:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇暗殺事件-5(完結編)その-3

2011-03-18 19:10:43 | ★ 教皇暗殺事件

ローマの新聞に出た福島の原子力発電所第3号基の爆発の瞬間の写真。

わたしは同様の映像をNHKのインターネットニュース速報でも、日本の新聞の記事の中でも

見なかった。これを見て私はショックを受けた。最初に頭に浮かんだのはニューヨークの9.11の

世界貿易センタービルの姿、ついで広島の原爆のきのこ雲だった。

これがただの水素爆発?

 

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教皇暗殺事件-5(完結編)その-3

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突然の大地震、続く大津波、さらに、まるでとどめを刺すかのような深刻な原発事故・・・。海外にいながら、日々のルーティーンを上の空でこなす他は何も手につかず、ひたすらインターネット版NHKニュースやイタリアの新聞に釘付けになって、茫然自失していました。自分のブログが実にチンケなものに見えて、書く手が萎えていました。今ごろになって、ようやくのろのろとキーボードに向かう次第です。さて: 

ファティマにおいて1917年7月17日に明らかにされた秘密の第3部は、教皇庁教理省の「最終公文書」に記載されている1944年1月3日付けの「ルチアの手記」によれば次の通りでした: 

「既に述べたあの二つの啓示のあと、わたしたちは、マリアの左側の少し高い所に、火の剣を左手に持った一人の天使を見ました。この剣は、まるで世界を火で焼き尽くさんばかりに、火花を散らして光り輝いていました。天使は、右手で地を指しながら大声で叫びました。『悔い改め、悔い改め、悔い改め』。それからわたしたちには、はかりしれない光-それは神です-の中に、『なにか鏡の前を人が通り過ぎるときにその鏡に映って見えるような感じで』白い衣をまとった一人の司教が見えました。『それは教皇だという感じでした。』そのほかに幾人もの司教と司祭、修道士と修道女が、険しい山を登っていました。その頂上には、粗末な丸太の大十字架が立っていました。教皇は、そこに到達なさる前に、半ば廃墟と化した大きな町を、苦痛と悲しみにあえぎながら震える足取りでお通りになり、通りすがりに出会う死者の魂のために祈っておられました。それから教皇は山の頂上に到達し、大十字架のもとにひざまづいてひれ伏されたとき、一団の兵士たちによって殺されました。彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました。同様に、他の司教、司祭、修道士、修道女、さらにさまざまな地位や立場にある多くの信徒たちが、次々に殺されていきました。 

 これが1917年5月13日に10歳のルチアに聖母マリアから託されたメッセージの第三部の核心部分です。 

第二のメッセージに第一次大戦の終結が予言されていましたが、予言通り、その翌年1918年に終結しました。 

しかし、その予言の中では、「もう一つのもっとひどい戦争」、つまり、第二次世界大戦の勃発と、その予兆として不思議な光の現象に言及されていました。そして、予言の通り、「1938年1月26日夜9-11時にかけ、西ヨーロッパ全域において異常なオーロラに似た色光が輝きました。これは説明のつかない現象として、当時のヨーロッパ諸国の新聞にも大きく報じられた」と言う記録もあります。 

その翌年の1939年に、ヒトラーのポーランド侵攻とともに第二次世界大戦は始まり、世界中を悲惨な戦乱に巻き込んだ後、1945年に広島と長崎の二発の原爆の悲劇でようやく幕を閉じました。 

さらに、第二の予言はロシアの問題に及んでいます。

ファティマの予言があったのと同じ年、ロシアでは2月革命と10月革命が起こっていましたが、1922年の内戦終結とともに、ソビエト社会主義共和国連邦が樹立されました。

1945年に第二次世界大戦が終わるやいなや、戦後処理を巡って東西が対立し、いわゆる「冷戦」(武力衝突を伴わない戦争)に突入した。それは核軍拡競争と大陸間弾道ミサイルの開発、核戦争のための宇宙開発にまで発展しました。冷戦は1989年のマルタ島におけるブッシュとゴルバチョフによる終結宣言までつづきます。

ウイキぺディアの記述によれば、「教皇ヨハネ・パウロ2世は、2005年4に発表された遺言において核戦争なしに冷戦が終結したことを神の摂理として感謝している。」また、「2006年1月に機密解除されたポーランド政府の秘密文書によると、1960年代から1980年代にかけて、ソ連とその同盟国は西ドイツやオランダを大量の核兵器で攻撃する態勢にあった。犠牲者は、ポーランドだけでも最大200万人と試算されていた」と言う話もあります。

ファティマの第二の予言の末尾には、「もし、わたしのこの要請を受け入れるなら、ロシアは回心し、平和が訪れるでしょう。さもなければ、ロシアは、戦争と教会への迫害を推し進めながら、自分の誤りを世界中にまき散らすでしょう。善良な人々は殉教し、教皇は非常に苦しみ、多くの国々は滅ぼされるでしょう。けれども、最後には、わたしの汚れない心が勝利するでしょう。教皇は、ロシアを私に奉献し、ロシアは回心し、世界に平和の時が与えられるでしょう」。と言うマリア様の言葉がありました。 

 

大規模な核戦争が回避され、冷戦が無事終結した陰には、教皇ヨハネ・パウロ2世の熱い祈りと、無数の隠れた小さい魂たちの祈りと犠牲があったと考えるべきでしょう。また、それと同時に、ポーランド出身の教皇の卓越した人柄と手腕に負うところが大きかったと思われます。 

ここまで、前置きが実に長くなってしまいました。いよいよ問題の核心に入ります。それは、ファティマの第三の予言と教皇暗殺未遂事件との関係をどう理解するべきかと言う点です。 

教皇狙撃事件の9年後の2000年4月19日に、教皇ヨハネ・パウロ2世は第3の秘密に関して、その秘密を書き残したシスター・ルチアに幾つかの質問をするために、ベルトーネ大司教(現在の国務長官ベルトーネ枢機卿)を送りました。 

「第三部の中心人物は教皇ですか」と言う質問に対して、シスター・ルチアは「はい」と答えました。ルチアは続いて、「教皇の名前は分かりませんでした。マリアは、教皇の名前をおっしゃいませんでした。ベネディクト15世カ、ピオ12世か、パウロ6世か、ヨハネ・パウロ2世か、わたしたちには分かりませんでした。しかし、自ら非常に苦しみ、わたしたちをも苦しみに誘うのは教皇でした」と説明しています。また、こうも付け加えました。「わたしは、見たことを書いたまでです。解釈するのはわたしではなく教皇です。」と。 

(つづく) 

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★ 教皇暗殺事件-5 (完結編)その-4

2011-03-18 19:08:56 | ★ 教皇暗殺事件

(つづき) 

その教皇たち。ルチアがマリアのお告げを受けた時既に教皇であったベネディクト15世から、ピオ11世、ピオ12世、ヨハネス23世までは、教皇が生命を狙われたというような記録はありません。 

第3の秘密の封印が解かれた1960年後に教皇になったパウロ6世は、その秘密を読んで「内容の重大さにショックを受けて卒倒し、『これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持って行く』と言って、発表を差し止めてしまった」と言うような話がありますが、もしそうだとすれば、パウロ6世教皇は、自分が暗殺の犠牲者だと早飲込みして、自分の殺される時にこの秘密を一緒に葬ろうと考えたとも受け止められます。しかし、当の教皇は81歳まで在位して何事もなく亡くなり、第3の予言はそのままバチカンの奥に保管されたまま残りました。 

その次に教皇に選ばれたのが、ヨハネ・パウロ1世でした。彼は教皇在位33日目に突然不審の死を遂げます。第二バチカン公会議の決議事項の実施やマネーロンダリングの温床と目されたいわゆる「バチカン銀行」の改革などで、大幅な人事異動を発表する前夜に死亡したということで、司法解剖もせずそそくさと葬ったリして、謀殺説や証拠隠滅の疑いが囁かれています。これは、ファティマの第3の予言と無関係だったでしょうか。 

無念の死を遂げたヨハネ・パウロ1世の遺志を継ぐかのように、ヨハネ・パウロ2世は、東欧の民主化、反共のために働くとともに、回勅で妊娠中絶や安楽死を「死の文化」と呼び、それに対して「生命の文化」を提唱するなど、世俗化した現代社会に対して厳しく警鐘を鳴らしました。彼は、2005年2月23日に著作「記憶とアイデンティティー」においてファティマのメッセージの全容に関する解釈を開示し、「1981年5月13日の狙撃事件の背後には、20世紀に生まれた暴力的なイデオロギーに属するしっかりした組織があった」と述べていますが、具体的には、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャを使ったKGBによる組織的犯行だったとされています。

教皇庁の「最終公文書」によれば、当時の国務省長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿はその声明のなかで、教皇の暗殺未遂事件とファティマの予言との関係について、「ファティマの『秘密』の第3部に関わると思われるいろいろな出来事は、もはや過去のことに思える」と語っています。

果たしてそうなのでしょうか。

 ルチアの設けた1960年までと言う封印期限が過ぎて初めて読んだパウロ6世は、予言通り死ぬ運命にある教皇は自分だと思い込んだふしがあるが、実際には何も起きませんでした。

謀殺された可能性が高いヨハネ・パウロ1世は、ルチアの予言にあるように銃弾によるものではなく、毒殺の可能性が指摘されています。しかし、「白い衣を着た司教」(教皇)が殺されたのだとしたら、ファチマの予言と無関係とは言えないのではないでしょうか。

2発の銃弾を受けて致死的重傷を負ったヨハネ・パウロ2世は、奇跡的に一命を取り留めました。狙撃事件のあと、ジェメリ病院に入院中だった教皇自身が、「瀕死の教皇が死の際に」とどまるよう、「銃弾の軌道を導く母の手」のあったことを認めました。一命を取り留めたということは、別の見方をすれば「未遂」に終わったということでもあります。未遂なら、まだこれからもあるかも知れないでしょう。現に、あまり知られていないようですが、狙撃事件から満一年目の1982年5月、ファティマの記念日にその地を訪れたヨハネ・パウロ2世は、再び刃物で襲われて怪我を負っています。

前述の国務省長官ソダーノ枢機卿の表現を注意して読むと、「1989年に相次いで起きた事件(注:ペルリンの壁崩壊など)は、ソビエト連邦においても東欧諸国においても、無神論を標榜していた共産主義体制の崩壊をもたらしました。このためにも教皇は、心の底から聖なる乙女マリアに感謝しておられます。しかし、世界の他の地域における、苦しみの重荷を負う教会とキリスト者に対する攻撃は、残念ながらまだ終わっていません。ファティマの『秘密』の第三部に関わると思われるいろいろな出来事は、最早過去のことに思えるとしても、聖母マリアから20世紀の初めに呼びかけられた回心と償いへの招きは、今日もなお時代性と緊急性を残しています。」と記されています。

 と言うことは、状況はまだ変わっていない、第3に秘密は今も有効であるということではないでしょうか。ソダーノ枢機卿は「教皇たちに導かれた一つの終わりのない『十字架の道』です」と言う表現を使っていますが、それも同じ解釈に道を開くものではないのでしょうか。聖ペトロ広場でのヨハネ・パウロ2世の狙撃事件は、背後に大組織があったことは知られていますが、撃ったのは一人のテロリストで、発射された銃弾は2発だけでしたが、ルチアの「秘密」によれば、教皇は「一団の兵士たちによって殺され」、「彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました」とある。これはあくまで象徴的なヴィジョンであって、殺されるのがどの教皇か特定されていないように、犯人は一人か、複数か、ピストルかライフルか、また2発だけか多数の銃弾か、ナイフか矢か・・・、はたまた毒殺か、などの詳細も示されていないのかもしれません。既に二人の教皇が標的になり、一人は実際に殺された、とすれば、3人目は絶対に無いと、誰が断言し切れるでしょうか。

 わたしは、この2年余りの間ローマにいて、何度も教皇ベネディクト16世の姿を間近に見る機会に恵まれてきましたが、ブログにそのことを報告する時は、ほとんど毎回、教皇の警備が目立って厳しくなっていることを指摘し続けてきました。それぞれの教皇の個人的んキャラクターの違いによる面もあるでしょうが、ヨハネ・パウロ2世の場合は、全く無防備と言ってもいいほど群衆に身をさらし、人々に積極的に近づき、セキュリティーの人間がめざわりになることもなかったのに、今の教皇の場合は、もうなりふり構わず安全第一主義の警備体制をひいています。まず、謁見の会場のみならず、聖ペトロ大聖堂に入るためだけにも空港並みにX線による所持品チェック、ボディーチェックに始まり、教皇が大勢の人に接する場所には何十人のボディーガード、セキュリティーマンが、ダークスーツに身を固め、湧きの下にはピストル、耳にはイヤホーン、袖口には隠しマイクを忍ばせたいかつい男たちが、実に目障りなほどうようよしています。

新しいパパモビレ。秘書などの側近は乗せず、運転手は低い位置に。その周りを、大勢のセキュティーが取り囲んでいる。

 膨大な経費のかかるこのような警護は、1981年5月13日にヨハネ・パウロ2世を襲った狙撃事件を上回る攻撃を想定してのことでなければほとんど説明がつきません。

 第三の「秘密」の「最終公文書」の半分近いページ数を費やして、当時教理省長官だったラッツィンガー枢機卿(現教皇)自らが、ファティマの出来事に関する「神学的考察」を書いていますが、そのことからも、同教皇が如何にこのファティマの秘密を重く真面目に受け止めているかを示しているものとわたしは考えています。

そして、教皇になった今、恐らく彼は自分自身が次のターゲットであることを強く意識しているのではないかとわたしは考えています。

近くに彼を見、また遠くから彼の表情をカメラの望遠レンズにとらえて見る度に、わたしはついそのような想念の虜になるのです。

だからと言って、現教皇が襲われ、死ぬと断言しているわけではありません。そんなことがあってはならないし、避けることも可能でしょう。避けるためには、マリア様の警告を自分に向けられたものとして真摯に受け止めて、各自が、そして全ての信仰者が、回心に努め、償いの技に励む以外に無いでしょう。歴史のコースは人間が選ぶもので、人間はそれを変えることができる。

  (おわり)

    

教皇ヨハネ・パウロ2世の脇腹を貫通しジープの床にころがった銃弾は、ファティマのマリア像の冠の中に埋めこまれた。水色の玉の下に見えるのがそれだろうか。

 

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