時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

ラファエロ展*国立西洋美術館

2013-04-30 | 展覧会・アート のこと

 
新緑の上野の山。
国立西洋美術館にてRaffaelloを鑑賞してきました。
 「500年目の初来日」ってコピーに引き寄せられ
やっぱり、天下のラファエロが日本へ来てくれちゃった以上見逃すわけには・・・という、
半分mustな気分でおりましたが、観に行って本当によかった・・・・・・・・・・。

昔ヨーロッパを駆け足で貧乏旅行した時、絵だけは浴びるほど眺めてきたのだけれど。
・・・ラファエロの絵は何故かひとつもちゃんと覚えていない。

とても印象に残るウフィツィ美術館でも、
まちがいなくラファエロの絵を観ているはずなのに、
ボッティチェッリやダ・ヴィンチが強烈すぎて
(おまけに、窓から眺めた素晴らしい赤い夕焼けが印象的すぎて)
柔らかなラファエロは記憶に残っていない。もったいないことをしました。

日本へ来てくれたラファエロの絵の数々。
今回はしっかりこころに焼きつけてきました。

それはそれは真綿のようにやわらかな「大公の聖母」

 
暗闇に現れ出た光のようなこの絵。背面の黒はなんと後世に塗り替えられたものだと
近年の調査で判明したのだそうだ~。
赤外線やらCTやら最新文明のお蔭で知らなくてもいいことまでわかってしまって
いいんだか悪いんだか・・・。
今そこにあるありのままを感じとればそれでいいじゃん。
ってわたしみたいな素人は思ってしまうけれど。

同じく、この絵の素描にも強く惹かれました。
1505~6年の作品のこの素描は、白色の紙に黒色天然石・尖筆と記してある。

油絵はのちに修復されたり、きれいにされたりして
画家本人だけの息遣いを感じるのは難しいけれど、
素描は、一本一本の筆の跡に作者本人の温度が感じられるような気がして
地味だけれど結構すき。

1520年に37歳という若さで夭逝したラファエロ。
この聖母の絵は若干22~3歳のころの作品・・・。
天才には「年齢」なんて無関係なんだなあ。

 「聖ゲオルギウスと竜」

 「エゼキエルの幻視」
やわらかな印象のあるラファエロだけれど、こういう力強い絵もすきだなあ。。。
馬や幻獣の表情はやっぱりどっか柔らかいけれどね。

 この「若い男の肖像」にも見入ってしまった。
画面左下の両手が絵の中の塀(?)に乗せられているのだけれど、
額縁に手を掛けているような錯覚が・・・。騙し絵みたいで、思わずまじまじ。

 (図録より。一部)
この展覧会は、ラファエロだけでなく、周辺の画家の絵も数多く展示されている。
中でも特に惹かれたのは、この「牢獄から解放される聖ペテロ」 フェデリコ・ズッカリ作

この絵は、絵のこちら側にいるわたしたちにまで天使の光が当たるんじゃないかってくらいに
神々しい輝きを放っている。天使の妖しい笑みから目が離せなくなってしまいそう。


ラファエロ、ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、etc.etc.
確かに存在した、同時代を生きた生身のニンゲンの遺したもの。

500年も前の絵と、こうして向き合う時間のフシギ。
過去と現在と未来が同時に混在する一瞬を感じる、絵を取り巻くフシギな時空間。。。

ラファエロ展 2013年6月2日まで。
興味のある方はぜひお見逃しなく~。

ミニ図録がカワイイ!





ダーウィンの究極のコトバ

2013-04-27 | essay



こころに響く言葉 というものは、
必要なひとに、必要なときにだけ大きく響いてこころに届くもの。

必要としていないひと、または必要としていないとき には
それはただの流れる風の音。

この前読んだ《方丈記》の中にある一文に、何かいろいろ気づかされたんだ~。
という話を、昔の仕事仲間のともだちにしたら・・・

彼女は、「方丈記かー!!」と笑いつつ、
「アタシは以前ダーウィンにやられた~」と言う。
ダーウィンっすか!!どんなんそれ~~???  って話を聞いてみると。

数年前に「ダーウィン展」に行ったところ
「生き残るには、強さと賢さだけが必要なんじゃない。
変化できる者が唯一生き残れる者だ。」 
というようなダーウィンの言葉を見つけたのだそうだ。

彼女は、
「それを読んでドカーンときてね、転職に踏み切ったんだよ。」と笑った。

それはちょうど彼女が卒婚を決めた頃。
子どもたちとその先の人生を生きるために
それまで生業としてきた花形の職業とは畑違いの資格を取得し
今ではきちんと資格を生かした仕事を上手くこなしている。

すごいなあ。彼女は変化して、ちゃんと進化を遂げている。

チカラのある響くコトバってものは、
ちゃんと必要としているひとに届けられるように上手い具合に用意されているんだな。
上手に受け取れるように ちゃんとアンテナ拡げておかなくちゃね。

ダーウィンさんが言うように、
生き残るには、大きな変化も厭わない柔軟さが大事なんだな~。

彼女経由で、ダーウィンの究極のコトバ、わたしにも届きました。

昔から生きる力の逞しい彼女。 会うたび毎度パワーをお裾分けしてもらいます。
わたしもわたしのペースで柔軟に進化してゆこう!!

    





人工頭脳の勝負

2013-04-26 | essay



コンピューターにも、将棋にもまったく明るくないわたしが
先日のコンピューターVSプロ棋士の勝負のニュースに興味をそそられたのは
つい最近、小林秀雄の本の中で
ちょうどそういう文章を読んだばかりだったから。

「考へるヒント」の中の、「常識」というエッセイ。
(昭和34年に文芸春秋に掲載されたもの)

18世紀に発明された将棋を指す自動人形のくだりがとても興味深い。
連戦連勝の機械人形。機械が考えることはできないはずだと、
エドガー・ポーがそのからくりを探る・・・というところから始まる話。

昭和34年。コンピューターなんて一般人はほとんど目にした事もないような時代に
さすがの小林秀雄氏、ずっと先の現代を見据えている。

「・・・人工頭脳の細胞の数は理論上いくらでも殖やす事が出来る。
ただ、さう無闇に多くのデータを人工頭脳に記憶させるには、
機構を無闇に大きくしなければならず、そんなに金のかかる機械では実用に向かないだけだ。・・・」

と、本の中にある。
今回、プロの棋士を負かした「GPS将棋」は東大にある670台以上ものPCとネットワーク接続され
一秒に2億5千万通りの指し手を計算していたのだそうだ。

凄い。。。気の遠くなるような数字だ。

そして、さらに凄いのは、そんな途轍もなく膨大な計算力を持つ人工頭脳を相手に
亘り合う将棋士の精神力!その勇気を讃えたい!

人間が代わりに指すとはいえ、無機質なコンピューターを相手に
何時間も真摯に勝負に向き合う将棋士。
たとえ負けても 潔い佇まいが たいへんカッコ良かったです。

小林秀雄氏もご存命なら、こんな勝負、観たかったことでしょうね。

        



中之島の魅惑の建物たち

2013-04-20 | 古い建物 のこと


ここ、来てみたかったんだ~。
大阪に住んでいた頃には縁のなかったこの辺り。大阪・中之島公園。
今 父の住む街からはほど近く、
父と姉と姪、娘とわたしで連れ立って歩行者天国になっている日曜日のこの界隈を散策。
何度も倒れては、奇跡的にリカバリーを遂げる悪運の強いわたしのオヤジさん。
こうして皆で歩けることに感謝しなくちゃね。

この一角は公会堂、図書館、日銀など、たくさんの近代建築の宝庫。
日曜日のこの地域はひと気も疎らで、ゆったりとした空気感。贅沢なお散歩コースです。



 こういう鉄製の透かし模様みたいなの すきだなあ。
説明の看板によると。
重要文化財の「大阪市中央公会堂」は、明治44年(1911年)の建築物。
日本最初の懸賞設計競技(コンペってやつ?)で選ばれた、岡田信一郎氏の設計原案をもとに
辰野金吾・片岡安という当時を代表するひとたちによって設計されたのだそうだ。

岡田信一郎氏は、だいすきな上野の黒田記念館の設計を手掛けたお方。
辰野さんは、泣く子も黙る東京駅の設計者ね。
そりゃあ!うつくしいはずです。

結婚式もできるこの建物、中もとてもとてもすてきです。

 
階段横には、建設当時に使用されていた基礎工事の松杭が展示されています。
チャペルの中も見てみたいものだなあ~。
 

そして、お隣の中之島図書館!ここもうつくしい~。
でも、日曜日は閉館日だそうで、有名なエントランスホールは見れず。ざんねん。





 ここは、尊敬する作家・宮本輝氏も
若かりし日々、学校をさぼって入り浸り古典文学を読みあさったというゆかりの図書館。
こんな趣のある図書館が近所にあったら毎日通いたいくらいだ~。
明治37年(1904年)建築の重要文化財。


 
淀屋橋のたもと、土佐堀川に浮かぶ老舗のお店がすごく目を引く。
父が言うには、昔はこの界隈にはこういったお店がたくさんあったのに
この「かき広」さんが最後の一軒になってしまったのだそうだ。
周り中ビルだものね。がんばってほしいな。
かき専門の料理屋さん。次回はここで食べよう、お父さん。

こういう水の上の建物をみると、自分が生まれた伊丹のつり池の家を思い出すなあ。
入り口側は地続きで、裏側はこんなふうに池の上に建っていたんだ。
もっと水面すれすれで、いつも窓からパンの耳を鯉や鮒にあげていたっけ。
もう想い出の中にしか存在しないけれどね。



中之島。大阪の真ん中。堂島川と土佐堀川に挟まれたこの場所は
なんとも風情のあるすてきな界隈でした。
パリにこういう中州のすてきな島があったなあ・・・って思ってちょっと調べてみたら
ここ中之島は「大阪のシテ島」って云われているのね~。
再開発に当たり、パリの景観を倣って造られたのだそうだよ。

なあるほど。中之島はパリの香り~。
バラ園のバラの香るころに、また訪れてみたいな。



堂島大橋の夜景もとてもきれいでした。


 わたしのオヤジサン。。。孫娘たちと歩けてよかったね。
もうこの際、元気でいてくれるなら、永久不滅の不良オヤジでいていいよ~!

とっても有意義な週末大阪探訪でした~。




「ただいま~」って言いたくなる場所

2013-04-17 | essay



わたしは特定の宗教は持っていないけれど
奈良の大仏さんだけは特別な存在。ここはだいすきな場所。

モノゴコロがついたばかりの頃に訪れる機会が多かったからなのかもしれないなあ。
大仏っさんに会いたいから奈良へ行きたくなる。

今回は10年振りの再会。
この10年、あっという間のようだけれど・・・いろんなことがありました。

いつでも変わらず大きく腕を拡げて迎えてくれる(ような気がする)場所。
小さい頃から引っ越しが多く、いろんな土地に縁があったのだけれど
幼い頃のほんの数年だけを過ごしたこの奈良は
なぜか「ただいま」って タマシイが勝手に感じる土地。
このゆったりまったり感がいいんだなあ。
万人がそう感じる日本のこころのふるさとなのかもしれないね。

 

 

  

 東大寺。ここはどれだけ居ても、帰る時にはいつも去り難い気持ち。。。

どうか世の中がいつまでも平穏でありますように。
と 大仏っさんにこころの底から祈ります。

 


ひかりのどけきはるのひに

2013-04-16 | essay



武道の最初の「お互いに礼」 みたいな構図だね。

奈良の鹿は、「くださいなくださいな」ってお辞儀をする。
なんだか可愛いような、憐れなような。



 


賢い子らは、鹿せんべい売りのおばちゃんのそばで、待機。
買ったひとにまとわりついてお辞儀。

昔々、奈良市内の幼稚園に通っていた幼い頃、
遠足にきたこの奈良公園で、鹿に肩越しにお弁当箱に顔をつっこまれちゃったことがある。
目の前の大きな鹿の顔にわたしはびっくりして大泣きし、
先生がお弁当を分けてくれたことを覚えてる。

キョーレツだったけれどそれはトラウマにはならなかったね。やっぱり鹿はかわいい。
すきな動物№1かもってくらい。
くっついて歩く人懐こい子鹿は、もう、マイ・鹿にしてさらって帰りたいくらいだ。
「そうかそうか、一緒に帰ろか~」と背を撫でながらしばし一緒にお散歩。
けれども、鹿せんべいをくれそうなひとを見かけるとさっさと行っちゃうのよね。そんなもんよ。

 



娘を連れて大阪のオヤジサンに会いに行く道中、京都で途中下車して奈良へ寄り道。

やわらかな新緑の奈良公園は、風もやわらかく陽射しもあたたか。
光のどけき春の一日 でした。



我慢と我がままの本当の意味

2013-04-12 | essay



今読んでいる本の中に
思わず、はあ~なるほどなあ と うなってしまうくだりを見つけた。

我慢と我がままについての考察。

「我慢」は美徳のように思われているけれど
仏教的意味に於いては、
我慢とはイコール傲慢、罪悪の一つ。とされているのだそうだ。

一方、「我がまま」とは
仏教的には、我のままにあること。美徳の一つ。

なんだかなあ~。確かにねえ。
こころを押し殺して我慢を重ねる・・・これは健康的とは言えないよね。
社会生活上、そりゃあ多少の我慢は必要だけれど
常にこころが我慢でがんじがらめになって不自由でいるのは、かわいそうだ。

我がまま。。。
「自分が自分のままでいて良い」 と安心して生きること。
こころに正直に、我のままに。

どこかで「我がまま」であることができてこそ、「我慢」ができる。

本って、ありがたいね。書物は宝物館だ~。
たまたま一冊の本を手に取って、
こころを解かれるような言葉に出逢うのも
これまたフシギな「えにし」としか云いようがないなあ。

出逢うべくして出逢う。起こるべくして起こる。
必然の世界。

 「我がまま」でありましょう!

  


 


知らない町の看板建築

2013-04-12 | 古い建物 のこと





 

知らない町を歩くと、いろんな発見があっておもしろい。
西伊豆へ向かう途中にちょっとだけ立ち寄った三島市。
三島大社の近くの一角に看板建築の残る古い街並みを見つけた。
もう廃業しているのか、定休日なのかはよくわからなかったのだけれど。
趣のある立派は佇まい。木の扉がいいなあ。

ところで、「看板建築」って名称、
1970年代に建築史家の藤森照信さんが命名したのだそうだ。
赤瀬川原平さんたちの路上観察学会のお方、タンポポハウスの建築家。
こういう建物が建築された当初からある様式名なんだと思っていたのでびっくり。
いろんことが、いろんなところで繋がっていて、おもしろいねえ。



 雲の向こうをよくよく見れば
富士山が目の前に!
日本は地図上では小さい島国だけれど、実際のところとっても広いよね。
いろんな知らない町を訪ね歩いてみたいものだなあ。



  


なにもの?

2013-04-11 | essay

 一見、なんの動物??って思っちゃうよね。

柵の上に乗っかっていた桜の花びらをぺろりの瞬間。 おいしいか~?
この子は、三島大社の鹿の子でした~。

 かわええ~。



 


いいかんじ。

2013-04-11 | essay



「よおBuddy!」 って相棒の肩に腕を回してるみたいなリラックス・パイン・ツリー。
持ちつ持たれつ、いいかんじの共生風景。

こういうのも「縁」だなあ。
たまたまそこに居合わせて
長い長い時間を共にする縁。

おもしろいなあ。



 


「方丈記」に初めて潜る

2013-04-09 | 本 のこと



方丈記の冒頭文。
 「ゆく河の流れは絶えずして しかももとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは かつ消え かつ結びて 久しくとどまりたるためしなし。」

中学生の時に習って以来、ずっとすきな一節。

ちょっと行き詰まった・・・と感じる時、この一節を思い出すと
《 滞っているように見えても、ちゃんと物事は動いているから大丈夫。
なあに、たいしたことじゃない。》 って思わせてもらってきたんだ。

なのに。それなのに!
「方丈記」をちゃんと全部通して読んだことがない。ということに今更ながら気づいてしまった。

学生時代、古文はすきではあったけれど、
これから原文だけ読むのはちょっと根性がいるし、
現代語訳だけじゃ味気ないし。
と、探してみたら、ぴったりなのを見つけました。

中野孝次著 「すらすら読める方丈記」
この本はいい。ちょうどいい。すごくいい。

そして・・・ニンゲン・長明さんに改めて深く共鳴。
深い深い人生哲学であり、建築哲学でもあるこの方丈記。
なんだか、現代の日本の状況にも怖いくらい妙にリンクしているところもあり・・・。

いつの世も、ひとは天変地異に振り回され
いろんなしがらみに絡みとられつつ、右往左往しながら生きている。

   ~世にしたがえば、身くるし。したがはねば、狂せるに似たり。

自分の目で見て、自分で体験して綴る、生粋のジャーナリスト・長明さん。

どんな時でも、ひととして、こころ安らかにたのしく生きていく術。
いかにストレスフリーな境地へ自分を導くことができるか。
いかにこころを充実させながら生きるか。
「方丈記」は、時代を超える元祖自己啓発本的要素もある不思議な本でした。

中野孝次氏いわく、

「自由な境界に突き抜けた心の達人・鴨長明。
すべては、外にではなく、わが心ひとつにかかっている。
方丈記は無常をうたった文学ではなく、数寄(すき)をうたった文学なのである。」

ひしひしと、こころの底から共感いたしました。。。

  「 読書は、ただ読むだけでなく、読んだ後で考えてこそだ。」
って言ったのはどこのエライひとだったか忘れたけれど
この「方丈記」、本当に深く考えさせられる。
さすが、1212年に記されて以来800年間もずっと読まれ続けた日本の古典名著。
今まで読まずにいたのは、とても勿体のないことでした。
人生半ば過ぎ(?)にして、ここで読むことができてよかったよ。
なにごとも、思い立った時が My Best Time なのかもしれないね。

それでも、このようにまだ読まずにいるすばらしい古典文学がこの世にはたくさんあると思うと・・・
ちょっと慌ててしまうなあ。

いやいや、長明さんを見習って、あくせくせずにゆきましょう。

   ~もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。

この境地ですね。身を律してばかりではくたびれちゃう。
ちょっと、自分にちゃらんぽらんにもなれること。ここ、大事ですね。(それなら得意です。)

すべてはこころのままに~~!
長明さん、あっぱれな人生です。

 


 


ジオグラフィーを学びたくなる場所

2013-04-07 | essay



ナショナル・ジオグラフィックに出てきそうな景色だ~。
ここは、西伊豆・堂ケ島。
過去にも何度か来た場所なのだけれど、何度観てもこの景色には地球規模の感動に圧倒されちゃうね。

 

 
長い長い時間をかけて波に浸食されつつ出来あがったこの地形。
地球ってスゴイ。地球は今も蠢いて生きている~。

 上から眺める「天窓洞」
セルリアンにエメラルドとホワイトを少し混ぜたような神秘的な海の色。

「潜ってみてえ~!飛び込みてえ~!」を連発する次男。
無人島生活に憧れている彼は、この海を見て「オレ、海の近くで一人暮らしすることに決めた。」と決意表明。
すべてはこれからのキミ。どこへでもお行き~。
これから何者にでもなれるよ~!(今はとりあえず勉強ですな)

 奥の小島は、三四郎島。
ここは、潮の干満によって海が割れて道ができる「トンボロ現象」で有名な場所。
前回来た時には、すっかり海が割れて、幅数十メートルの道ができていて、
一家で夢中になって何時間も潮だまりの生き物を見つけて遊んだものだけれど・・・。

なんと今回は、ここに海の道が開けるとは想像も出来ないほどの満潮。
調べもせずに思いつきで行くのがいけないのだけれどね。ちょっとザンネン!

他の海岸へ移動して蟹探し。石を持ち上げるとチビ蟹があっちへこっちへ逃げ回る。
磯遊びは、やはり春よねえ。
何時間でも遊んでいられるのは、この爽やかな季節だからこそ。春の海だいすき。

西伊豆はどこの海岸も岩がごつごつ、小島がにょきにょき。
あっちもこっちもすばらしい壮大な眺め。
地学を勉強していたなら、さぞや興味深い物件だらけなことでしょう。
海洋地理学とか勉強したら面白そうだなあ。
 

 

街を離れて、いい空気・いい景色の中に身を置くことって、とってもたいせつ。
ニンゲンも生き物。
自然の中にいると、こころとからだを覆う余計なもんがぱらぱらと剥がれ落ちて
素の自分を思い出すことができる・・・ような気がする。 (デビ~ル!ばりばりばりって変身はしないよ)

いろいろ剥がしたい街ビトは、お試しあれ~。




ウオッシャブルなこころ

2013-04-06 | essay

 

思い立って、一泊で西伊豆へ。夕焼けにギリで到着。

高三になる長男は、家でのんびりしとく。というので
次男、末娘を連れて初めての四人だけの家族旅行。
往路、なんだか忘れ物をしているような気分でちょっと落ち着かない。
こうして、子どもはひとりひとり巣立って、いつか二人に戻るのね。 (果たしてふたりで行くのか??)

海に落ちる夕陽って・・・。なんというかなあ~。言葉に表せないほどいいものだよね。
からだとこころに沁み通ってすう~と濾過されていく感じ。
こころって、ザブザブと洗えるもんなんだよ。
それも自分次第だけどさ。

 この4月で、次男中三、末娘小六。シルエットが・・・デカイ。
以前ここ松崎町を訪れたのは4年?5年前かな?
この浜をじゃれあいながら走っていたチビッコな姿を想い出すと
つくづく時間はきちんと経っているのだなあ・・・と思い知らされちゃうね。


陽の落ちた後の空の色と、照り返された雲の色がまたいいんだよね~。

みんなが元気に毎日を過ごせたなら、もうそれで十分やわ~。
って、たいせつなことを思い出させてくれるよな 空の色です。




Question & Answer

2013-04-02 | essay



「もしもさ、ウチら三人のうちのひとりが犯罪者になったら
おかあちゃんどうする?」

台所でくちぶえを吹きながらお皿を洗っていた無心状態のわたしに
突然飛んでくる、11歳むすめの質問。

「え~~~。う~~~ん。 それは・・・お母ちゃん かなしいよ。 ってか、何でその質問?」
と、訊いてみると
漢字の問題で「犯罪」っていう字を書いていたから。だって。やあねえ。

娘はおしゃべりな方ではないけれど
こころの底を突然サーチ・ライトで照らすような質問を時々する。

それによってわたしもまた
自分の思考にはなかったようなことにまで想いを巡らせることになり・・・。
これって、ちょっとした脳トレ?

う~ん・・・我が子が犯罪。。。
それは、親として想像も出来ないくらい辛いことだろうな。
逆境に強いのが売りのわたしでも、それは勘弁してほしい。
ちょっと耐えられそうにない。

近年は、青少年犯罪のニュースを聞くたびに
その被害者・加害者両方の親御さんのこころに想いを馳せることのほうが多くなった。
青少年を持つ親は皆そうなのかもしれないね。

その質問で、なんだか暫し深く考え込んでしまったよ。。。

なので、むすめの質問への答えは、
ダークな思考を断ち切るようにバッサリと
「三人とも優しいから、自分から犯罪に手を染めるようなことはないね。
お母ちゃんには分かる!」 と断言。 (そう強く希望します!)

漢字練習から ドえらくヘビーなテーマが派生してしまった午後のひとときでした~。






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