時間のしずく time drops 

たいせつなもの。すきなこと。

ありがとうのココロ

2011-12-30 | essay



2011年。平成23年も、終わります。

過ぎた時間は巻き戻せない・・・。あたりまえなことなんだけれど、
わたしたちひとりひとりが痛いほど思い知らされた一年だったよね。

毎日が、二度と来ない唯一無二の日なんだと、天から突き付けられたような思い。
ずっと前からわかっていることなのにね。

明日も笑っていられるように、明日もすきなひとを守ってあげられるように、
ただ、毎日をたいせつに楽しんで生きて、今日のこの日のちいさなシアワセに感謝すること。
わたしは、もうそれしかないように思う。

ココロとココロが通じあって、ほんわり温かい気持ちになれたら
それだけで、十分シアワセだよ。

新しい年。
毎日がささやかに平穏でありますように。
悲しい想いがこの世から少しでも減りますように。

**********************************


今年も想いのままに好き勝手に綴ってまいりました。
こんな一方通行のわたしのエッセイを読みにきてくださる方がいらっしゃること、とても嬉しく思っております。
こころから、本当にありがとうございます。

また思い出した時に、読み流しにいらしてくださいませ。

Don't worry, Be happy!!  新しい年、より良い一年にしてゆきましょう!

                                        「時間のしずく」  miko


      

 


気持ちを継続すること

2011-12-29 | essay



報道ステーションの原発特集をみた。

だんだんと明らかになる愕然とする真実。
政府の後手後手の対応。
日本の原発安全管理のずさんさ・・・。

そして、怖いのは、わたしたち自身の薄れゆく危機感。
少しだけ離れているというだけで、どこかこの現状に麻痺したような状態になってしまいつつある自分・・・。

自分の書いた当時のページを改めて読み返して、自分が感じていた憤りや不安感を炙り出してみる。
ストレス回避の防衛本能が働くせいもあるとは思うけれど、
いつの間にか、この原発事故を深く知ろうとする気持ち、深く考えようとする気持ちが
少しずつ薄まってきてしまっていることに気づいた・・・。
国の酷い対応にうんざりしてしまって、ちょっと目を、ココロを、背けてしまっていた自分に・・・、反省。

古館氏が最後に言っていたように、原発についてこれからも議論を続けて行かなくちゃいけないね。
大人が諦めちゃっていたら、子どもたちだって、そんなもんか・・・と思っちゃう。

想定外なことは、いくらでも起きるという事実。。。

原発は大変危険なものであると実証された瞬間を目の当たりにしたわたしたちは、もう目を伏せていてはいけないのだから。
そして何よりも、まだ全然終っていないんだ、という事実。
チャンネルを変えて!と言う中一の息子に、「あんたがオジサンになるころにもまだ続いている話なんだからよく見とき!」と喝!
自分にも喝!です。






白チェブ

2011-12-26 | essay



だいすき。
チェブラーシカ。

先日、九段下ビルを観に行ったあと、神保町に寄ったら、「ブックハウス」の店内ギャラリーで
「白いチェブラーシカ・フェア」を開催しているのを見つけてしまった!
すきなものには、磁石のように知らぬ間に引き寄せられてしまうんだなあ。



ブックハウスは、近年、神保町に行くと「みわ書房」とともにいつも寄るお店。
よい絵本や、絵本のなかに出てくるめずらしいキャラグッズなども並んでいるので
行くたびにわくわくしてしまうお店なのだ。

思わず、白チェブのくっつき人形とポストカードを買って帰りました。
娘もすきなものが似ていてよかったワ~。娘におみやげってことで、私的衝動買いの自分へのイイワケにできるし!

白いチェブもカワイイねえ。うちに茶色バージョンの同じのがいるんだけれどね。

「すき」って気持ちは、理屈抜きにココロをやわらかくしてくれるよね。
モノでもヒトでも場所でもなんでも「すき」って気持ちを、オトナももっと優先してもいいと思うよ~






サンタはいつくるか

2011-12-25 | essay



娘が、初めてひとりでがんばって作ったケーキ。(スポンジは市販デス)
よくできました。美味しかったよ。

ささやかなクリスマス・イブ  

  我が家のちいさなツリー。

さまざまな時代のクリスマス飾りで盛りだくさん。
ひとつひとつに思い出がいっぱい。一番古いものは、わたしが生まれた頃のもの。
小さい頃から見慣れてしまっていたけれど、よく見れば確かにくたびれているねえ。

奥のサンタの人形は、わたしが小学校一年生の時に祖母からもらったもの。
ぱかっとお腹を開けると、中にあめちゃんの詰め合わせが入っていたんだ。

手前のまるくてかわいいのは、娘が今月「つみき教室」で作らせてもらってきた丸太製。
おとなりのほそサンタは、昨日娘がラップの芯を使って作った出来立てほやほやサンタ。

サンタさんがおもちゃを運んできてくれるのは六年生まで。
小学生でも、信じなくなったらもう来ないんだよ。と子どもたちには小さい頃から言ってある。

中一次男、今年はサンタさんにもらえないものだから、腹いせに現在張り込み中。
わたしから、プレゼントあげたんだけどねえ。

さあ、サンタさん。次男が張り込みに飽きてから、娘にはちゃんと来てね~



 


解体へ・・・九段下ビル。

2011-12-24 | 古い建物 のこと



1927年竣工。九段下ビル
また、歴史ある近代建築が消える。

近代建築好き仲間のYさんから、26日までお別れのイベントをやっているよ。とメールをいただき、
時間をやり繰りして、ひとりで行ってみた。

年明けにはカタチを失うこの建物。。。
これまで、足を踏み入れたことのなかったわたしでも、後ろ髪を引かれる想い・・・。
縁のあった方々の想いはいかばかりか・・・とココロが痛い。

これまでの、たくさんの時間を吸い込んだ壁。

 



「さよなら九段下ビル」というアート展が開催されていて、この空間を壊すことなくアートが展示されている。





たくさんのひとの想いを受けて、最期の日々を過ごすこの建物。。。
こうして、たくさんのひとに、名残惜しまれながら最期を看取ってもらえるのは、せめてものシアワセだよね。。。
もちろん、保存されることが叶うならこのままであってほしいものだけれど。

  なんでも知ってる 「ドア」

 見えない時間の積った階段。



壁に貼ってあった、竣工時の写真。

  

 屋上から。

 



時間の創ったアートだよね。
この、鉄の朽ち具合とコンクリートの弓なり。板の反り具合。
建築はニンゲンが作ったものだけれど、仕上げは長い長い時間の匠のなせるワザ。




 

積年の苔だって、見事。立派な芸術だよ。



 

小窓にまで付けられていた、ちいさなひさしがカワイイ。

 

 

この網が・・・捕らえられた者みたいで可哀相だね。

 

  



  開催はあさっての26日まで。 九段下駅そば、靖国通り沿いです。

気になる方は・・・ぜひ訪れてみてください。

 


森の家

2011-12-23 | essay

  

子どもを通じて出逢ったともだち Sさん一家が、森の中に別荘を建てた。
別荘といっても、ご自宅から自転車で数十分のいつでも行ける場所。

住むためでなく、遊んだり寛いだり、生活から離れてリラックスして過ごすための家。すてきだなあ。
子どもたちがテントを張って泊まったり、
ご主人の音楽仲間の演奏の場となったり、さまざまな文化的な活動の場となっているそうだ。

冬休み前の穏やかな冬の昼下がり、初めてお邪魔させていただいた。
かわいらしい西洋の山小屋風。お部屋の中はアンティークな家具がしっくりくる落ち着いた佇まい。
趣味の本や、楽器だけが置いてあるとてもシンプルな室内。

森に続く小道を見渡す広いリビングで のんびりとハーブティーをいただいていると、
さっきまで街にいたのがウソのよう。
車の音も、雑踏も聞こえてこないここは・・・軽井沢の別荘地?という気持ちになる。

おとなのゆとりの時間。。。いいねえ。

アトリエとしても絶好の場所だわね。普段描かないくせに、なんだか絵が描きたくなっちゃった!
文化的なココロをくすぐられるパワースポットだわ~。

春になったら、今度は一家で遊びに行かせていただきま~す。


 





ガラクタと宝物

2011-12-22 | essay



先日、テレビで「生前整理」のことを取り上げていた。
モノを捨てられないわたしには、たいへん耳の痛い話。

この震災を機に、物に執着しなくなったひとが増えているという。
それは、わたしも同感。
命に代えても守らなければならない「シナモノ」なんてこの世にはない。って、頭ではわかってる。

ずっと以前、ひと月半くらい よその国を旅した。
バックパックには着回しのきく数枚の衣類と必要最低限のモノだけ。
たったこれだけで、生きてゆけるんだな・・・と、あの時気づいたんだけれどな。

ヨメにきてから引っ越しもなく、増える一方のモノだらけの我が家・・・
本当に必要なものは僅かばかりなんだよね。
あとは、ただ取っておきたいだけのモノ。
だって・・・モノにはそれぞれ思い出が詰まってる。
その上、レトロなモノ好き。

小林秀雄の本の中に、ピカソの収集癖のことが書いてあるくだりがあった。
収集癖について問われたピカソが、
「集めているんじゃない。捨てる必要がないだけ。」と言ったという。
いやあ、ピカソさん!わかります。わかります。
そういうことなのよね。捨てる必要を感じないモノがひとよりちょっと多いってだけのこと。
その線引きは個人個人違うもの。
もちろん、明らかに「ゴミ」なのに貯め込むゴミ屋敷はちょっと別問題だけど。

それでも・・・自分が今 この世から消えたら、確かにこの家の中のモノ、夫にとっては半分以上ゴミかもね。
子どもたちは、少しはわたし寄りなので、引き継いでたいせつにしてくれるモノもちょっとはあるかな。
そういえば、ピカソのお母さんは、彼の小さいころからの絵をすべて捨てずにとっておいてくれたそうだ。
以前、日曜美術館かなにかの番組で、そう聞いたことがある。
そういう母親の影響もきっとあったに違いない。

実はわたしも、子どもたちの絵は全部捨てずにしまってある。
広告の裏のクレヨンのぐるぐる描きさえも。
幼い子の絵って、それはそれは可愛くて、一枚一枚が彼らの成長の足跡のようなものだ。
もっとも、三人とも画家にはなりそうもないけれど!

生前整理。 今のうちに自分のものを少しずつ整理していこうかな。大掃除の時期だしね。
思い出はこころの中にだけ取っておけばいいんだよね・・・?

う~ん・・・。捨てることでストレス解消!ってよく言われるけれど
ひとによっては、捨てることがストレスって場合もあると思うなあ。





映画「微笑みに出逢う街角」

2011-12-20 | 映画 のこと

  
 

映画「微笑みに出逢う街角」2002年カナダ・イタリア合作
原題は「Between Strangers」  (このままでいいのにな~)

三人の女性、それぞれの生きる様が、群像劇的に紡がれていく。
各々の胸に抱える過去のこころの傷。秘密。
こころの葛藤と、折り合いをつけながら生きていくものの・・・

それぞれの人生。一度しかない人生。
自分の道を歩き出した彼女たちの ラストの笑顔がとてもいい。


ソフィア・ローレンの100作目の作品なのだそうだ。圧倒される存在感。
美しいひとは、歳を重ねてもやっぱり美しい~。

ちょっと ココロの中で迷子になったときに観るといいかも。って映画です。



ウマ飼いになる

2011-12-19 | essay



図書館で、「小さなウマ飼いになる」という本をみつけた。

ウマを飼う暮らしは、子どもの頃からのゆめ。

ゆめみるのは勝手だからね。
草原の中の小さな家でウマを飼って暮らしてみたい・・・って思ってた。
「ハイジ」や「大草原の小さな家」がだいすきだったから、影響されたのね。

この本には、ポニーなどの小型のウマを飼っている人々の暮らしや、
実際に飼う場合のノウハウなどが書かれている。

街のバス通りの、日当たりの悪い我が家は、もちろん資格なし。(資金もナシ)
わかってるけど、いいんだ~。ゆめはゆめのままでも楽しいもの。

小学生の頃、動物と話ができるようになりたくて、「聞き耳頭巾」がとっても欲しかった。
今もそれほど変わっていないかも。叶うことなら、話せるようになりたいものだ。

子どもの頃にすきだったことは、きっと誰でも、今でもすきなはず。
普段のオトナの暮らしに埋もれてみえなくなっているだけだ。
ココロの蓋をしている「生活」を、ちょっと横にどかせて、ココロの奥を覗き込んでみたら
忘れていた生粋の自分が見えてくるかも???

ま、とりあえず、年末ジャンボでも一枚買ってみまひょかー。
大当たりなら、ウマにぴったりな気候の草原の丘に家を建てて移住しま~す。
海外もいいな。

とうとう、ウマ飼いになる!?


ともだち巡り

2011-12-17 | essay



このところ、時々、しばらく逢っていないともだちに逢いに出かけている。

近頃、誰もが同じコトに気づいている。オトナは誰でもココロの端っこで感じていること。
 ≪自分の手持ちの時間には限りがある≫

だから、逢いたいひとには、逢いに行くのだ~。

子育てに追われる時期は、自分だけの時間などなかなか取れないもの。
三才違いで三人の子どもを出産して育てているうちに、十年なんて矢の如し。

先日、十数年ぶりに再会したのは、昔、仕事で出逢ったともだち Zチャン。
電話やメールで、近況を報告しあってはいたけれどタイミングが合わず、なかなか会えずにいた。

誰かのコトバにあったけれど、「時間がないと嘆いていないで、時間は自分で作り出すもの」なんだよねえ。

ダブルワークで、ふたりの娘を育てるシングルマザーの彼女。
茗荷谷の彼女の仕事場の近くで、久しぶりにランチを食べながらしゃべるしゃべる。十年分だからね。

昔から、誰よりもパワフルでバイタリティ溢れる彼女。
たくさんいろんなことがあったし、辛いことだってくぐりぬけてきたけれど、
その持前の前向きな明るさとパワフルさは健在で安心した。

よく天現寺近くの彼女のアパートにみんなで転がり込んでは朝まであれこれ夢を語り合ったりしたものだ。
彼女と話していると、いつも不思議といつの間にか自分にもパワーが湧いてくる。
昔と同じに、今回も気付いたらたっぷり充電させてもらっていました。ありがとう!
次のステップに向けてガンバル彼女に触発されて、わたしもガンバレル気持になったよ。

春になったら、同学年のお互いの娘も連れてちょっとした遠足にでも行こう!と約束して別れた。

今まで出逢ったたくさんの人々。
ひとりひとりから、いろんな影響を受けて出来上がっている今のわたし。
この世でたいせつなものは、感謝のココロと、アイだねえ~。

まだまだ、逢いたいひとはたくさん。
わたしのともだち巡礼、これからものんびりと続きます。




冬の動物園

2011-12-16 | essay



動物園に行きたくなるのは、なぜかいつも冬の晴れた日。

震えながら皆既月食を眺めた翌朝は、暖かな小春日和。
思い立って、お昼から娘とふたりで上野動物園へ。

前回行ったのは、ちょうど2年前のやはり12月だ。
娘のすきなエリアをのんびりと歩く。
長男次男が小さい頃は、駆け足で全部見て回ったものだけれど、
娘もわたしもすきな動物だけじっくり眺めていたいタイプ。
ふたりで行くと、回るのは全体の3~4割といったところ。



お昼寝中のライオン。丸まり方はネコとおんなじね。


 

ゴリラたちの行動は見ていて全然飽きない。
彼らなりにいろんなこと、考えているんだろうなあ。。。

手が届きそうなくらい間近で見れるツキノワグマ。
ちょっとねむたそう。そういえば・・・動物園では冬眠しないのかな?

うちのぬいぐるみにそっくりだ。よく見ると案外鼻が高いのねえ。

そして・・・やっぱり、せっかくだから、会って帰らないとね。おニューのパンダさん。

 夕方には行列も消えていて、ゆっくりご対面。

とうとうキミたち、海を渡って連れて来られちゃったねえ。。。
でも、とっても元気そうに動き回っていて、ちょっとホッとしました。



動物園を出る頃にはもう陽も暮れ始め、葉の落ちた桜並木のシルエットがとても綺麗でした。

 近頃、ぷち・カメラ女子な娘9歳、動物の写真のほとんどは娘が撮影

いつまでこうして、ふたりで動物園に来れるかな~?






ニュースのニュアンス

2011-12-15 | essay



耳にするたび、ココロを逆なでされるような気持になるフレーズがある。

海外で起きた事故や事件を伝えるニュースのなかで、
アナウンサーが「被害者に日本人は含まれていません」 と述べるフレーズ。
なんだか、ひとの命を国別に括るようなこのコトバが わたしは嫌いだ。

大人となった今でこそ、その国に家族や知人が渡航しているひとに向けて発信された言葉なんだと
頭では理解できるのだけれど。
子どもの頃 この言葉を聞くたびに、日本人が被害に遭わなきゃそれでいい、みたいに聞こえてしまって
ちょっと哀しいような・・・、嫌な気持ちがしていた。
センシティブ過ぎるコドモだったせいかもしれないけれど。

でも、今でも悼む気持ちより先に「日本人は いなくてよかった」という気持ちを露わにしているような
利己的なコトバに聞こえてしまう・・・・。 
そう思うニンゲンがひとりいれば、他にも多数いるはずだよね。

日本語は難しい。ことばの奥や隙間や裏側にまでさまざまなニュアンスが忍び込む。

ま、そんなふうに思うわたしがひねくれ者なのかも?
もしくは、前世は日本以外の異邦人ね。





茶色い映画

2011-12-14 | 映画 のこと



映画好き仲間Mサンと、昔観た映画の話をしていて
なかなか題名が思い出せない作品があった。

ポール・ニューマンとロバート・レッドフォートが賭博で儲けるコメディ。ほら、あれ。
お互いに映像は頭の中に浮かんでいるのに、出てこないんだなあ。
好きな映画なんだけれど。

しばらくしてから、「スティング」!!って思い出したんだけれど、
思い出す前に、様々な70’sの映画がお互いの頭をよぎる中、
Mサンが、「70年代の映画ってさ、なんかどれも茶色くない??」と言いだした。

いや、ほんと!
なんだか、どれも埃っぽい茶色い映像が脳裏に浮かぶんだ。
イーストウッドのダーティー・ハリーとか、マックイーンの映画とか、
ポール・ニューマンや、レッドフォードの映画も不思議とどれも埃っぽいキャメル。
あれって、映像技術のせい?
それとも、あの時代のフィルムの色?
はたまた、埃っぽい西部が舞台の映画が多すぎるせいかも?

それにしても、東部が舞台の映画でも、洋服のイメージもキャメル色が多い気がするなあ。

「70’sの映画は茶色い」
なかなか面白い大発見かも!







感情のトラップ

2011-12-12 | essay

 


「脳」の働きって、まだまだ解明されていないことだらけらしい。
感情の回路が混線して、自分が感じている気持ちさえ読み間違えることって
きっとあるに違いない。

寂しい気持ちと、いとしい気持ち とか。
共感と愛情 とか。
厭悪と羨望 とか。

自分でそう想い込んでしまっているだけで
ただ回路が接続ミスを起こしているだけってこともあるかもしれない。

自分の脳に騙されてしまっても、それはそれで面白いけれどね。

すっかり想い込む前に、はて?と確かめる別回路の感情も必要よね。
自分を 斜め上から客観視する自分。

自分なりに、客観視する自分を持っているつもりだけれど、
本能と直感が最優先なわたし。
たまには、それだけじゃ暴走しかねないかも?と考えたりするオトナな脳の回路も必要なのかもね。

なあんて。 いまさら?って感じもするけれど?






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