ハロウィーン。
子どもの頃暮らしていた新興住宅地のコミュニティーは、
あちこちから移り住んできたひとで構成されていたので、いろんな文化が混ざり合っていて新鮮だった。
なかでも、アメリカ帰りの帰国子女の家庭には、日本にないようなものが沢山あって、
当時、近所では誰も知るひとのない、ハロウィーン・グッズもそのひとつだった。
ある年、その一家の提案で、町内を上げてのハロウィーン・パーティーが催された。
家々にはお菓子が準備され、子どもたちは仮装して練り歩き、
英語ではなく、わかり易くニホンゴに直して 「おかしくれなきゃいたずらするぞ~」と
玄関でみんなで声を揃えて叫んでいたっけ。
お菓子をもらえることよりも、暗い住宅街を子どもだけで歩くことがすっごく楽しかったのを覚えている。
小学生だったから、三十数年前の話。大昔だ~。
それでも、ハロウィーンの季節にはあの本場もどきのハロウィーンの一夜を想い出す。
その子の持っていたハロウィーンのレコードも、ほんとうに震えるほど怖かったんだ~。
今では、10月31日は我が家には特別な日。
もちろん、ハロウィーン!ではなく・・・次男の誕生日なのであった~~。
13歳、おめでとう~。
娘の英会話教室のHalloween Lesson にて。
年に2回だけのイベント。
ハンドメイドの雑貨屋さん。今回も楽しく無事に終了。
毎回たくさんのお客様にご来店いただいて、楽しくあっという間に一日が過ぎてゆきます。
ひととひとのご縁。
ものとひとの出逢い。
よろこんで手にしていただけることは、作り手としてはこの上ないしあわせ。。。
お客様に感謝。メンバーに感謝。お天気にも、すべてに、感謝ですね。
夕方になると、学校帰りのご近所の子どもたちが遊びにきてくれます。
お店屋さんごっこ気分でお手伝いしてくれました~。
春と秋に開催するこのイベント。
毎回、楽しかったぶん、終わったらちょっと寂しい気持ちになっちゃうんだなあ。
ヒュルル~と冷たい秋風が。。。
いけないいけない。こういうココロの隙間が要注意なんだ。
さあ、たのしいことを見つけようっと。
この夏に 街で見つけた物件。
赤瀬川原平氏のいう、トマソン物件。自分で発見すると、たのしい気持ちになるね。
ひとりで歩いているのに、「お~っ」って独り言。。。あぶない。
空中行きのドア。「無用ドア」
お隣が取り壊されたことによって出現した影。赤瀬川さんの云う「原爆タイプ」。
それにしても、階段状の影がおもしろいね。いったい、どんなお家が建っていたのかしら。
いろんな目線で知らない街を歩くと、いろんなものが見つかるよ。
下ばかり向いて歩いていないで、たまには う~んと上を向いて歩こうね。
誰にでも、こころの中には いろんな引き出しがある。
木枯らし一号が吹いて、
初霜や初雪のニュースなんかが流れると
ふいに開かれる わたしのココロの中の 百人一首の引き出し・・・!
ふわふわと 勝手に浮かび上がる 和歌ひとつ。
「心あてに 折らばや折らん初霜の おきまどわせる白菊の花」
中学生時代、文芸部で毎日百人一首でしごかれて(?)いたお陰で、
いくつかの歌はすっかりこころに染み込んでしまっている。
四季折々、いろんな和歌がふわふわとこころに浮かび上がる。
この歌は、
「初霜が降りてどこも真っ白だ!どれが白菊やらようわからん。え~い、ままよ、テキトーに摘んでみようか」
というような歌。もっと深い裏の意味があるのかもしれないけれど、それは置いておきましょう。
わたしは、この繊細ながらも大雑把でテキトーなニュアンスがすきなんだ。
ちなみに、秋を詠んだ百人一首の中で一番すきな歌は
「秋風に たなびく雲の絶え間より もれいづる 月の影のさやけさ」・・・
ニホンゴって、うつくしいなあ。。。
おとなになって、少し上手になったのは、
「きもち」の置き場所を自在に変えることができるようになったこと。
セルフ・コントロールがちゃんとできるって、 「大人」の定義のうちのひとつなのかもね。
年に2回、仲間と開催しているハンドメイドのイベント。
早くも七年目!来週の開催で13回目を迎える。
ものづくりは、すきなことのひとつ。
きもちを全部向けられる 「すきなこと」があるって
ありがたいことなんだなあ・・・って改めて想ったりするこの頃。
そして仲間がいてこそ、出来ること。。。
共に歩んでくれてありがとう。いい仲間に感謝です!
世界で一個のオリジナルBAGを制作しています。
この生地は、しばらく前に代官山の生地屋さんで一目ボレして買っておいたもの。
やっとバッグになりました~。昔の包装紙みたいな柄がとっても好み。
こちらは、バッグはバッグでも超ミニミニ本革ハンドバッグ。
チャームをつけてストラップに。
ふたはマジックテープで開閉可能なので、なかにアロマ・オイルを落としたフェルトを入れたり、
十円玉をいれたり(?)も!
今回は、近郊の情報新聞に初めての取材記事を載せていただいているので
どのくらいの反響があるのか ちょっとどきどきなんだなあ。
きもちをイベントにシフトしてラストスパートだ。
楽しんでがんばりま~す。
原宿でのライブに向かう前に、恵比寿へ寄り道。
東京都写真美術館へ。
「畠山直哉展」を観てきた。
なぜだか、おおきなおおきな風景が観たくなったから。
自然の大きさ。
ニンゲンの小ささ。。。
それでも、自然に挑み、関わり合おうとするニンゲン・・・。
自然はニンゲンが居ようが居まいが知ったこっちゃない、ってすましているけれど。
ご出身地の陸前高田市の震災後の写真には・・・コトバを失います。
圧倒される 写真の数々でした。
開催は12月4日まで。
日曜日の原宿、とっても久しぶり。
相変わらず、ひとが多いのねえ。
改札を抜けて通りに出るまで、既に行列状態。
一日だけ戻ってきた真夏のような気温と人混みの熱気で、どこか常夏の国に来てしまったような気持ち。
この街は、変わったようで変わらない。
歩く人々がごっそり入れ替わっても、街の持つ色はそのままだね。
それでも、いまだに表参道ヒルズを目にするたびに
どうしても想い出す、あの味わい深いアパートメント。
あの時空間だけはもう戻らない。惜しまれるなあ。
日曜日の原宿を歩いていたわけは。。。
高野寛氏のライブがあるからなのでした~。
原宿「VACANT」での、体育座りライブ(笑)
高野さんのライブは、なんだかとっても心地が良いなあ。
後半は、全員立ち上がってノッていましたが、座り加減と立ち加減がいい案配です。
ご本人が こころから楽しげなライブは、観客も楽しいもの。
パーカッションの宮川剛さんのシンバルの蹴り!が間近でみれてラッキー。
すごく見応え(聴き応えもネ!)のある演奏でした。
そうそう、だいすきなThe Monkees の「Daydream Believer」のカヴァー、すっごくよかった。
日本語の歌詞は清志郎さんが作ったものかな。高野さんにぴったり!
高野さんのライブは、とっても あったかい。 また機会があれば聴きに行きたいな。
「すきなもの」が多いほど、しあわせのカケラを運んできてくれる。
あっちを向いてもこっちも向いても 嫌いなものだらけだったら どうだろう。
そんなのより 周り中がすきなものだらけなほうが気持ちが良いに決まってるよね。
「すきなもの」は、いろんな場面で すごいチカラを発揮してくれる。
底から引き揚げてくれたり ココロに風を通してくれたり 痛くないようにクッションになってくれたりもする。
ひとによって すきなものも様々。
キライなものやツライものを数えるより、すきなものを数えて生きよう。
ずっとずっと 生きやすくなるよ。
来月から改修工事に入ってしまう東京都庭園美術館。
今月いっぱいは、お邸そのものが堪能できるうえに、館内撮影もOKだということを
貴重な近代建築好き仲間のYさんが知らせてくださり、ご一緒することになった。
庭園美術館は、去年のロトチェンコ展以来。
普段は撮影禁止。以前来館した時には、あっちを見てもこっちを見ても 撮りたくて撮りたくてうずうずしたのだったよ。
玄関正面の、ラリックのガラスの女性像も、本当にカメラに収めていいのね?ね? と、
入り口から既にテンション上昇。
あまりに撮り過ぎて、おしまいにはカメラの充電が完全にゼロになっちゃったくらい。
ルネ・ラリック作 玄関のガラスレリーフ いつ観ても美しい。。。
アンリ・ラパンの香水塔。
庭園美術館といえば、このふたつは外せませんね。
切り絵みたいなアイアンの飾り。うっとり。
大食堂の天井を飾る、見事なフルーツのレリーフの照明。
サカナのモチーフのラジエーターカバー。
これこれ!、これ、だいすきなんだ。
ラジエーターカバーがあちこちにあって、デザインがとてもすてきなんだなあ。
アップでひとつ。
洗練されたこの模様・・・うつくしいなあ。
今回、とてもこころを惹かれたのは、この「アール・デコ」な階段の美しさ。
この開けた空間、とてもいいなあ。 すきだなあ。
つくづく、気持ちが良いくらいきれいな作り。
ついでに、このミニ階段もすき。今ではここから屋上には出られないのだそうだ。開かずの扉ね。
この階段、欲しいくらい魅力的。木の風合いがとても良い感じ。
天井にほのかに映る色ガラスがいいなあ。夜にも訪れてみたいものだ。
このお邸は、至るところにアーチが施されていて、
直線的な建物なのに、このアーチのお陰でまろやかさや、上品さが醸し出されているのね。
ここは、書庫。からっぽなのが残念だ。
ぎっしりと古い革表紙や布表紙の本が並んでいたらいいのになあ。
すきなだけ こんな部屋に籠って、まったりと本を読んで過ごしてみたいものだな。
ここは、これまた趣きの異なる、モダンな空間。ウィンタールーム。
ここのオイルヒーターと、昔の蛇口がこれまたいいんだなあ。
一緒に行ったYさんとは、すきなものの感覚が似ているようで、写す部分が似ていて笑っちゃう。ドアノブとか、蛇口とかね。
ドアノブばっかりとか照明ばっかりとかは、いづれ別の機会にUPしようかな。
ちょうど同じようなペースで見て廻れたので、気づいたら三時間くらい経っていた!? たっぷり堪能できました。
チェックしておいた 近くにある隠れ家フレンチレストランのランチには間に合わなかったけれどねっ。それは今度にとっておこう。
Yさんとは、長男の入学した高校の保護者会で半年ほど前に出逢ってから、一緒にお出かけするのは小笠原伯爵邸に次いで二度目。
彼女は、若干8歳にして洋楽に目覚めたそうで、音楽の趣味も似ているね~。前から知ってたひとのような気がしちゃう。
ひととひとの出逢いって、不思議だなあ。
すきなものが似ているってのは、全く別の道を歩いてきても、
すきなものを介してどこかで交差するようになっていたりするものなのね。
いろんな縁に感謝、です。
とてもお伝えきれない 素敵な空間満載のこのお邸。。。
かなり長い改修工事のようなので、建物に興味のある方はぜひ今のうちに足を運んでみてください。
東京都庭園美術館 「アール・デコの館」 開催は10月31日まで
「満月の坂道」
満月の坂道を 自転車で ひとり下っていく
夜風と月とわたしだけ
どこかで誰かが いまこの瞬間に
同じ月を見上げて なにを想う
誰の上にも こうしてまあるく 月は輝く
欠けては満ちて ここに風をつくる
時がまた廻ってきても あの幻の橋は 二度と架からない
たたみっぱなしの背中の両翼は ガタがきて もう開かない
ブレーキもかけずに この長い坂道を
夜風を裂いて 下っていけば
翼をひろげて 夜空を飛ぶことも
幻の橋をここに架けることも
もしかしたら、できるかもしれない・・・
そんなふうに
思考が勝手に彷徨うことも
きっとあの満月の みえない仕業に違いない。
本というものは、とても不思議なことに
正に今 ココロが必要としている「答え」を サラッと広げて見せてくれることがある。
それは 「ハンカチ落とし」で、自分の後ろにいつの間にか落とされていたハンカチのよう。
以前古本市で見つけた、昭和22年発行の小林秀雄著「ドストエフスキーの生活」(初版は昭和14年)
読み始めた 初っ端の序文(歴史について)の中に、それをみつけた。
[・・・・僕等の発明した時間は生き物だ。僕等はこれを殺す事も出来、生かす事も出来る。
過去といひ未来といひ、僕等には思ひ出と希望との異名に過ぎず、この生活感情の
対称的な二方向を支へるものは、僕等の時間を発明した僕等自身の生に他ならず、
それを瞬間と呼んでいいかどうかさへ僕等は知らぬ。
従ってそれは「永遠の現在」とさへ思はれて、この奇妙な場所に、
僕等は未来への希望に準じて過去を蘇らす。・・・・・]
そのコトバを、実際 探していたわけではないのに、
読んだ時に、それが探していた「答え」だと気づく。。。
幾千万の本の中で、たまたま出逢うコトバ。 そういうのって、やっぱり縁だなあ・・・って、思うんだ。
それでも、これまた摩訶不思議なことに
同じコトバでも違う時期に読むと、まるっきり見失ってしまうこともある。
「答え」へのトビラは、開いたり閉じたりしているものなんだねえ。
必要なときに、必要なひとに、ちゃんと響く コトバ。
コトバも、そして時間も、やはり生き物なんだなあ。。。
「あさってくらいまで、すっ飛ばすんだよ」
何でも正面から、額面通りに全部受け止めてしまうわたしに
昔、トモダチが言ってくれたコトバ。
きっと、そう言ってくれた本人は、そんなこと 覚えてもいないでしょうが、
わたしは 必要を感じたときに、思い出して実践している。
あさってまで すっ飛ばす。。。
あさってが、どっちにあるのかは分からなくても、
そして、とっても投げやりなようでも、これは案外 効きます。
煮詰まっているヒトはお試しください。
つぎに逢えたときには、いいコトバを授けてくれたこと、「サンキュ~」って忘れずに伝えよう。
小学校2、3年くらいの頃に 国語の宿題で、
「団地の窓はステンドグラス」という題名の詩を書いた。
たぶん、人生で初めての詩作り。
なぜ そんなことを覚えているのかというと、
今でも夜の団地を見上げると、同じように、「ステンドグラスみたいだ~」って思うから。
それぞれの窓に灯りが燈ると、色とりどりのカーテンが光に透けて、
それはそれはキレイで、巨大なステンドグラスになるんだなあ。
昔は遮光カーテンなんてなかったから、夜の団地は今よりももっともっとカラフルで、
わたしは、眺めているのがとてもすきだった。
ひとつひとつの小さな灯りの枠の中に、ひとつひとつ、生活がある。
それぞれにいろんなことが起きて、笑ったり泣いたり、たくさんのドラマがあるのだろうな。
夜空をバックに立つ、大きな大きな 生きているアート。
八歳で思うこと。オトナになっても思うこと。
こころの年齢は、自由自在だね。
「怒り」は「絶望」を消してくれる。
これは、子どもが観ていたテレビアニメの中のコトバ。
普段 聞き流しているのに、何故だかそこだけ耳に飛び込んできた。
自分に必要なコトバは どこからでも アンテナがキャッチするようにできているのね。
これは 真理。 アニメの中とはいえ、とても深いコトバだ。
ニンゲンは、絶望を忘れるためには、時に怒りが必要なことがある。
「悲しみ」が「怒り」に置き換わることで、こころに強いエネルギーが発生して
絶望を消す力になるのだ。
ニンゲンのこころってものは、そうやって我知らぬ間に感情が次々に色を変え、
廻り道のように見えても、必要なプロセスを経て 絶望を希望へと徐々に塗り替えていく。
それは、いわゆる自己防衛本能ってやつね。
頭で考えることじゃなく、「本能」がちゃんとわかっていること。
もしも、抗えない悲しみに捲かれてしまっても、周りが真っ白で空虚に思えても、
そんな時はさ、もう、自分の本能にオマカセしてしまおうよ。
怒ったっていいし、ジタバタしたっていいし、じいっとうずくまって凌いでいたっていい。
知らないうちに、ちゃあんと、「その先」へと連れて行ってくれるよ。
自暴自棄な超楽観論だ と思うひともいるかもしれなくても、
思考を停止して、本能と感性に身を委ねるってのも ひとつの道。
それは、「逃げ」とは違うもん。
「本能」を信用して自分を泳がせてみることが必要な場面だってあるってこと。
だからね、決して こころを騙して ムリをしてしまわないで。
ゆっくりでも、ちゃあんと、なるように なっているものだから。 だいじょうぶだよ。
「ピーポー言う曲かけてよ。なんとかかんとかピーポーって、よくかけてるヤツだよ。」 と、次男坊。
なにそれ?そんなん、知らん。 って言っていたのだけれど。
先日わたしのipodから「イマジン」が流れているときに、「これこれ!ピーポーの曲。英語で先生がかけてるヤツ!」と言う。
お~~い。中一。
ピーポーピーポーって、救急車じゃあるまいし。
それは、people だってわかって言ってるのかい?
「Imagine」 のなかで、そんなに「ピーポー」だけ聞こえる耳って・・・??
それでも、彼はこの曲をとても気に入っているそうだ。
わたしも ずっとすきな曲だよ。
なんだかこういうことって、なんでもないことなんだけれど、ちょっとうれしいな。