酷くせつない夢をみて、涙で目覚めた。
目が覚めて、もう イナイんだということを改めて思い知る。
もう大丈夫。って自分では思っていても
またふいに引き戻される。
波打ち際の小さな流木みたいに。
行きつ戻りつ。
世界中の誰もが、それぞれに抱えている いろんな想い。
それぞれの痛みはそのひとだけのもの。
代わってはあげられないし、代わっても もらえない。
それぞれの痛みの重さは、比べられるものじゃないよね。
おとなだって、我慢ばっかりせずに
たまには声を上げて泣いたっていいんだよ。
思いの外、スッキリするから。
ポーランド映画「木洩れ日の家で」2007年
現代の映画なのだけれど、とても美しいモノクローム・フィルムで製作されている。
森の中の古い木造のお屋敷に ひとりで暮らす老婦人。
そこで生まれ育ち、結婚して子どもを育て上げ、年老いて独りになった今までの
すべての時間を過ごしたその家は、彼女の人生そのもの。
たくさんの想い出と共に暮らしている。
主演の女優さんは、撮影時91歳!老いてなお美しく 気品に溢れる女性。
共演者とも言うべき飼い犬、フィラデルフィアの表情と演技がこれまた素晴しく愛らしい。
犬好きのひとが、犬観たさだけで観たとしても、十分満足できる映画かも。
こんな賢い犬と一緒なら、年老いて独りで暮らしても寂しくないかもしれない。
なんといっても、この映画に出てくる古いお屋敷がいい。
かなりガタがきているのだけれど、とても味わい深くて
映画のなかとはいえ、すべて隈なく観て歩きたいくらい。
森の中のこんな家に住んでみたいものだ。
この映画、確かにモノクロがよく似合う。
美しいモノクロームの木洩れ日。揺れる木の葉。。。
映画を観ながら、これに色があったら・・・って想像してみた。
やっぱ、違うわ。この清潔感のある静謐な空間はモノクロでこそ。
歳を重ねたら、俗世に囚われず 白と黒のモノクロの世界のようにシンプルに生きたいものだなあ。
そういえば。
森の中のシーンを観ていたら、昔みた「グッドモーニング・バビロン」を想い出した。
あの映画、もう一度観たくなっちゃたなあ。
ドレミファブックのB面の物語のなかで、子どもの頃すきだったもののひとつ。
「ハンメルンのふえふき」
ご存知、 「正義」の物語。
ねずみが大量発生したハンメルンの街に、ひとりの男が現れて
市長と ねずみ退治をしたら報酬をもらうという約束を交わす。
不思議な音色の笛で、ねずみを操る男。
最後の一匹まで残らず退治した男に、市長は難癖をつけて約束を破棄してしまう。
約束を守らなかった市長を懲らしめるため
翌日男は、大人達が教会に出掛けている間に今度は笛の音で
街の子どもたちを操って山へと連れ去ってしまう。
「子どもを連れて帰ってくれよう、約束は守るからよう!」と、
慌てて山へとふえふき男を追いかける市長と街の大人たち。。。 という物語。
「正義」とは?「約束」とは、なんたるかを、シンプルに教えてくれるこの物語は
痛いしっぺ返しの教訓と共に、小さかったわたしのこころに大事なことを植え付けてくれた気がする。
「ズルイオトナ」になってはいけない。って、子ども心に思ったもの。
ねずみが川に飛び込むのは憐れで怖いんだけれどねえ。
そして、うっかり操られてしまうようなことが、人生に起きるかもしれないという怖さも・・・。
たくさんの絵本を読み散らかすよりも、
何度も何度も同じ物語を読み返すことって、実はとてもたいせつなことかもしれないね。
「ドレミファブック」は、愛読した子どもたちの人格形成に
大いなる影響を与えてくれたんだなあ・・・と、大人になった今だからこそ思う。
素晴しい音楽と絵と物語のセレクトで、たくさんたいせつなことを教えてくれた世界文化社さんの
「ドレミファブック」に、今更ながら お礼を言いたいくらい。
(定期購読して与えてくれた亡き母にもね。)
もう手元にドレミファブックがなくても、そう感じている同世代の方々って
実はかなりいらっしゃることだろう。もしかして、記憶がおぼろでも、ね。
ココロには きっと沁み込んでいるはず。
東久留米駅にて
昔のひとは、この関東平野のかなりの広範囲からこの富士山の姿を拝めたのでしょうね。
この建物が、すべて平屋だったら・・・?と想像してみる。
富士信仰のキモチが、今わかりました。
この小さな島国 日本が平和であれ。。。と祈ります。
夢の中でだけ、行ける場所。
子どもの頃から、時折夢に出てくる ある場所。
久しぶりに夢で見たのか、ふいに記憶が表面化したのかは わからないけれど、
もうほとんど その場所を忘れかけていたのに、何故かはっきりと想い出した。
その場所は、巨大な博物館のようなところで
各階、様々な物が天井まで所狭しと展示されており、自由に見物できる不思議な場所。
生き物がたくさんいるような興味のある階と、宇宙とか飛行機とかの全然興味のない階があったりして、まさに、図鑑の立体版だ。
それでも、整然と並んでいるのではなく、混沌としたごちゃまぜカオス感がまたよかったんだ。
子どもの頃は、夢の中でこの場所に行くことがかなり頻繁にあって、
夢の中でも、「あ、またここに来てる・・・」って意識があるんだな。
それで、そこに初めて来るともだちを、夢のなかで案内したりする。
この子は、ここより、あの階がいいかな。とか、
今日はこの階は飛ばして、あっちを観ようとか。
いつの間にか、あの場所に行くことはなくなっちゃった。
クリスマスの前にだけみる 全館お菓子だけを売っているデパートに行く あの特別な夢も
もうみなくなって久しい。
オトナになっても、「自分」だけは変わらずにいようって子どもの頃思っていたけれど、
大人になる過程で、我知らずいろんなものをあちこちに落っことしていってしまうんだな。
そしてみる夢まで変わっていく。
誰にでも、そう言えばよく夢で行ったなあ・・・って場所があるんじゃないかな。って思う。
意識に上らないだけで。
わたしが行かなくなっても、あの場所はあのままに今もまだ夢の世界に存在していたらいいな。
現在の子どもたちが同じように 夢の中で訪れていたりしたら・・・面白いんだけどな!
映画「ジョージ・ハリスン リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」を観に行った。
監督は、あのマーティン・スコセッシ。
ビートルズ解散後のジョージ・ハリスンの活動を わたしは詳しくは知らなかったのだけれど、
奥深いジョージ・ハリスンの世界はたいへん興味深いものだった。
深い親交のあった友人たちのインタビューと、さまざまな映像で人生を追ったドキュメンタリー。
中でも、自宅の庭でのプライベートフィルムと息子さんのインタビューはとてもこころに残る。
どこまでも深い精神世界の探究と、それでも俗世に舞い戻らずにいられないニンゲンらしさ・・・。
ジョージの語るコトバには、とても共感する部分が多い。
ビートルズの楽曲のなかで、昔からすきな「While My Guitar Gently Weeps」。
とても哀愁のあるこの曲・・・、彼の深い想いが籠っていたんだなあ。
しかも、この曲のギターを弾いていたのはクラプトンだったとは今まで知らずに聴いていて驚いた。
3時間半という長い映画だったのだけれど、吸い込まれるように見入ってしまってあっという間。
George Harrison
自分に与えられた生、自分で掴み取る生。。。
著名なひとの中でも、人生をこんなにまで深くとことん生き抜いたひとってそうはいないんじゃないかな。
自分らしく生きるとはどういうことか。
自分らしく終わりを迎えるということは?
とても考えさせられる映画だった。