。
今振り返ってみれば、始まりの頃、わたしの取った行動は
親としてニンゲンとして本能のままに動いていたとしか言いようがない。
(本能のままなのはいつものことかな・・・)
休み出した当初、朝、迎えに来てくださる担任の先生。(プレッシャー!!)
玄関を出る 苦しげなあの子の背中。。。
「今、この子の背中を押したら、もうこの手に戻らないかもしれない・・・」
そう直感して、気がついたら全力で彼を守る側に立っていた。
とても怖かった。
この子を失うかもしれない。と、わたしの本能が警報アラームを鳴らしていた。
それは、彼のタマシイの無言の救助信号だったのだと思う。
原因探しなんて後回しでいい。
なんだかわからないけれど、
ひどく不安定でまるで消えかかったロウソクみたいにみえる我が子を
保護してやれるのは親しかいないもん。
こころとこころの見えない通信回路を
つなぎっぱなしにして気持ちを共有すること。
「大丈夫。あんたはあんたのままでいいんだよ。」
ってことを、コトバとココロで伝え続けること・・・そうするしかなかった。
もちろん気持ちが届かないことも多いし、
自分の行動が正しいのか間違っていないか模範回答はないし、
本能が良しとする方向へコマを進めるしかわたしには選択肢がなかったのだけれど。
うちの子の場合、今のところ学校に戻るという選択肢はないので
生き易い生き方を生きられるように
これから彼自身が択びとっていくしかない。。。キツイだろうけれど。
一年経つ今でも、わたしには正答は見えない。
きっとずっと先にしかわからないことなのだと思う。
わたしにできることは、諦めないこと。ぶれないこと。
根気強く待つこと。
息子のことは横に置いといて わたしは今までのわたしらしくいること。
そんなことぐらいしかできないよ。
だって、確かにわたしが産んだ子どもでも
あの子のタマシイは、あの子のもの。
わたしは君じゃないし、君はわたしじゃない。
ゆらゆら揺れる子どもの態度に
一喜一憂しすぎず、ありのままを静かに受け止める。ムズカシイけど。
親だって弱っちいニンゲンだもの、へこたれちゃうことも
泣けてきちゃうこともあるよね。
幼い頃のおどけてる彼の写真を眺めて、ため息が出ちゃうこともある。
彼が制服を着て、学校や部活に
忙しくしているパラレルワールドを想像してしまっては
自分を戒めたり。。。
同級生たちが我が子より立派に
成長しているように思えて切なくなったり。
我が家の次男坊は、小さな哲学者だ。
頑固で慎重。物事を深く深く考える性質なんだもの。それは持って生まれたもの。
でも、わたしは彼の心根のやさしさや、根底にある強さを知っている。
外からは「停滞期」に見えても、
彼の中では、日々再構築が進んでいる。
大きな大きな変換期なんだと信じてる。
この時期が、いつかきっと彼の「底力」になるよ。
信じることしかできないってのも
もどかしいのだけれどね。
わたしは、わたしの時間をたいせつにわたしの道を行くよ。
いつか遠い先に、オトナになった君と
今の時期を振り返って
ふたりで笑い飛ばせたらいいな。
それが母としてのわたしの 大きな目標です。