ずっと以前、子どもたちが小さかったころ
近所の公民館の子育て講座で拝聴した ジャーナリスト青木悦さんの講演会。
その中で聴いた、忘れられない言葉がある。
親が掲げてしまう“幻の子ども像”についての話の中の言葉。
「先生の号令に一番に列に並べる子は、校庭の隅に咲く花には気づかない。
校庭の隅の花に感動してうずくまって眺める子はすみやかに号令には従えない。
これをひとりの人間が同時に行うことは不可能。
そしてここに優劣はない。それぞれが違うというだけです。」
この言葉は、子育てに悩む新米ママだったわたしに答えを授けてくださった。
集団行動が苦手でマイペースな園児だった長男に
正にぴったり当てはまり
自分が、愚かにも彼を枠にはめて世間一般の尺度で測ろうとしていたことに気がついた。
他の誰でもなく、この子はこの子。
これは彼の個性であり、長所なんだと、俯瞰から眺めることができるようになった。
子どももひとりひとり個性があって当たり前。
大人が描く理想の子どもなんてどこにもいない。
あの時、青木悦さんの言葉と出逢わずにいたなら、
もしかしたら、わたしは彼のこころの自由を奪っていたかもしれない。
他の子どもと常に比較して、窮屈な世界に押し込めていたかもしれない。
目の前の等身大の我が子を、ありのままに
自然の樹木のように伸びゆくのを見守る。。。
これは、実は本能に従えば少しも難しいことではないのに
親はつい、葉を切り、枝を矯め、
都合のよいように伸びる方向を矯正しようとしてしまう・・・。
この盆栽型の教育は、日本の学校教育の根っこにもある。
そして、学校でそういう教育を受けて育ったわたしたち大人は
それが当然のようにまたもや学校の枠に子どもを嵌めてしまう。。。
枠を造ったのは、太古の神ではなく、ほんの近代のニンゲンなのだから
枠に収まらない子どもがいたって不自然なことでは全くない。
収まれないことを適応不能な不良品の如く思ってしまう世の中のおとなも、
自分が規格外のように思わされてしまう子どもも、両方が悲劇だ。
みんなそれぞれ持ち味があることを認め合える世の中であればいいのにな。
秩序や規律は最小限に、もっと自由に
自然に枝葉を伸ばすことのできる子ども時代を
すべての子どもたちに送らせてあげたいものだな。
ひとは、自分の生きやすい時間の流れを持っている。
一日は24時間、と決めたのもニンゲンだけれど
こころの速度、生きる速度は自分なりのものでいい。と、わたしは思う。
何をゆめみたいなことを・・・アホちゃう? って思うひともいるでしょう。
敢えて、大人にこそゆめみたいなことが必要なんじゃないかな~。
あの時出逢えた青木悦さんの言葉に、今でもこころから感謝しています。