★ 〔補強改訂版〕
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ローマの復活祭(1)=枝の日曜日
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今年はたまたま4月1日 復活祭の日曜日の前の日曜日を カトリック教会は 「枝の日曜日」 と呼ぶ
この1週間は神父たちは結構忙しい
私のようにローマで自由な神父は あちこちから声がかかり たいがい郊外まで出向することが多いのだが
幸い今年は自分の共同体のある市内の「主のご降誕教会」で仲間たちと祝うことができた
この日曜日 イエスが群衆から救世主メシアとして歓呼の声で迎えられ 謙遜にロバにまたがって
棕櫚やオリーブの枝を打ち振り、万歳!ホザンナ!と叫ぶ群衆の中を エルサレムに入城するのを記念する
この日 群衆がイエスに期待したものは革命家 地上の政治的解放者 彼らのメシアだった・・・・
写真は 主任司祭のドン・ピエトロから棕櫚の枝を渡されるアレッサンドラとその後ろは夫のマウロ
みんな20年以上の付き合いの共同体のメンバーだ
ここは教会から直線距離で1キロほど離れた普段はあまり使われない小聖堂
空き屋の小聖堂と言っても 四国の高松の司教座聖堂より よっぽど大きく立派な建物だ
枝の授与式が終ると 信者は行列をして 目的の教会に向かう
エルサレムに向かうキリストと群衆のように
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光線の具合で上の写真よりやや暗いが 同じ聖堂の中 左手前は棕櫚の枝を渡し続ける主任司祭
棕櫚の枝をもらった信者は祭壇の後ろの内陣に枝を持って立つ
今日キリスト役の主任司祭は 年に一度 自分の教区民一人一人を名前で呼んで一声かける
牧者と羊の絆の確認の瞬間だ だから渡し終えるのに小一時間はかかる
前の会衆席が空になり 祭壇側の内陣が立錐の余地もないほどいっぱいになると
一同はギターの伴奏に合わせて 信仰宣言を高らかに歌い上げる
♪ われは天地万物の創造主 全能の父である神を信ず ♪
♪ おん独り子イエスキリストを信ず ♪
♪ (彼は)聖霊によって宿り 処女マリアから産まれ ♪
♪ (人類の罪を贖うために) 苦しみを受けて十字架の上で死に 葬られ ♪
♪ 三日目に死者の中から復活し ♪
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♪ (我々の)肉体の復活 永遠の命を信じる ♪
♪ アーメン ♪ ♪ アーメン ♪ ♪ アーメン ♪
それから一同は小聖堂から外に出て 教会まで行列をして 街を練り歩く
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聖堂の外には 必ずジプシーの女が-たいてい子供を抱いて-物乞いをしている
ちょっと離れたむこうの石段の下では
白いガウンを着せられた少年が配られた棕櫚の枝やオリーブの枝の実費をカバーするための献金を集めている
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教会前の広場は雑然とした駐車場の様相だが 信者はその隙間を埋め尽くして今や遅しと行列の出発を待つ
どこからともなく湧いてきた緑のキャップのボーイスカウトがこんな日はやけに目立つ
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まさに行列に出ようとする司式者たち 金銀の装飾を施した聖書を胸元に持つのはシルバノ
この小教区に属する3人の永久助祭の一人 司祭が生涯独身なのに対し 永久助祭は既婚者だ
教会からお手当をもらわない名誉職だが お祭りでは結構役がある
右の写真のオリーブの枝で飾った十字架を捧げ持っているのはロレンツォ 彼も永久助祭
実は 私も同じような司祭の祭服を着て神妙に司祭団の一員をなしているはずなのだが
カメラをしっかり握って手放さない 日本なら 堅物の律法主義的な信者夫人から
祭服を着てカメラを持つなんて不謹慎な とお叱りが飛んでくる いや絶対に!
しかし ここはローマだ 誰も咎めはしない おおらかなものだ
ここの空気が私には合っているのかも・・・
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行列の通る道はあらかじめ交通規制が敷かれ車は来ない
十字架を先頭にしずしずと
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行列にはこの婦警さん一人だけエスコートしてくれる パトカーは先で道路を遮断している
行列が通りかかるとガソリンスタンドで働く青年も十字を切る
色が浅黒く顔立ちの彫りから見てインド人かスリランカの人だろうか
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行列はそんなに整然とはしていない 70年代のべ平連のフランスデモみたいといっても もう誰もピンと来る人はいないわけだ
それにしてもボーイスカウトが目立つ イタリアではカトリックのいい子の少年団ぐらいに思われているが
実態はカトリックとは無関係
日本ならキリスト教の教会は圧倒的マイノリティーだから ボーイスカウトと言えば天理教や神社の方が数が多い
要するに軒先を借りられればどんな宗教でもいいという無節操さがある
生真面目な新任の主任神父さんとスカウトのリーダーの間で意見の対立があった
数日後 彼は子供たちを連れて近所の別の宗教に寄生先を変えた
カトリック信者や司祭が加盟すれば即破門になる秘密結社フリーメーソンと どこかで繋がっているという話をローマで聞いた
イタリア人はボーイスカウトの子どもたちと そのリーダの大人たちをからかって
パッツォの姿をした子供たちと 子供の姿をしたパッツォたちの集団
と呼ぶ 「パッツォ」 とは イタリア語で 「気違い」 のことなのだが・・・・
イタリア人たちは平気でどぎつい冗談を言ってケロッとしている
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小聖堂を出て緩やかな坂を下ると2000年以上前からあるローマの城壁にぶつかる
そこからVの字に折れて 教会に向かう 教会は旧城外にある
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道端の柱にはスポーツ雑誌の広告が
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城壁からトゥスコラーナ広場までの直線道路の両側のユダの樹は 赤紫の花盛り
キリストを裏切った12使徒のひとりユダの名にちなんだこの木 ユダは後で絶望して首をつって死んだことになっている
一説によると ユダは12使徒の中にタダ一人潜入した熱心党の一味
キリストに地上の革命家を期待し イエスを仲間に引き入れようとしたが失敗した
こんな華奢な木で首を吊ったのか それとも花の色からユダの血の色を連想したものか・・・
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路上駐車の車の屋根越しに美容院のウインドウが
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行列は無事教会までたどり着いた 我々の苦労に満ちた人生の旅路の終点に天国の門が (教会の正面中央のも扉がそれを象徴する)
助祭が捧げた十字架の横木の先でこのドアをコンコンと叩くと バーッと二枚の扉が内側に開く (キリストの十字架の生贄が天の門を開いたといいたいのだろう)
群衆はその扉から聖堂内に入った(写真右) これから枝の日曜日のミサが始まる
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祭壇の周りに子供たちを集めてお話をするご機嫌のドン・ピエトロ主任司祭 彼は常にこの教会のプリマドンナだった
話はとても上手で もう何十年もこの教会に君臨してきた (が 長すぎて弊害もあった)
10年以上前から 彼は司教に昇進するぞ と噂されながら何故かとうとうならなかった
また 今年こそ引退と噂されながら これまた数年が過ぎた 今年の夏こそ と人は言うが ほんとかな?
彼は諸宗教対話に熱心だ その熱が嵩じて 教会の地下に貧しい回教徒たちを住みつかせている
カトリックの聖堂の下で 日夜コーランの祈りが捧げらられているのではないか
私たちカトリック信者の共同体が教会の施設を使うときなど
ドン・ピエトロから鍵を託されている下働きの色の浅黒い回教徒の信者さんに気兼ねするはめになる
ン? これって何かおかしくない? と日頃から私は疑問に思っているのだが・・・・
昼をとっくに回ったころ 枝の主日のすべての儀式が無事に終った
私たちの共同体は これから郊外のレストランで一緒に食事をすることになっていた
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道端にはタンポポの花が
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昔のブドウ農場の倉庫を改造したレストランでくつろいで食事をする
20年以上の付き合いの50人ほどの共同体 互いに生活の裏の裏まで知り合った仲だ 喧嘩もした
こんな席が 自然と本音の信仰の分かち合いの場になる
若い夫婦には子供が多い 子共達ばかりで別のテーブルで食事をとっている
もう年かさの子共達から結婚し始めている たいていあちこちの同種の共同体の子共達同志の結婚だ
こうして強い信仰的空気の中で育まれた子沢山の家庭がネズミ算で増えていく計算になる
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外はもう初夏のような陽気で 新緑が美しい
(おしまい)
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