「縁」って、つくづくフシギ。
みえないラインで繋がっている。
世の中には星の数ほど知らないひとがいて
出逢うことになっているひととは
そうとは知らずにいつの間にか出逢うようになっている。
それはいつからそう決まっているのだろう?
ひととひと。
ひととモノ。
ひとと場所。
繋がる「えにし」のフシギなチカラは、自分のタカラになる。
みえないけれど確かにそこに存在するたくさんの回線に、
こころの底から感謝です(*^-^)/
「縁」って、つくづくフシギ。
みえないラインで繋がっている。
世の中には星の数ほど知らないひとがいて
出逢うことになっているひととは
そうとは知らずにいつの間にか出逢うようになっている。
それはいつからそう決まっているのだろう?
ひととひと。
ひととモノ。
ひとと場所。
繋がる「えにし」のフシギなチカラは、自分のタカラになる。
みえないけれど確かにそこに存在するたくさんの回線に、
こころの底から感謝です(*^-^)/
昭和初期のころの建物に多く使われていた「スクラッチタイル」
いい味わいだなあ~と思う建物にはこのスクラッチタイルが使われていることが多々ある。
古い建築物好き仲間Yさんと 久しぶりに再会。
この日は、お喋りしながらぶらぶら川越近代建築物さんぽ。
スクラッチタイル、ドアノブ、階段のアイアンの飾り手摺りなどなど
古い建物の細部の、すきな部分まで似ている稀少なおともだちYさん。
東京界隈の近代建築はほぼ制覇しておられる彼女が
以前から観そびれているという古い病院へ。
昭和初期のまま時間の止まったような空間。
院内には昔の白い医療戸棚や、
簡素で清潔感のある医療用具がそのままに並んでいるのかもしれないなあ・・・と勝手に想像する。
ぶらりぶらり大通りの近代建築の大御所を眺めつつ 川越スカラ座。
わたし、この横手のトタン感がすきなんです。
お隣、洋食の太陽軒(昭和4年建築)
有形文化財のこのこじんまりとしたかわいい洋食屋さんでお昼にしようと思ったら予約でいっぱいでした~。
こちらも有形文化財。レンガ造りの教会へ。中は拝見出来ず残念。
門がかわいらしい。
レンガの建物だけを見ているとイギリスの田舎にいるみたいな気持ちに。
シンプルなドアもすてきです。
オーソドックスなこのドアノブ。いいですねえ~。
Yさんは、近代建築物つながりで古い邦画にもとても詳しい。
ドアノブや古い鍵、古い病院の出てくる市川昆監督の「鍵」(1959年制作)がお薦めとのこと。深いなあ。
近々探してみよう!
久しぶりの建築散歩。
古い建物は、そこにそうして存在しているだけで、たくさんのことを黙って伝えてくれる。
保存のご尽力に想いを馳せつつ
どうかどれもこれもそのままで・・・と祈ります。
本との出逢いも これまた縁。
ぶらっと立ち寄った古本屋で本の題名を つららら・・・と観ながら横歩き。
ん? 林に住む時期とはなんぞや?と手に取る。
鴨長明的生き方に憧れるわたしにはとても魅力的なタイトル。
それに、五木寛之氏のエッセイは
近年のわたしのこころに、なんだかとても読み心地が良くて消化がいいのだ。
ぱらぱらと本を開いていくと・・・なんと!
「鴨長明」というコトバが目に飛び込んできた~。
すごい。
出逢うべくして出逢う本って、自分が見つける前に
本の方からも絶対「ココダヨオーラ」みたいなの出してる、っていつも思う。
ちょっと読むと、うんうんそうだそうだ!と共感の嵐。
「林住期」 五木寛之著。(幻冬舎2007年発行)
古代インドでは、生涯を四つの時期に分けて考えたのだそうだ。
生まれてからの二十五年間を「学生期」(がくしょうき)
そのあとの二十五年間を「家住期」(かじゅうき)
五十歳からの二十五年間を「林住期」(りんじゅうき)
そこから最後の二十五年間、百歳までを「遊行期」(ゆぎょうき)の四つ。
五木寛之氏は、この五十歳からの「林住期」こそが
人生のクライマックス、黄金期なのだ、と説く。
それまでの五十年は林住期を大きくジャンプするための助走 だという。
(・・・・わたしの場合は、まったくもって助走が足らんのは明らかだ~。)
50歳目前、カウントダウンに入っているわたくし。
年齢に抗う気持ちはあまり持ち合わせていないわたしでも
さすがに50年ってのは大きな節目な気がしてる。
この時期に、人生のヒントが詰まったこの本に巡りあうとは、これぞ必然。
夥しい数の本の中で一冊の本に呼ばれるというこのフシギな瞬間。
こういう奇蹟を「幸運」と わたしは呼びたい。
実は日々あちこちに散りばめられているちいさな「幸運」を
ひとつひとつ見つけてはだいじに拾い上げ、まわりのヒトと共有しながら・・・
いざ、「林住期」へ~!?
内戦後のモザンピーク。「銃を鍬に」という運動のもと、
必要のなくなった武器は、農具や自転車と交換され
回収された武器の一部はアーティストの手でバラバラに解体され
アートの素材として生まれかわる のだそうです。
静かな重厚感のある作品の数々。
この夥しい数の もと武器のすべてが、
アフリカ以外の国から持ち込まれたものであるという事実にも
改めて深く考えさせられてしまいます。
そして、この活動に深くかかわっているのが
なんと、日本の松山市のこどもたちなのだそうです。
えひめグローバルネットワーク という団体のもと、
放置自転車を松山市から譲り受け、使えるように整備したのち
子どもたちの手で磨きあげられメッセージを添えて
モザンピークへと送る活動を続けているのだそうです。
世界の平和を願う。。。子どものうちからそういった活動の一端に携わることで
頭ではなく手や体で、「平和」とはなにか?が、理解できるようになるのかもしれません。
そして、自転車や農具と交換された武器が
こんなふうに「アート」へと変身するのを目の当たりにして、
「平和」こそが文化を生むのだということに、わたしも改めて気づかされました。
(藝大美術館3Fから)
消えてしまったものを偲びつつ
いまもまだカタチあるものをたいせつに。
そして、カタチはなくても
みえない大事なものがあることを
いつでも忘れずにいたいものです。
秋の上野ってすきだなあ。ひろ~い広場と銀杏の黄色。そして おおきな空。
この日は、久しぶりに恩師T先生と待ち合わせて
「モネ展」@東京都美術館 へ。
先生と絵を観にいくのは「真珠の耳飾りの少女」以来のこと。
お元気になられてこうしてきれいな空の下、ご一緒できるのは
とても嬉しいことです。
大人気の「モネ展」
そりゃあ、モネですからね~。
もちろんすごいヒト。それでも並ぶことなく入場できました。
モネは、実は昔から「睡蓮」の一連にはあまりココロを動かされたことがなく・・・。
でも近年、いろんな展覧会で観るモネの、力強い海を描いた絵にこころを揺さぶられ
遅ればせながらモネに魅かれるように。
すきかそうでないか って、「意識」じゃなく「ココロ」の勝手な作用なんだなあ・・・と
この頃、とみに思います。
ひとりの画家が一生絵を描くうちに
どんどんタッチもかわっていくのを観るのってとても面白い。
モネの最晩年の作品を目の当たりにするのは今回が初めて。
睡蓮の頃とは、人格が変わったような豪快な筆捌きに圧倒されるとともに
そこで初めてニンゲン・モネが姿を現わすような・・・不思議な親近感を覚えました。
豪快ななぐり描き、荒い筆の跡、いいんかい?というような 塗り残したキャンバス地に
なんだかちょっとくすっと笑ってしまうほどニンゲンらしさを感じます。
今回のモネ展は、モネ再発見の展覧会です。
そして、おまけにこれまたびっくり。
ショップ出口あたりに、なんとあの田辺誠一画伯の絵が!!
OKでした!
画伯のモネ像、可愛かったです♪
東京都美術館「モネ展」 は2015年12月13日まで開催中です。
ときどき、なんとなく観ていたTVから
ピカッと光るコトバがココロに飛び込んでくることがある。
先日、朝のサワコさんの番組で。
サワコさんに「夫婦円満」と言われたことを受けて
ゲストの岡江久美子さんがひとこと 「楕円ね、だえん。」
なるほどなあ~。
うまいこと言うなあ~。
楕円形って、やわらかくて、円よりクッション性もありそう。
おしどり夫婦の秘訣は「楕円」にアリ とみた!
「諸行無常」は、ひっくり返せば
日々あたらしいということ。
なにが起こるかわからない世の中だけれど
今、目の前にある ささやかなシアワセを
ココロに伝わるちいさな波を たいせつに 生きたいものです。
だいすきだった映画。
特設中古DVDコーナーで350円で売られてるのを見つけて即買いしちゃった!
1986年のアメリカ映画。
マドンナが出てるからって・・・
邦題は「マドンナのスーザンを探して」。なんたるナンセンス。
主演はロザンナ・アークウェットなのにかわいそうだなあ。(って当時も思ったわ)
1988年の「グラン・ブルー」でロザンナ・アークウェットがだいすきになって
当時、出演作を遡って何本も観た。
その中で断トツに面白かったのがこの「Desperatly Seeking Susan」。
久しぶりに観たら
ピチピチのマドンナは確かにビューティフル~。そして若さが・・・眩しい!
ストーリーは、ボタンの掛け違い的な凝ったサスペンス・ラブ・コメディという感じ。
ちょっとB級感があるけれどよく出来ていてとても面白い。
ロザンナ・アークウェットの相手役の俳優アイダン・クイン。
このヒト、この頃すっごくタイプだったっけなあ。
ジョニー・デップ主演の「妹の恋人」でもいい味だしていたけれど
その後そう目立つこともなく、すっかり忘れていたら
つい近年「サラの鍵」でぷっくり中年になったアイダン・クインを久しぶりにみた。
これから先、かえって渋くていい役をするかも。期待しとこう。
そうかあ。気がつけばこの映画、この前観たような気がするけれど
しっかり30年も経っているのねえ。(実際私が観たのは25年位前だけど)
映画の中に漂うムードは、確かにばっちりそのまんまの80’S。
ついこの前・・・が30年前って。。。!
あと20年経っても 「ついこの前みたいな・・」って言ってそうな自分が
おそろしい~。(20年後があるなら~のハナシですが。笑)
ニガテなコト。
「ハッタリ」
手前ミソの自画自賛は得意なんだけれどな。
実力以上にみせるような「ハッタリ」は ニガテ。
自分を、または自分の作品を売り込むためには
時には「ハッタリ」も必要なんだよね。。。わかるんだけど。
体裁をカタチよく整え、ハッタリを上手に使って
のしのし世の中を歩くヒトをある意味尊敬もする。
とはいっても、向き不向きってものもあるからなあ。。。
結局のところ
直感と感性と本能に耳を澄ませながら
わたしはわたしらしい方法で進んでいくしかないってことか~。
ふわふわと流れに漂いながら~ユ~ラユラ。
どこへ流れてゆきましょ~?
知らない町を旅してる夢をみた。
古い建物。
赤茶色の土。
海かと思って出てみたら、大きな川。
滔々と流れる赤茶色の水。 (ミャンマーの映像をニュースで見たからかも?)
川辺の民家には古い三輪車。
「カメラ、持ってくればよかった・・・」とつぶやくわたし。
一緒にいた相手は誰だったのだろう。
知らない国、知らない町を
あてもなく歩きに行きたいなあ。
自分の中でまわる時計。
それは、ひとそれぞれ違ったリズムを刻むもの。
世の中一般の流れとは別の
自分にとって心地よいリズム。
流れに呑まれてあっぷあっぷもがいたり
置いてきぼりな気持ちになったり。
そんなに周りに合わせてばかりじゃ
「自分」を消耗してしまってもったいないよ。
自分のリズム。自分の速度。
それに気づけば、
地球はもっとずっとゆっくり回る。・・・ような気がするんだなあ。
クリスマス的なCMが流れ始めるシーズン。
もうそんな時期なのねえ。と 一年の早さを憂いつつも
そうだそうだ!と お気に入りのクリスマス・アルバムを引っ張り出す。
ダリル・ホール&ジョン・オーツ「Home for Christmas」
このアルバムは、すごくいい。
浮かれ過ぎのクリスマス的じゃないところがいい。
中でも、ジョン・オーツの唄う「The Christmas Song」が聴かせるんだなあ。
ジョンの深い唄声がこのトラディショナルな曲をドラマティックに彩る。
ふたりの間では、常にダリルがメイン・ボーカルだから
あまり気づかれにくいけれど、ジョンの唄声は深くて渋くてとても味がある。
ソウルフルな Daryl Hall &John Oates 「Home for Christmas」
冷えゆくこの季節を、毎年ぽかぽかにアゲてくれるだいすきなアルバムです。