:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 教皇暗殺事件-4

2011-03-01 23:48:48 | ★ 教皇暗殺事件

 

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教皇暗殺事件-4

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 前回、私はスタニスラオ枢機卿の教皇暗殺事件に関する記事の前半を紹介しました。ここに後半の全文を記載します。原資料を共有したうえで、この事件をどう受け止めるべきかを、ご一緒に考えて行きたいと思います。




 約5時間半後、誰か-それが誰であったかもはや顔を思い出せないのだが言葉ははっきりと覚えている-その誰かがやって来て、手術は終わった、全てうまくいった、だから生存の可能性は高まった、と言った。 

 集中蘇生室に移された。教皇は次の日の未明に麻酔の眠りから醒めた。目を開くと、まるで私が誰であるかを思い出すのに難儀しているかのようにゆっくりと私を眺めた。そして、言葉少なに「痛い・・・、喉が渇いた・・・」と話した。そして「バケレットのように・・・」と言った。明らかに、一年前に赤い旅団によって殺害されたヴィットリオ・バケレット教授の身に起こったこととの間に、何らかの類似性を思ったようであった。 

 短くまどろんだ後、教皇は朝方に目を覚まし、あらためて私を見た。今度ははっきりとわかった。信じられないことには、「私は終課の祈りを唱えたか?」と私に聞いた。まだ513日のうちにいると信じていたようだった。 

 最初の3日間は実にひどいものだった。教皇は絶え間なく祈っていたが、非常に、非常に苦しんでいた。しかも、自分のこと以上にヴィシンスキー枢機卿(訳注:共産政権下で捕らえられ、長年獄中生活を強いられた)の差し迫った死を思って苦しんでいた。それは、内面的な、過ぎ去ることのない深い苦しみだった。 

 私は、事件の2日前、ワルシャワの館に重病のためにもう寝たきり状態になっていた枢機卿を訪ねた。教皇が私にわざわざ彼を訪問させたのだった。枢機卿はもう自分の最期が近付いていることを知っていた。しかし彼は落ち着いていた。彼は神のみ旨に完全に自分を委ねていた。私たちは長く話し合った。彼は、自分の最後の望みを教皇に伝えるようにと願った、そして教皇に宛てて一通の手紙を書いた。 

 ところが、事件のことと、教皇が死ぬかも知れないことを知らされると、彼は-何と言ったらいいか-急に生きることに執着しはじめた。彼は、成り行きを確かに見届けるまでは死ぬことを拒んだ・・・そして、その為になんと3週間にもわたる悲痛な断末魔の苦しみに耐えた。教皇が死の危険から脱したという確かな報せを受けて初めて、彼は永遠の安息に入るために目を閉じた。 

 私は死に瀕した枢機卿とまだ回復期の弱々しい教皇との間の最後の極めて短い電話の会話を深い感動と共に思い出す。「苦しみが私たちを結びつけていますね・・・。しかし、あなたは助かりますよ」そして、「教皇様、私を祝福して下さい。」ボイティワ(教皇)はもう決定的な永遠の別れであることを知りながら、それについて触れるのを望まれず、「はい、はい、あなたの口を祝福します・・・、あなたの手を祝福します・・・」と言った。 

 しかしヨハネ・パウロ2世に関して言えば、まだそれで終わりではなかった。バチカンに帰ってから、全般的な健康障害とますますひどくなるばかりの痛みを伴った発熱におそわれた。ジェメッリ病院に再入院した後、やっとそれがチトメガロヴィールスと言う呪われたヴィールスのせいであることが分かった。感染症を克服すると、さらに結腸人工肛門を付けずに済むようにするための二度目の手術をする必要があった。今回は万事うまくいった。何も難しい問題は突発しなかった。814日マリア様の被昇天の祝日の前日には、教皇は最終的に自分の居所に戻ることができた。

 さて、経過についてはひとまず話をおいて、私は、ここでファティマとの関連について話さなければならないと思う・・・。

 本当のところ、教皇は事件の直後の日々には、ファティマのことなど全く考えてもいなかったらしい。後になって、少し容体がよくなり、多少とも力が湧いてきてから、初めて、あのいささか不可思議な偶然の一致について思いめぐらし始めた。なぜか、何時も513日なのだ!ファティマでの聖母の最初の出現の日が1917513日、そして、同じ513日に彼の殺害が企てられた。

 とうとう、教皇は心を決めた。教理省の文書庫に厳重に保管されていた第三の「秘密」を見ることを彼は求めた。私の記憶違いでなければ、718日に当時その省の長官だったフランジョ・セペール枢機卿が二つの封筒-ひとつにはシスター・ルチアがポルトガル語で書いたオリジナルが、そしてもう一つにはイタリア語に訳されたものが入っていた-を、国務長官代理のエドゥアルド・マルティネス・ソラノ大司教に渡し、彼がジェメッリ病院に運んできた。

 それは、二回目の入院の頃だった。教皇はそこで「秘密」を読んだが、一度読めば最早疑う余地はなかった。この「ビジョン」の中に、彼は自分の運命を知った。彼の命が救われた、と言うよりも、彼に新たに命が与えられたのは、聖母の介入と、彼女のご保護のお蔭であったと確信した。

確かに、シスター・ルチアが言った通り「白い衣服をまとった司教」は殺された。ところが、ヨハネ・パウロ2世はほぼ確実なはずの死を免れた。と言うことは?いったいこれをどう説明すればいいのか?歴史の中で、人間的実存の世界において、運命的にあらかじめ定められた力と言うものが存在するのだろうか?もしかして、神の摂理と言うようなものが存在するのではないだろうか?自分のピストルで確実に殺せるように狙いを定めた男に、敢えてそれを「失敗」をさせることができるような「母の手」の介入がありうるのだろうか?

一つの手が撃って、もう一つの手が「弾丸」を導いた、と教皇は言った。

今日、永遠に「無害」のままに終わった弾丸は、ファティマの聖母の像の冠に嵌めこまれている。




如何でしたか? 教皇は事実上死ぬはずだった。死んで当然の出来事に巻き込まれた。腹部を近距離からピストルで撃たれ、貫通し、結腸に穴があき、小腸の複数個所もずたずたにされ重大な損傷を受けた。

日本で侍が切腹すると、腸を傷つける。現代のような外科手術や輸血が無かった時代には、それは確実な死を意味した。

搬送に手間取り、出血多量で血圧と心拍数が危険なレベルに落ちた。最初の輸血に失敗した。

教皇の場合、手術をしながら医者自身が助かる見込みがあると信じていなかった。そして、死にゆく人に授ける病者の塗油(昔は「終油の秘跡」と言った)をするよう求めた。

 術後、ヴィールス性の感染症にかかった。Etc. etc.

それなのに、人口肛門を付ける必要もないまでに、奇跡的に九死に一生を得た。

 高速で飛来する弾丸が、教皇の体を貫通する間に、臓器に致命傷を与えないように微妙にコースを変えながら飛んで行ったなどと言う不自然な仮定をするまでもなく、この事件全体が自然的に説明がつかないほどの不思議な形で、教皇を死から護って終わった。

 それに微妙に絡んでくる1917年のファティマの予言の第3の「秘密」。聖母マリアの介入をほのめかす教皇自身の言葉。

 次回はこのテーマの最終回として、この出来事の歴史的意味について考えてみたいと思います。 (つづく)

 

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★ シミュレーション(SIMULATION)または「擬態」

2011-03-01 11:36:49 | ★ 聖書のたとえ話

 

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SIMULATION 又は ≪擬態≫

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 シリコンバレーに世界的に事業を展開しているIBMを凌ぐ巨大IT産業があった。歴史においても、規模においても、業界ナンバーワンであった。同社は、長年の収益の中心であった製品の工場を、世界各地に展開する子会社を通じて保有していた。

 親会社の先代の会長兼CEOが、全く新しい次世代の製品に目を付け、パイロットプラントを本社工場に隣接して新設した。

 それに倣って、世界中の子会社の中で先進的な経営戦略に共感した社長たちが同じブラントを相次いで導入し始めたが、まだ多くの子会社の保守的な社長たちは、マーケットの状態を見ながら、慎重に事の推移を見守っていた。

 地域のマーケット基盤が極めて弱いある国の小さな子会社の社長が、国内の周りの慎重論、反対論を抑えて、率先して世界第VII番目の導入に手を染めた。反対派は大きな声をあげた。

 その後、その子会社の社長は定年で退職した。新しい社長の就任後間もなく、本社の会長も持病が悪化して他界した。

 新しい会長には、前会長の懐刀が、既にかなりの高齢ではあったが、圧倒的な支持を得て選ばれ、前会長の路線を引き継ぐことになった。

 問題の子会社の新社長は、新しいプラント導入に反対であった。前任者の始めたプラントの廃止を公約に掲げ、地域マーケットの反対派の勢いを借りて、工場閉鎖の計画を着々と進めた。親会社の執行部にも、自分の地域のマーケットの特殊性を根拠に、新しいプラントの不要さを納得させようと工作した。

 この子会社の新社長は何度もシリコンバレー詣でをした。しかし、本社の担当部署の反応は、必ずしも彼の期待通りではなかった。そこで、彼は親会社の会長兼CEOに直談判に及んだ。しかし、会長はその子会社の地域の将来のために、この新しいプラントの存続を望んだ。必要なら、子会社から切り離して、親会社直営の工場とすることも辞さない決意が伝わってきた。いずれにしても、この問題について、最終合意を見ることなく、頂上会談は終わった。

 しかし、子会社の新社長はあきらめなかった。彼は、信念にかけて、また意地でも前任者の開いた工場を閉鎖し、それが完全に無くなってしまうことを望んだ。後日、親会社の会長が同種のプラントをその地域のためにあらためて立ち上げることになるとしても、それはどうでもよかった。彼にとって大切なのは、一定の期間、前任者の開いた工場が完全に存在しない状態を生み出すことに成功すれば満足であった。会長の意思はわかっていたが、文書による命令はまだ無かった。

 そこで、彼は危険な賭けに出た。一線を越えたといってもいい。

 密かに子会社の意思決定機関の内部手続きを踏んで、プラントの閉鎖を決議し、この○月××日、子会社の管内の各営業所に宛てて工場閉鎖に関する社長書簡を送り、△日後に営業所の朝礼でそれを読み上げるよう指示した。

 これは、明らかに本社に対するクーデターであった。本社の会長兼CEOに対する不従順、敵対行為であった。本社がじっくり時間をかけて、問題処理について最善の策の検討を重ねている間に、工場閉鎖の既成事実を作って対抗するつもりだったのだろうか。閉鎖し、関係者を解雇し、土地も建物も売却してしまえば、本社の存続の意思をくじくことが出来るはずだった。一旦壊してしまえば、再度ゼロから立ち上げるには相当の時間がかかるに違いない。空白を生み出すことが可能になるはずだった。

 ところが、である。子会社の社長は土壇場で奇妙な行動に出た。前の書簡が郵送された2日後、二番目の手紙が同じあて先に送られた。○月××日付けの手紙は廃棄し焼却処分するように、と言う内容の、わずか45行のものだった。朝礼暮改とはまさにこのことだ。

 クーデターの謀略がタッチの差でシリコンバレーの本社に漏れたのか、或いは、偶然のタイミングの一致か、「本社から追って沙汰があるまで、現状凍結」の明文化された命令が届いたのかもしれない。事ここに至っては、△日後に各営業所で社長書簡を読み上げることは明白な命令違反、反逆の意思の動かぬ証左となる。 「破棄し、焼却せよ」とは、ただならぬ表現である。しかし、だれがこの45行の手紙を読んで、はいそうですかと○月××日付けの文書を実際に火で燃やして処分しただろうか。それにしても、子会社の社内では、商法に基づく正規の手続きを踏んで閉鎖を議決している事実は議事録に残っているはずだ。これはどうなるのであろうか。或いは、手回し良く既に焼却されているのだろうか。

 後日、このことはシリコンバレーの本社で問題にされた。

 この話では、支社長は、釈明の余地無く、進んで引責辞任したことになっている。

 わたしが一頃メシを食っていたウオールストリートなど、生き馬の目を抜くどの業界にもありそうなストーリーの一つである。

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★ 二度あることは三度ある(その-6)

2011-03-01 11:32:25 | ★ 聖書のたとえ話

 

 

 

  〔終 幕〕 または、「従順の勧め」 -第3場- 

 

            Non resistete al male!

 

 「従順」シリーズを締めくくるために、私は新・旧約聖書の語句索引(いわゆる「コンコルダンス」)を隅から隅まで渉り歩き、結局、文字通りには上の言葉を見つけることに成功しなかった。

 何か大きな思い違いをしているらしいことに初めて気がついた。

私は、ギリシャ語は試験のためだけにチョイかじり。ヘブライ語は全くお手上げ。ラテン語は若い頃、日本人としてはそこそこやったつもりだが、今は無用の長物となった。だから、50歳になって、あらためて聖書に親しんだのは、専らイタリア語を通してであった。

 表記の言葉「ノンレジステーテアルマーレ」をローマの8年間、いや、3年前のサバティカルも含めると通算9年間、耳にたこが出来るほど、何百回となく聞いていて、歌にも歌ったりしてすっかり身に染み付いてしまっていた。だから、この言葉は「そのまま」聖書の聖句だと信じて、夢にも疑っていなかった。

 今回その言葉をめぐって一筆書くにあたり、ちょっと格好をつけて(何の、何章、何節)と出典を括弧書きしようと思った。ところが、開けてびっくり!?!無いのである!このイタリア語の表現は、わたしなりに訳せば、

 

        「悪に逆らうな」または「悪に逆らってはならない」

 

と言うあたりに落ち着くはずだと見当をつけて探し始めたが、全く駄目。全然見つからない。念のため、イタリア語に戻って再度調べてみたが、これも空振りに終わった。

 散々苦労をして、何処に行き着いたか?結局、それに関係するのは「マタイ539節」しかないことがわかった。ほとんど同じような意味内容だが、日本語(新共同訳)でも、イタリア語(エルサレム訳)でも、表現は微妙に違っていた。

 

 「悪人に手向かってはならない。」(新共同訳)

 

Non opporvi al malvagio.(エルサレム訳)

       ↑↓

  (これって上下同じこと?)

       ↑↓

“Non resistete al male!”

 

「悪に逆らってはならない。」

 

 なんとなく釈然としなかった。

 それで、ちょっときざだが、最近買ってきた Green ギリシャ語・英語の逐語対訳The Interlinear Bible” を開いてみた。そこでは、

 

  “not do resist the evil

 

となっている(嫌味だから、一語一語対応するギリシャ語はあえて省略する)。なーんだ!私の直感の「悪に逆らってはならない」の方が原典に近いではないか、と、まずは一件落着。そして、その言葉のあとに、

 

   「だれかが貴方の右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。誰かが、1ミリオン行くように強いるなら、一緒に2ミリオン行きなさい。」(マタイ539b-41節)

 

と続く。

 これが「従順」問題の最終的答えであろう。自分の良心が、「それは不当な命令である。それに従ってはならない」と叫ぶとき、私は、信仰に基づく高貴な魂の行為としては、そのような命令に対して「従順」することは断じて出来ない。

 そのような場面で浮上してくるのが、この「悪に逆らってはならない」という教えである。つまり、キリストはそのような状況をあらかじめ想定して、それに対応するための道としてこの言葉を用意してくださっていたのである。

 私はイエスのこの言葉に対してわたしの「従順」を向ける。それなら出来る。全然難しくない。結果は無論全く同じである。行為としては、私に不当な命令を下した人間の指示を文字通り忠実に行うことになるだろう。しかし、私の魂はその人間の命令に「従順」をもって応えてはいない。

 

  「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。私は柔和で謙遜なものだから、私の軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ112830節)

 

 わたしは、過去3年間、つまり、2度にわたる棄民の間。全く理不尽な司教の命令の重荷を負って、無理して「従順ごっこ」をして、疲れ果て、消耗し切っていた。

 今回、あらためて「第3次棄民」を前にして、状況はさらに悪化する可能性がある。なぜなら、一回目は1年、二回目は2年、そして今回は期限が無い。無期限(少なくとも現司教在任のあと一年半ほどの間は絶望的)の棄民である。ここで初めて、まことに遅蒔きながら、わたしは「悪に逆らってはならない」と言う神の言葉への「従順」を学んだ。神に感謝である。それは、なんと「負いやすい軛」、なんと「軽い荷」であることか。

 3年間の忍従と犠牲と祈りの末に、神様は人間の歪んだ定規で真直ぐな線を引くことがおできになる事を、神学校の素晴らしい未来を見せて、得心させてくださった。神様は、人の破壊の負のエネルギーを、神学校を昇格させ、可能性を広げ、確固たる基盤の上に移し植える契機として、正のエネルギーに変えられた。

 

      「悪に逆らってはならない」

 

 これは、「黄金原則」、「永遠の真理」である。人はただ「悪に逆わない」だけで足りる。あとは全て神様が計らってくださる。それはまた、人間の知恵や努力がなしうる範囲をはるかに超えた偉大な業に道を開く。「裁きは神にあり」である。

 

 振り返ってみると、思い当たることが無数にある。聖書の言葉は、それに11で対応する具体的場面では、突如、神のみことば、命ある生きたことば、として働き始める。そして、必ず結果を生む。毎日が新しい発見の連続、驚きの連続であった。あらためて簡単にプロットしてみよう。

 

● 何を恐れてか、どんな偏見と先入観を持ったためか、高松の今の司教様(敢えて「様」をつけよう)は、着任以来最近まで、一度もわたしと相対して真面目に話し合うことをしてこなかった。

 

          何も話し合わぬまま、程なく、1年間の「サバティカル」(休暇年)を申し渡した。意図はすぐ読めた。わたしを遠ざけたいのだな、と思った。しかし、わたしを司祭に叙階した司教様とその後継者に対して誓った「従順」の行為として、1年間ローマに留まった。司祭の身分証明書も紹介状も無く、十分な生活の保証も無く。(第1の棄民)

 

          間もなく一年が過ぎようとしたとき、一通の手紙がローマに届いた。引き続き2年間の教区外生活を命ず。必ず元の教会の主任司祭として戻すと言う約束は反故にされた。日本の何処に住め、どうやって生活せよ、何をせよ、など、一切のヒントも助言も無しに・・・・。勝手にどこかで生き延びろ、わしは知らん、ということらしい。別に帰国の挨拶などに来ても来なくてもよし、好きなようにしろ、と言われれば、足がすくんで司教館に訊ねるわけにも行かないではないか。真直ぐ、ひっそりと古巣の三本松教会に私物を取りに行き、ろくに信者たちに挨拶することも無く、そのまま野尻湖の山荘に直行し、そこに引き篭もった。それから二年の間、司教様からも、司教館からも何の通信も来なかった。かろうじて、わたし宛の迷った郵便物が思い出したように機械的に三本松から転送されてくるのみだった。後で知ったことだが、私の本を読んで司教館に問い合わせの電話をした人がいたが、最初の応対は、「そんな人ここに居ません」という木で鼻をくくったような冷ややかなものだったそうだ。司教館のスタッフは薄々知ってはいても、表向きはわたしが何処にいるのかさえ知らないことになっていたのだろうか。人が司祭に叙階されたときは、司祭として、牧者として、宣教者として、何処かの教会など、腕を振るうべき働き場が用意されていて、それなりの期待と支援があるものと思うではないか。全てを剥奪したうえ、孤立無援、むしろ何もしないことが期待されるなどと言うことを、だれが想像し得ただろうか。ローマの街角の聖具屋で、同情してくださった恩人からの送金でミサの道具を買い求めたのがあった。雪の山荘で孤独にミサを捧げるとき、凍てつく冷気のなかで、無数の天使たちがキリストの聖体を礼拝する姿が見えた。わたしは、この不当な処遇をじっと耐え忍ぶことを犠牲として捧げ、それが破壊され葬られようとしている神学校を救う力になると信じた。人間的には苦しかったし、わたしの良心は「これは不当だ」と叫んでいた。二年の歳月が流れすぎようとしたが、なんの音沙汰もなかった。(第二の棄民)

 

 しかし、わたしの苦渋に満ちた「従順」は、予想をはるかに超えた素晴らしい結果をもたらした。反対者が声高に叫び、司教が全精力を傾けて潰しにかかってくれたからこそ、まさにそのことのお陰で、神学校には名誉ある輝かしい未来が約束されることになった。破壊の強大な負のエネルギーを、神様は素晴らしいみ業に転換されたと言える。「神様は、人間の曲がった定規で真直ぐな線を引かれる」と、かつてのわたしの霊的指導者ヘルマン・ホイヴェルス師が言われたことがある。なるほど、それはこういう意味だったのかと納得した。具体的に検証してみよう。

 

          日本の教会当局の冷たい逆風から護るために、教皇様は「父性的な配慮を示すために」神学校をローマのご自分の庭にそっと一時移植してくださった。(カトリック新聞のように、原文のper esprimere la paterna sollecitudene del Santo Padreを、ただ「温情」と一語で訳すのでは足りないと思う。)カトリック新聞の表現は、原文をわざと曖昧に翻訳しているために実にわかりにくい。原文によれば、この高松の神学校は、ローマのレデンプトーリス・マーテル神学院の施設の中に移植されるが、独立した一個の神学校であり続けることをやめるわけではないことがわかる。つまり、吸収され、合併されて、溶けて無くなることはないのである。これはあくまで一時的な措置であって、このユニットは近い将来必ず日本国内に帰ってくることを想定してのことであろう。

          「高松教区立」という一司教区のためのローカルな神学校であったものを、新たに「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と命名された。それは日本全体のための、つまり日本の全司教区のための神学院となったことを明確にするためであると考えられる。

          この神学校が日本の司教団とかかわりのあるものであることを明確にするために、日本の司教団の一員である平山元大分司教を新たに院長として任命された。

          この神学校を出た司祭たちに対しては、彼らの日本の教会の中での身分と働き場が保証されるために、“Vicarioを日本に派遣されることになった。カトリック新聞は訳し方に困って(或いは正しいニュアンスを伝えたくなかったから)、原語のまま引用し、括弧書きで(代理者)と直訳を添えているが、わたしは原文の前後関係から、「教皇代理」と訳してもかまわないと思った。(高松教区の教区民宛の発表では、単に「特使」となっているが、それは誤りであろう。)この「代理者」の意味合いは大きい。通常、教皇の“Vicarioは司教(又は、司教権限を持った「モンセニョール」)であり、その任務は重要であり、権限は絶大である。現在、日本には16の司教区があり、16人の教区長司教がいるが、この“Vicarioは、ある意味で教皇様に任命された日本のための17番目の司教(それも全国区の)に匹敵するほどの重みを持つ人事だと直感した。それが正しいことは、今後の展開を見れば明らかになるだろう。

          そして、現司教の意向として閉鎖後は売却処分、が噂されていた神学校の土地・建物についても、他の目的への転用は認められなかった。これは、現司教の引退後に、同神学校がローマから同じ場所に戻ってくる可能性に道を残したものと考えることもできる。

          わたしが司教様に最後に会ったときも、彼はローマに対して絶対に譲れない1点として、高松の神学校を司教権限で閉鎖した後、一定の冷却期間、同神学校が全く存在しない状態、を置くことを挙げていた。その期間が経過した後にローマが何をしようと関心はない(彼はどうせその頃は引退していて権限も無い)が、その一点だけは絶対に譲れないし、なぜか必ず聞き届けてもらえると楽観していたように見受けられた。

 しかし、結果はどうだったか。バチカン国務省長官ベルトーネ・タルチジオ枢機卿は、その文章(公文書番号N.85.227)の中で、「教皇様は、上記の計画が実現されるまで、高松の『レデンプトーリス・マーテル』神学院の現状を維持するよう、溝部司教様に要請されました」と明記しているではないか。

 高松教区立としては閉鎖することを許すが、その閉鎖と同時にローマ直轄として格上げし、中断期間無しに、連続的にその存在を維持するという意味である。

 

 まさにTe deum laudemus!「神に賛美」である。教皇様ご自身のローマの神学校は別として、世界に70数校ある「レデンプトーリス・マーテル神学院」の名を持つ姉妹校の中で、このような特権的な扱いを受けた例が他にあっただろうか。他はみな、今もって高松教区立と同じローカルな神学校に過ぎないのである。

 

 既にわたしに対する「第三次の棄民」は始まっている。最近わたしのブログにまた「コメント」あった。同種のものはほとんど保留のままにしてあって読者の目に触れることは無いが、これは敢えてここに紹介しよう。

 

  「従順に志度で開拓宣教をせよ。当面は三本松教会に住め。

 

 永遠にサバティカルをとってもよい!」

 

 この口調は、まるで司教自身のもののようにも取れないか?まさかとは思う。現に彼は、わたしの質問に対して、「あなたのブログは読んでいない、読んだことはない」と明言された。本当か、嘘か、はわからない。しかし、言葉の弾みに、全く別のコンテクストで「何ならこのことはブログに書いてもらってもかまわないよ」とポロリと言われたから、ひょっとして実は・・・・との思いもある。

 まさか司教自身の書き込みではないにしても、上の言葉は、司教の主要な支援者、取り巻きの重鎮たちの本音であると見て、まず間違いは無かろう。

 わたしが今、この第三の棄民を甘んじて受け入れ、それを犠牲として捧げるなら、再びそこから素晴らしい善が生まれるに違いないと信じるものである。

 最後に、日本に大勢いる平(ひら)の司祭、修道者、修道女の皆さんに言いたい。貴方たちの高貴な「従順」を大切にしていただきたい。従順に値しないと良心が叫ぶとき、自分を偽ってまで無理な「従順」をしないで戴きたい。その代わり、ナザレのイエスがわたしたちに勧めてくれたように、「悪に逆らってはならない」を実践することを勧めたい。結果として、貴方の行為はその命令に対して、現象としては忠実な形をとるだろう。しかし、貴方の良心は晴れやかで、軛は負いやすく、荷は軽くなるのである。

 

 最後に一言。わたしのこのイエスの言葉への「従順」が、すぐに思いがけない「奇跡」に繋がることがあるかもしれない、と予感させる何かがある。

 

 

(表紙の写真はグアムの姉妹校「レデンプトーリス・マーテル」を、自分で操縦するセスナの窓から撮影したもの。ここで高松教区司祭の黙想会が開かれた。) 

 

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★ 二度あることは三度ある(その-5)

2011-03-01 10:15:09 | ★ 聖書のたとえ話

 

〔終 幕〕または、「従順の勧め」 -第2場-

 

(4) 良心が受け入れを、即ち「従順」を、拒否する「命令」には如何に対処すべきか?

 

 では、良心が或る具体的な状況のもとで、地上で権力を持つ人間の具体的な命令に「従ってはならない」と言うとき、我々はどのように身を処すればいいか。

 

a)          かつて私が住んでいたジャングル、お金の亡者たちが仁義なき戦いを展開している国際金融の世界ではどうだったか。

 私は、ライブドアの堀江氏の後ろに付いて、盛んに彼を煽ったリーマンブラザースという国際投資銀行にかつて身を置いていたことがある。この会社、堀江氏がお縄になった頃には、がっぽりと儲けて、冷酷にも彼を使い捨てたであろう事は、経験上想像に難くない。彼が臭い飯を喰らおうがどうしようが、彼の裁判のことなど、もうどうでもいいのだ。

 リーマンのようなアメリカの投資銀行を例にとれば、上は会長から下は一兵卒に至るまで、きっちりとレポートライン(上司・部下の命令系統)による秩序が維持されていて、ボスへの「従順」は絶対であった。ボスへの不従順、裏切りは文字通り命がけのギャンブルであった。

 ボスの命令に従うか否かの決断は、専ら出世のチャンスや約束された破格のボーナスと、それを凌ぐ自分の野望や自信とを天秤にかけて決めればいいことだ。良心もクソもない。良心などと言う品のいい概念を持ち出す場面では無い。利害と野望が支配原理だ。気に入らない命令に「従順」する必要などさらに無い。

 「こんな奴の命令には従えない、俺のプライドが赦さない!」、と思えば、さっさと辞めてそのボスの下を去り、同じ会社の別のボスに擦り寄るか、いっそのこと、後足で砂をかけるようにしてその会社を辞め、自分のノウハウと顧客リストを手土産に、競合他社に高く身売りをすればいいだけのこと。だから、ウオールストリートには、一見するところ多数の強烈な投資銀行がひしめき合い、しのぎを削っているように見えるが、実はそれら全体で一つの会社だと言ってもいい。ハーバードのビジネススクールを優等で卒業した野心に満ちた狼達は、ウオールストリート・アンド・カンパニー・リミテッドの「人事部」とも言うべきヘッドハンター(人材斡旋会社)を介して、一つの会社から別の会社へ、頻繁に転職を繰り返しながら、成功するものは40代後半には巨万の富をなして引退し、失敗した者は早々に消えていくか、牢屋に入るか、すればよかった。50を過ぎてまだうろうろ現役でいるのは、事務屋かメンテ部門の裏方だけである。

 

b)          裁判官という専門職集団の、閉じられた社会における陰湿な派閥と序列の世界で、悪意の左遷、嫉妬や私怨による不当な人事に対して、良心が「赦せぬ!」と叫ぶなら、辞めて野にくだり、弁護士を開業する手もあるだろう。抗議の自殺をするなどは、あまりにも悲しい選択ではないだろうか。

 

 官庁や軍隊でも、教育の現場でも、病院の医局でも、学者や芸術家の世界でさえも、およそ事情は同じであろう。二流、三流企業の俗物の社長や人事部長の理不尽な独裁を前にしても、平のサラリーマンを取り巻く事情は全く変わらない。脱サラをするもよし、起業するもよし、都会を去って田舎で畑を耕し自給生活に入るも良いではないか。

 金銭的利害や、安定や、世間体を護るために、不正な、悪しき命令に屈服して、「従順」の仮面の下で良心の声を圧殺して地獄を味わうよりも、「良心の自由」を誇り高く維持するほうが、はるかに人間的であり、魂は平安である。神もまたそれを善しとされるであろう。

 

c)           また、世間では、もしも上司の命令が法律面でも不当であると思えば、正式に訴えて戦う道も開かれている。私自身、一度は不当解雇の撤回を求めて裁判を起こして、不利を悟って和解を申し出た会社側を相手に、全面勝利を勝ち取った愉快な経験もある。(そのくだりは私の本「バンカー、そして神父」の「突然の解雇、そして反撃」(P100以下)に詳しく書いた。

 

d)          では、今問題の司祭や修道者、世に「聖職者」として特別視される人間の場合はどうか。本質は上と全く同じはずでありながら、実際はいささか複雑である。

 その複雑さは何処から来るか。それは、カトリック教会の場合、「コンスタンチン体制」に由来する教会の二重構造に起因する。コンスタンチン体制については既に述べた。(ただし、「東京オリンピックの頃にその体制は破綻し、すでに終焉を迎えている」という点についてだけは、まだこれから詳述しなければならないのだが・・・・。)

 コンスタンチン体制を一言で要約すれば、ローマ帝国の強烈な「世俗的支配体制」と、それに伴う「偶像崇拝の構造」の中に、キリスト教が強引に取り込まれ、それらと密接不可分に合体させられた状態を指す。そこでは、同じ「教会」の概念のもとに、キリストの目に見えない神秘体としての「霊的側面」と、世界の宗教業界ナンバーワンの暖簾と規模を誇る「世俗的側面」が渾然一体となっている。

 紀元4世紀の初頭から今日に至るまで続いてきたコンスタンチン体制下では、教会の教皇、司教、高位聖職者、修道会の長上たちが、聖職者でありながら、世俗の支配構造の権力を掌握した人間たちでもある事実から目を背けてはいけない。歴史上、聖なる教皇、聖なる高位聖職者たちが常に、しかし極めて稀に、いなかったわけではない。だが、そのような例外を別にすれば、彼らの多くが、聖書のマタイ 5 7 章の福音的理想を個人の生活と信仰で体現した「回心して福音を信じている」聖人の群れであることを、聖霊は保証してくれてはいない。

 

 第二次世界大戦後のカトリック教会の新時代を開いた、ヨハネス23世、パウロ6世、ヨハネ・パウロ1世、ヨハネ・パウロ2世の、この4代の教皇様たちが皆聖人、つまり極めて稀な例外的なケース、であったことを私は疑わない。(その前のピオ12世は疑わしい。また、現教皇ベネディクト16世の評価はまだ定まっていない。)

 そのこと、つまり4人も立て続けに聖なる教皇が現れたと言う教会史上極めて例外的な状況は、彼らによって成し遂げられた第2バチカン公会議と言う、コンスタンチン体制を清算する教会の大改革が、いかに重大な歴史的出来事であったかを如実に示している。

 コンスタンチン体制下の教会において、俗物の高位聖職者が、神のみ旨とはおよそ関係のない世俗的意図を押し通すために、神の名において、「従順」の誓いを楯に、配下の聖職者に不当な命令を押し付けてくるとき、そこから生まれる害悪は大きかった。そして、それは今もまだ終わってはいない。

 もちろん、「従順」の建前のもとでも、実際には、この世の組織や秩序を維持する上での人間の知恵や経験から生まれたまずまず妥当な原則や規則が広く支配していることも確かである。しかし、その場合でも、ヒューマンな、人間味のある、しなやかな運用が求められる場面が多々あったにちがいない。そんなとき、ともすれば、四角四面に原則をごり押しして、人間性を押し潰してしまう事だって大いにありうるのである。どれほど多くの下位聖職者、平の修道者、修道女たちが、聖なる「従順」の誓いの蔭で、人権を踏みにじられ、虫のように魂を圧殺されてきたことだろうか。先の修道会内部の殺人事件などは、問題が表面化した氷山の一角に過ぎないと私は思う。

 私が見聞きした実例でも、犠牲者は常に「従順」を強要される劣位に立つ無名の下級聖職者たちだった。人伝の知識だから、詳細と正確さには期しがたいところもあるが、例えば:

           私と同期でイエズス会を志願したU神父の場合などがいい例だ。彼は評判のいい優秀なイエズス会士になったと聞いている。高齢になり介護を必要とするようになった父親を看る肉親が彼をおいていなくなったとき、彼はその許可を求めたが、許しは与えられなかった。「従順」によれば、彼は父親を見捨てねばならなかった。彼は、潔く会を出て、多分司祭も辞めて、父親を取ったと思われる。彼の「良心」がその選択を決意させたものだろう。この「不従順」は神の前に正しかったと私は思いたい。

           同じイエズス会の神父(アメリカ人)の場合。私が上智に在学中、彼は学生のアイドル的存在だった。格好のいい芸術家肌で、ニューヨークで版画の個展を開くほどの才能の閃きを見せていた。特に女子学生のファンが多かったように思う。その彼が、まだ若いのに、全身の筋肉が衰えていく難病にかかった。特別な、きめ細やかな介護が望まれる状況がそこにあった。彼を取り巻く一群の婦人たちが、集団で彼の必要とするきめの細かい介護を申し出たが、彼の長上はそれを受けることを許さなかった。彼は、会を出て、恐らく司祭も辞めて、自らの身をその人々の手に委ねたものと思われる。私は、正しい「不従順」を選んだと言いたい。

           これも、うろ覚えの記憶だが、ある男子修道会で新聞沙汰になる大事件が起きた。一修道者(司祭ではなかった?)が、理不尽な人事に反発して上司(管区長?)を殺害した事件であったと記憶する。背景には長い確執の歴史が臭ってくる。もし彼が、私のこのブログを読み、私と同じようなクールな目で「従順」と言う「宗教業界特有」のゆがんだ現象を冷静に理解していたら、あのような不幸な事件は避けられたのではなかったろうか、と惜しまれる。

           フランシスコ会のH元管区長と、その後任のF管区長との「従順」戦争は、当時教会を離れていた私の耳にも聞こえてきた。風の便りゆえ、実際はもっと複雑な話だったのかも知れないが、私の理解し得た範囲で敢えて触れておこう。H神父は、私をフランシスコ会の志願者として受け入れてくれた人である。そのあたりの消息は、私の本の181ページ以下に詳しく書いたから繰り返さない。★まだ読んでおられない方はここをクリック。カートに入れれは簡単に手に入ります★

 H神父は、上智では私より二年か三年後輩の真面目な大人しい感じの神学生だった。その後、彼は管区長に選ばれると、会の清貧改革に着手した。私はそれに痛く共鳴した。緩んだ規律と贅沢な生活に慣れきった古参の修道者達は、師父聖フランシスコの「清貧」を旗印にしたF管区長の出現を前に結束し、彼の再選を阻んだ(私が会を去らなければならなかって事情と関係があることは、本の中で書いた)。新しく選ばれたF管区長は、前任者の改革を元に戻す期待を一身に背負っていた。早速、F管区長は自分の前任者のH神父に、お金持ちの信者の多い都内でも有名なブルジョワ教会(田園調布教会だったかな?)の主任司祭に任命した。フランシスコ会は歴史と伝統に輝く大修道会である。会員司祭達はみな「清貧」、「従順」、「貞潔」の修道三誓願を立てている。だから、管区長への「従順」は絶対視されている。話を簡単に図式化すれば、F管区長はH元管区長の「清貧」路線を、「従順の誓願」を楯にねじ伏せようとしたのであろう。動機は明らかに不純である。H元管区長は、「良心の声」を楯に、それを拒否して、大阪の釜が崎の愛燐地区に立て籠もった。激しい戦いの末、F師はH師を釜が崎から燻し出し、「従順」の名の下に任命を受諾させることに成功しなかった。「良心の声」の勝利であったのだと思う。

 H神父の岩波から出た真面目な本と、亜紀書房から出た私のやや跳ね上がった本とが、しばらくの間新宿の紀伊国屋書店で仲良く並んで平積みされていたのを懐かしく思い出すが、私の恩人H師は、今でも釜が崎で日雇い労働者たちと福音を生活で実践しておられるはずである。頭が下がる思いである。

●  もう一つだけ事例を付け加えようか。私が18歳のとき、上智の学生寮  で最初に同室になったM神学生は、私に多くの影響を残した畏兄であるが、イエズス会からカルメル会へ、カルメル会から東京大司教区の補佐司教へと、宗教業界では稀な右肩上がりの転職を成し遂げた、成功(?)例である。

 

e)         教会の中の「従順」の固有の難しさと複雑さは何処から来るか。その一つは、命令する長上も、命令を受ける配下も、その身分が終生性を帯びている点である。言葉を替えて言えば、良心が許さないからといって、普通は転職、転進の選択肢が無いと言うこと。つまり、聖職者を辞めれば、失敗者、還俗した脱落者、として切り捨てられ、闇に葬られ、宗教業界人としては一巻の終わりとなるからである。 

 コルコタの聖女マザーテレサはアルバニア人であるが、上流家庭の子女教育をする伝統的な修道会に飽き足らず、そこを出て、最も貧しい人のための会を新たに創立した。彼女なども神への真の「従順」の稀有な例外である。しかし、誰もがそれほどのカリスマに恵まれるわけではない。

 もう一つの難しさは、その命令が「神の名において」、「従順の誓い」を担保に行われる点である。さらに言えば、人格未成熟、社会経験の乏しい若いうちに神学生になり、或いは、修道会の志願者になったものが、この世の人間組織の目上の命令に対する「服従」と、神のみ旨に対する高貴な信仰の行為としての「従順」とを混同して刷り込まれた教育(洗脳)の問題も見過ごすことは出来ない。

 そして、一番厄介なのは、俗物の上長が、実は世俗の次元で物を考え処理していながら、それを霊的な信仰の次元で、神の権威をもって行動していると錯覚したとき、つまり、世俗の秩序の次元で人間の思いと意思とを貫きながら、自分をあたかも神であるかのごとくに思い上がり、神のみ旨に対してのみ向けられるべき「従順」を、自分の人間的思いに屈服させる大義として持ち出して、それが神を冒涜する行為であるとは、夢にも思っていないときである。人が神になったと錯覚したときほど恐ろしいことは無い。それは、命令する者が神に対して自分を上位におき、自分自身が「原罪」の罠、つまり「不従順」の傲慢の中に落ちていることに気付かない状態を意味する。

 

 色んなケースの実例は、もうこれくらいで十分だろう。いよいよ、「良心が受け入れを、即ち『従順』を、拒否する『命令』には如何に対処すべきか」と言う問いに対して答えを出さなければならない。私は、それに対してはっきりした答えを持っている。しかし、「第二場」も既に長くなりすぎた。だから、それは次回に持ち越すことにしよう。(つづく) 

 

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★ カトリック教会-もう一つの現実

2011-03-01 07:04:44 | ★ 聖書のたとえ話

2008-04-12 07:25:23

 


ヨハネ・パウロ二世教皇が2000年の聖年にドームスガリレイを訪れたときに着用された祭服


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     カトリック教会-もう一つの現実

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山上の垂訓の丘の上にそびえ、ガリラヤ湖を見下ろするドームスガリレイ (キコの設計による)

 

 今年の3月の復活祭明けに、イスラエルのガリレア湖のほとりの、ドームス・ガリレアという巨大な施設(2000年の聖年に教皇ヨハネ・パウロ二世が世界聖年大会を催した場所)でヨーロッパの司教の集まりがあった。約170人余りの司教、9人の枢機卿が参加した。呼びかけたのは、キコと言うスペイン人の一信徒(69歳)だった。

 彼は話した。教皇パウロ六世が「フマネ・ヴィテ」という回勅(人間の生命尊重、堕胎の禁止、胎児の尊厳などに関する)を発表したとき、世界中の司教達は教皇を裏切って彼を孤立させた。その時、教皇を擁護したのは、世界でたった二人の司教だけだった。その一人はベルリンの大司教(故人)で、もう一人は、ポーランドのクラカオの大司教カルロ・ヴォイティワ(後の教皇ヨハネ・パウロ二世、同じく故人)だった。そして、そのほかに教皇パウロ六世を支援したのは、ここにいる二人の「気違い信徒」、即ちこの私、キコとそのパートナーのカルメンだった。

 170人の司教たちと枢機卿はエルサレムのチェナクルム(キリストの最後の晩餐の部屋)でキコの共同体式のミサに与り、驚きと深い感銘を隠さなかった。

 教皇の招集によるシノドス(地域司教会議)ならいざ知らず、170人もの司教と枢機卿を遠隔の地イスラエルまで呼び寄せる一信徒キコとは何者か?司教総会は、いわば出席を義務付けられたもの。キコは何の権威も司教たちの上に持たぬただの人。彼の呼びかけ、招き、はあくまでも自由参加だ。

 キコは、過去に何度もヨーロッパの司教たちばかりでなく、全米、アジア、アフリカなど、地球のブロック毎の司教の会議を主催し、その都度大きな成果を上げてきた実績がある。

 アジアの司教会議には、主要国では日本だけ一人も司教は参加しなかった。不思議な現象といえるのではないか。

 パウロ六世の回勅「フマネ・ヴィテ」は、その後、キコの提唱する新求道共同体においては忠実に守られ、その結果、共同体のメンバーの家庭では、一家族平均5人の子供に恵まれている。生命の恵みに開かれた夫婦愛は、神の豊かな祝福に満たされ、多くの召命に恵まれ、世界70箇所余りのレデンプトーリス・マーテル国際宣教神学院は若い神学生に満ちている。教皇ベネディクト16世は、同名の姉妹校、高松の神学校の存続と発展を強く望んでいる。

 

 

ガリレア湖のほとりのオーソドックス教会

 

 

オーソドックス教会の庭を悠々と行く孔雀

 

 

カルメル山より。

ハイファの港の上にかかる虹。 私たちへの神の約束は守られる。

(虹の両脚は水平線からほぼ垂直に立ち、天空に完全な半円の弧を描いたが、ズーム最広角でも一枚に納め切れなかった)

 

神よ、私の信仰が揺るぎませんように!

アーメン!

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