昨日は親友の命日だった。
今年で4年。
日常の時間とは別の 止まった時間がそのままそこにある。
彼女の遺したふたりの子どもたちとお墓参りへ。
いつもアノ子が車で拾いに来てくれたあの駅へ
今はアノ子の息子が迎えに来てくれる。
免許をとったばかりの息子Yくんが運転する車に初めて乗る。。。
すごく すごく不思議な気持ちになる。
おとなしい赤ん坊だったこの子。
ちいさなバッタさえ怖くて逃げ回っていた怖がりのチビッコだったこの子。
突然母を亡くし、号泣していた15歳のこの子。
「オレもう最強の高校生だぜ」って笑った三回忌の時のこの子。。。
あれから
難関大学に難なくするりと入り、
家庭教師先では「先生」と呼ばれる立派な大学生に。
ハンドルを握る運転席の彼の髪の寝ぐせを後ろから見ながら
いろんなことを想いだして、なんだか泣きそうになって困った。。。
姉弟の仲の良い掛け合いに笑いながら、
「ふたりともこんなにりっぱになったよ」 って ココロでアノ子に話しかける。
三人でお墓を前にしても、ここにアノ子が入っているなんて未だにまったく思えない。
何かの冗談みたいだよ。振り返ったら笑ってるアノ子がこちら側に立っていそうだ。
久しぶりに会った愛犬も大歓迎してくれて
あの家の中にいると、つくづくアノ子だけがいないことが
フシギに思えてならない。
今にもその階段から降りてきて
台所に立ってお茶を入れてくれそうだ。
もうこの世では会えないけれど
わたしたちそれぞれの中に大きく存在している彼女は
いないけど いる。
矛盾しているけれど
いないけど いるんだなあ。
ひとは誰でもいつかは死を迎える。
あの世からこの世へ
この世からあの世へと居場所が変わるだけで
眼にはみえないタマシイは何も変わらないのではないか???
「Yくん、忙しくしてるかな。ちゃんと食べてるかな・・・」
わたしがココロで心配していると
決まってYくんからメールがきたり、うちにぶらりと立ち寄ったり。
それは、空でアノ子が
みえない糸を結びつけてくれているから。なのかもしれない(笑)
否定は誰にもできないから
そういうことにしておこう。
アノ子の家から、遠く山陰の山に暮らすおばあちゃんに電話を掛けて
みんなで代わる代わる喋る。
わたしがこの子たちの側にいることで、心底安心してくださるアノ子のおかあさん。
こどもたちと時々会って喋るだけで、何かしてあげてるわけでもないので
恐縮してしまうのだけれど。。。
そしてわたしも、アノ子のおかあさんの安堵の声に、とてもとてもほっとする。
実の娘に先に逝かれる心情は、想像しても想像しきれない。
束の間でも、安堵してもらえるなら・・・そんな嬉しいことはない。
この子たちがまだ小中学生だった頃、他愛のない会話の中で
“あたしに何かあったらあの子たちよろしくね!” と 言って笑ったアノ子のコトバ。
何年も前のアノ子のコトバが、そのままわたしの中に生きている。
コトバはイキモノ。
みえないタマシイと同じくらい、みえないコトバの持つチカラは大きい。
気持ちの上では、ふたりはとっくに我が子のようなもの。
人生はジェットコースター。
泣いたり笑ったり上がったり下がったりしながら
あわせて5人の子どもたちの未来をたのしみに見守っていけたらいいな。
止まったままの時間、動き続ける時間。。。
時には、止まったままの時間に身を沈めて、
アノ子がもうこの世にいないことに号泣したっていい。
時計も見ずに何かに夢中になる時間。
誰かと大笑いして過ごす時間。
憲法違反の法案に憤る時間。(反対集会デモには参加できませんでしたが~)
そして、まっさらな、何も考えない時間があったっていい。
ひとりひとり、自分サイズのいろんな時間を自分のペースで進んでいく。
それでいいんだと、この頃だんだんわかってきたように思います。