「教皇暗殺事件」 には、実はまだ後日談があります。それは、1983年12月27日、教皇ヨハネ・パウロ2世が彼を狙撃した犯人アリ・アグサを獄中に訪ねた時、アリが最初に発した 「あなたはなぜ死ななかったのか?」 という言葉についてです。それに関してはまだ書くことがあります。
また、ヒットラーやカダフィのような男ならともかく、一体 「何故ローマ法王が暗殺の対象にならなければならないのか」 、と言う根本的な疑問にも答えを出さなければなりません。
そして、このシリーズを書いている時に、日本で 「巨大地震と津波と原発事故が起きた」 ことにも、偶然では片付けられない因縁を感じています。そこのところも繋げなければなりません。
しかし、私のブログを訪問して下さる方の多くにとっては、「カトリックの教皇」 の話など、それほど興味をそそられない話題かもしれません。それで、一休みというか、息抜きと言うか、全く関係のない話題を一つ間に挟むことにしました。
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母 の 形 見
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これは、ジャズピアニストの叔父が4年ほど前に他界して、母の形見のギターがひょっこりとわたしの手元に届いた時の話です。
叔父は平凡なサラリーマンでしたが、大の音楽好きで、戦後は米軍キャンプ内のクラブでピアノを弾いて生活の足しにしていました。
母が亡くなったとき、わたしはまだ8歳だったので、母の愛用のギターは、その叔父が形見分けで引き取っていったのでした。
私は、「リーマン」などの銀行業で忙しかった間はもちろん、またその後、神父を目指してローマで勉強に明け暮れていた間も、この母の遺品を省みる気持の余裕など全くありませんでした。
ところが、2007年から2009 年にかけて、ある事情があって、わたしは神父でありながら野尻湖の別荘に蟄居することになり、思いがけず時間だけはたっぷりある生活が始まったのです。それで、この機会に母のギターを弾いてみたいと思いました。
ところが、何年かぶりにケースを開けてみて、愕然としました。ギターの首の部分と言うか、竿の部分と言うか、が根元のところで手前にがっくりと折れて、つなぎ目は割れたりはがれたりしてぐちゃぐちゃ、赤錆びた弦もだらしなくたるんで見る影もなくなっていたのです。
母が使っていた時のままのギター、と言うことは、弦は戦時中の粗悪品です。伸縮性ゼロの鉄の弦を強く張ったまま保管されていたらしく、長い時間の流れの中で木製の竿や胴が負けてしまったのだとわかりました。全く予想だにしなかった悲惨な状態でした。
情けないと言うか、悔しいと言うか・・・、このアクシデントを回避できなかった自分の無知をひたすら恨めしく思いました。
ところが、すっかりしょげかえって諦めようとしていたところに、思いがけず励ましてくれる人が現れました。彼は、専門家に頼めば、まだ修復してもらえるかもしれない、と言ったのです。
さっそく新大久保の黒澤楽器店に持ち込みました。
応対に出た若い店員は、わたしがギターのことを何にも分かっていないのを察し、また古めかしい戦前の粗末なハードケースの外観を見、さらに中身の無残な状態を見て、「直しても無駄だ、悪いことは言わないから新しいのを買ったほうがいい」と言い張って、まったく取り合ってくれませんでした。
ところが、ちょうどそこへ、奥からベテランのギター職人が偶然現れました。未練顔の私を見て、若者の店員を退けた彼は、壊れたギターを手にとってしばらくじっと眺めてから、まるで独り言のように 「なるほど、1938年のカラーチェですね」、とつぶやきました。
それが何を意味するのか分からない顔をしていると、かれは、ナポリの名の知れたギター職人の作品だと教えてくれました。そして「うちにもひとつ有りますよ」、と店内のガラスケースに目をやりました。そばに寄ってみると、なるほど、30年ぐらい前のカラーチェ工房の中古ギターに40万円余りの値段が付いていました。70年前のもので、もし状態がよかったら、いくらぐらいの値段のものか、素人でもおよそ見当が付くと言うものです。
実は、母の形見で・・・・、と来歴を語り、是非自分で弾いてみたいのだが、と言うと、半年の時間と、新品の上等のギターが買えるほどの修理費がかかるが、それでもいいのか、ときました。
ざっと見積もって20万円の修理費は、自分の支払い能力をはるかに超えていることはわかっていましたが、「神様、今回も助けくださいね」、と心に念じて、そのまま置いてきてしまいました。
半年をはるかに過ぎても、楽器屋からは何の連絡もありませんでした。10ヶ月ほどして、偶然のように天からお金が降ってきました。そのお金を握って、勇気を出して、黒澤楽器に行ってみました。そしたら、応対に出た若い店員が、それならもう出来てますよ、と言いながら、奥に取りに行きました。
入れ替わりに、直してくれたベテランの職人が出てきて、「どうだ!」と言わんばかりにケースから取り出して見せてくれました。錆びた鉄の弦の替わりに、しなやかなま新しいナイロン弦が張ってありました。
これが、あの首が折れ、胴にひびか入って見る影もなかった母のギターかと、目を疑うような見事な出来栄えでした。破れた胴や、折れた竿の傷は跡形もなく消え去っていました。素材から全く新しいものを作るより手間がかかった、と言うことでした。
長野市内にいいクラシックギターの先生を見つけ、その春から習い始めましたが、ちょっと味見をしたばかりのところで、その先生ともお別れになってしまいました。さて、四国に帰って続ける暇を見つけられるだろうか、とその時すでに不安に思ったのですが、心配した通り、結局続けて習うことは出来ませんでした。
その夏は休暇を得てまた野尻湖に舞い戻りました。私の家が属するNLA (Nojiri Lake Association) は80年余り前に全国に散って伝道しているプロテスタントの牧師さん達の家族が、年に一度集まって交流するために開墾した別荘村です。7-8月は Official Season の真っ最中で、毎日多彩なプログラムが組まれています。
ある昼下がり、手慰みに何気なくフルートを吹いていたら、窓ガラスを叩く人がいました。見知らぬアメリカ人の牧師夫人が、自分はこの土曜日、19時~22時に催される “Poetry Music Caffee” のプログラムの責任者だが、貴方も笛を持ってきて貢献するように、と言いました。
四十の手習いで、人さまに聞かせるほどのものではない。だいいち、小品一曲吹き終えるのに、3度は音をはずすかつっかえるかするが、それでもいいのか、と言ったら、何でもいいから参加せよ、とのことでした。約束の日の夜、その責めを果たして冷たいビールで冷や汗をおさめてほっとした事を、いまも鮮明に思い出します。
その次の朝は、NLAの住民の一家がやってきたので、そよ風の通るベランダでミサをしました。三世代、大人4人、小さい子供4人の楽しい家族ミサになりました。
写真は、野尻湖の小屋の居間の暖炉の前、母のギターと私のフルート、それに母の若い頃(写真裏の父の筆跡の撮影日を見るとわたしがちょうどお腹の中にいた時)の写真を並べてみました。ギターの胴の底には、名匠カラーチェの写真と自筆のサインと製造年、製造番号が見えます。