いつの間にかバラの季節がやってきていた。
あちこちの庭で美しく咲き誇る様々な色のバラたち。
バラの季節になるといつも母の育てていた赤いバラと
母と歩いた大阪のバラ園を思い出す。
うつくしく咲き誇るバラに感動しながらふたりで歩いた長居公園のバラ園。
グレース・ケリーがすきだった母が見つけたあの可憐なバラPrincess de Monacoを初めて知ったのもあのバラ園だった。
結婚直前、都内の一人暮らしのアパートを引き払って半年間大阪の両親のマンションで暮らした。
両親の子どもとして最後に家族と一緒に暮らしたいと考えたのだった。
27歳の春から秋までの半年間。
当時わたしはねんどオブジェのフリーランスで時間に縛られる仕事ではなかったので、母とふたりで思い付く限り大阪近辺のあちこちへ出掛けた。
わたしは、ちいさい頃からよく母に付いて歩いた。
近所の商店街でも観光地でもデパートでもどこでも、母とふたりで過ごす時間がすきだったのだ。
あの特別な半年、嫁に入る前に母の娘としてたくさん想い出を作ろうとやけにわたしは躍起になっていたようにも思う。
奈良や京都などの観光地の他にもに自分が生まれた土地、たくさんの想い出が詰まった伊丹の釣り池の跡地へもふたりで出掛けた。
だいすきだった伯母、ちゃこのおばちゃんとの楽しかった想い出の積もった土地。
母としては、一番仲の良かった亡き姉との想い出の土地…。
もうとっくに埋立てられたと思っていた大きな池がそのまま田んぼの用水池として残っているのを目の当たりにした時はふたりで跳び上がって喜んだものだ。
かつてそこに桟橋が架けられ、池に被さるように家が建ち、釣り堀が営まれていたことを偲ばせるものは何も遺ってはいなかったけれど、そこに池が存在し、当時からあった木が成長して立ち並び、池に魚が跳ねるのを見ることができただけで只々わたしたちは幸福な気持ちに包まれるのだった。
こうして時間を経て思い返せば、母とわたしはものの感じ方がとてもよく似ていたのだと気付く。
わたしたちふたりの感動が共振することで様々な出来事がより大きく深くこころに刻まれていく。
すきなものをたいせつに慈しむココロを育ててくれたのは母だったのだと歳を重ねた今よくわかる。
そして、あの半年間の両親との暮らしを選んだわたしの選択が間違っていなかったことも。
あの半年間が正に家族の最期の時間となったのだから。
2年後に父は家を去り別の道を行き、その10年後には母がこの世を去ることになろうとは、この時のわたしもそして母も露ほども知らずにいた。
あれからまた長い年月が経ったけれど、今も花の中に若葉の中に母がみえる。
たくさんの温かいこころをわたしの中に遺してくれた母に感謝している。
当たり前なことは、この世にひとつもない。忘れがちだけれど。
全てが「有り難いこと」とココロでちゃんと認識して味わってあたらしい明日を迎えたいものだ。