:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「日ソ円卓会議」 の 「想い出」

2015-01-25 21:02:42 | ★ 日記 ・ 小話

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「日ソ円卓会議」「想い出」

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齢を重ねると、ふと思い出したことを、何となく書き留めておきたいと思うものらしい。



ローマの昼下がり、平山司教様のお部屋で午後のお茶を二人で楽しんでいたとき、話題が旅の思い出に及んだ。司教様も地位相応にあちこち世界を旅されたようだが、世俗の生活の長かった私は、公私にわたってそれ以上の旅を経験している。

1980年の秋、まだコメルツバンクにいた頃かすでにリーマンブラザーズにスカウトされた後だったか、ある日、「日ソ円卓会議」という組織から封書が届いた。中には、同会議への招待状が入っていた。

鳩が豆鉄砲を食らった思いがしたが、若くて好奇心が旺盛だった私は、一体何の話かはあとでゆっくり調べることにして、取り敢えず「喜んで招待をお受けする」旨の返事を書いた。

数日を経ずして、アエロフロートのファーストクラスのモスクワ往復切符と共に日程表が届いた。いつのまにか私は「日ソ円卓会議」の宗教部会の「カトリック日本代表」ということになっていた。だんだん謎が解けてきたぞ。

北方領土問題が未解決であるため、日ソ間に平和条約が存在しないことは幅広い分野における両国関係の進展にとって大きな支障になっている。(それは今も変わりない。)その不都合を少しでも補うために、1979年12月に第1回「日ソ円卓会議」がホテルニューオータニで開かれていたことなど、そのとき私はまだ全く知らなかった。

政界、財界はもちろんのこと、科学も、スポーツも、音楽も、映画も、あらゆる分野の交流が相乗りしていた。日本側は一応民間を装ってはいたが、代表団の団長は与党の桜内幹事長だったし、窓口には社会党の関係者が多数名を連ねていた。また、ソ連側は露骨に共産党の要人が前面に出ていた。

翌1980年には第2回「日ソ円卓会議がモスクワで開かれることになった。日本からは130名の代表団が大挙参加した。新たに加えられた宗教交流部会も、ロシア側はもちろんモスクワ総主教以下のロシア正教会がホスト役。日本からは伝統仏教各宗派や神道の他、天理教、創価学会、立正佼成会、などの新宗教にプロテスタント各派もこぞって参加したのだが、カトリックの代表がいないのは画龍点睛を欠くということになったらしい。

では何故一介の国際金融マンの私に一本釣りの的を絞ってきたのだろう。それは当時、日本のカトリック教会がロシア革命を逃れてアメリカに亡命したロシア正教会と外交関係にあり、モスクワの正教会とは断絶状態にあったためのようだ。だから、モスクワは東京のカトリック司教協議会にではなく、社会党に近いプロテスタント教会にカトリック代表の人選を求めたのだろう。私はベトナム反戦運動以来、同和問題や反公害運動などでプロテスタント左派にお友達が多く、その線からの推薦で選ばれたに違いなかった。


共産圏初のオリンピックのために国威をかけて新築されたホテルコスモスの威容


同年7月に開催されたオリンピックに向けて大改修をしたモスクワ空港は、もう粉雪の舞う季節だった。降る雪の彼方の白樺林は灰色で憂鬱な感じがした。円卓会議の会場のホテルコスモスは、オリンピックに合わせて開業したソ連で最もモダンな欧米式の巨大ホテルで、中は快適そのものだった。どの部門も友好ムード一色に華やいでいて、ロビーでテレビニュースのカメラのインタビューなど受けると、偉い人になったような錯覚にも誘われた。

何もかも申し分なくみんな満足していると思われたのだが・・・、最初の夕食の席で、自民党の田舎代議士と思しき男が、タダワインを飲みすぎたか、突然大声で騒ぎだした。

「なんだ、こんな萎(しな)びたリンゴを出しやがって!日本人をバカにする気か!」と、赤く上気した顔でいきり立っている。思わず私は自分のテーブルに目をやったが、そこには形の整わない小さな赤いリンゴが食後の果物として盛り付けてあった。


ホテルコスモスの大食堂 私たちの時は丸テーブルの点在だったような気がするのだが・・・


ドイツで何度も冬を過ごした私は、それが冬の北欧では特上のもてなしであることを知っていたので、酔っぱらいの罵声に身の竦(すく)むような恥ずかしさを覚えた。

次の日、銀座の千疋屋で一個何千円もしそうな大きく艶やかな林檎がどのテーブルにも山と盛り上げられたのは言うまでもない。その日のうちに狸穴のソ連大使館に電信が入り、東京中で買い占めたものを、次のアエロフロート便が急送したものに違いない。つまり、あのテーブルの給仕はただのホテルマンではなかったということではないのか。日本人同士の気を許した会話をスパイできる日本語のわかる人材が給仕姿で各テーブルに張り付いていたのかもしれないのだ。

別の日、午後から自由時間だった。戦後日本の社会党委員長を務めた川上丈太郎の長男、当時社会党の国際局長をしていた川上民雄の秘書の M. I. 嬢(皆さんプロテスタント)と仲睦まじく、モスクワの庶民の長距離乗合バスに乗って、できるだけ遠く郊外までいって、庶民の生活に直接触れようと冒険に出かけた。バスの乗客は見慣れぬ日本人の若いカップルを黙って観察していた。モスクワ市街を抜けると、すぐ灰色の貧しい雪景色に変わった。開放感と好奇心から、二人は車窓の景色を眺めながら仲睦まじくおしゃべりに夢中になっていたが、1時間余りも走った頃か、後部座席に居た制服に自動小銃の若い兵士が近づいてきて、きれいな英語で、「お客様、どうぞ次の停車場からモスクワにお戻りください」と言った。言い方はあくまでも慇懃だったが、それは任務を帯びた者の冷たい響きがあった。従わなければ即逮捕もありえた。当時のソ連では、許可なく都心から60キロ以上離れることは許されていないことを、ホテルに帰ってから知った。この一見「恋人」たちはホテルを出たときからあの兵士に尾行されていたのだった。

鉄のカーテンの向こう側、共産圏ソ連の緊張した社会を思い出させるエピソードだった。今のロシアはそんなことはなかろうと思うが、逆に、日本の社会はいま、戦前、戦時中を思わせるような「物言えばくちびる寒し」の世界に変わりつつあるような、嫌な予感がする。

* * * * *

35年まえ、お金持ちの国際金融マンだったわたしは、ニコンのボディーを複数個、長短のレンズを何本か持って写真を撮ることを趣味にしていたが、今のデジカメと違って、どんどん溜まっていくネガの整理が追いつかず、神父になった今、当時の写真はすべて失われてしまった。このブログをたくさん撮った自分の写真で飾れないのはまことに残念だ。 

(続く)

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★ 歴史を記憶に刻まないものは・・・

2015-01-25 18:44:18 | ★ 大震災・大津波・福島原発事故

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歴史を記憶に刻まないものは・・・

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 アウシュヴィッツ強制収容所博物館には下のようなパネルがある

「歴史を記憶に刻まない者は、きっと また 同じ目に会うに違いない。」
ジョージ サンタヤーナ

 

「国連グローバー勧告」から見えてきた「福島」原発事故の問題点-④

日本人は、旧ソ連、今のロシアを、自分たちより民度の低い粗野な国だと、心のどこかで卑下していないだろうか。

そのロシアでチェルノブイリの事故が起きると、年間5ミリシーベルト以上の地域が「移住地域」に、1ミリシーベルト以上の地域が「避難の権利区域」に指定され、避難を希望する者は、補償や移住のための包括支援、医療支援が受けられる、とのポリシーが確立し、影響を受けた人々に対する長期間の保養、年に1、2度の包括的な健康調査が実施した。国連が勧める「人道的な対応」をしているといえるだろう。

それに対して日本では、1ミリシーベルト以上、20ミリシーベルト以下の地域に住む膨大な数の人々が、

     -避難したくても国の支援が得られない。

     -健康に不安を感じても健康診断を十分に受ける機会がない。 

     -健康に対する被害や不安について、口にするだけで、バッシングされる。

など、かけがえのない「人権」としての健康を守る視点が置き去りにされ、切り捨てられている

「リスク対経済効果」の原則に立ち、国民の「人権」よりも「経済」を優先する日本は、ロシアに比べてはるかに民度の低い野蛮な国と言わざるを得ないのではないか。

日本には「電離放射線法障害防止規則」(1972年)というのがある。今も有効な法律だ。それによれば5ミリシーベルト相当以上の地域は「放射線管理区域」に指定され、その地域には一般の立ち入りが禁止され、何びともそこでの宿泊や飲食は禁止されている。この規則は何十年にわたり遵守されてきた。

それなのに、原発メルトダウンという最悪の過酷事故が起きると、今の政府はその有効な法律自ら違反して、福島県内外に5ミリシーベルト以上の地域が広範囲に存在するにもかかわらず、子どもや妊婦も含めた住民に対する避難の支援や適切な健康診断、長期間の保養、その他の有効な対策がなされていない。

2年前には第一原発から半径20~30km圏内の避難準備地区の指定が解除された。しかし、放射線への不安から住民の帰還は進んでおらず、今も14万人もの人々が避難生活を続けている。

それなのに、高度に汚染されたために住民を一旦は強制避難させた地域が、除染が済んで20ミリシーベルト以下になったからと称して避難指定を解除し、支援を打ち切り、住民を、懸念を抱えながらも元住んでいた家に帰還をせざるを得ない状況に追い込もうとしている。

原発から大量の放射性物質が環境中に放出されたのに、政府も電力会社もその影響をなるべく小さく見せようと躍起になった。学校教育、社会教育で低放射線の危険性を無視し、文部科学省の外郭団体である放射線教育フォーラムでは全国各地の学校の先生を集め、放射線安全教育を行い、100ミリシーベルト以下は安全だと生徒に教えるように指導している。

3.11のあと、2011年4月12日から甲状腺被曝状況を核種別に測定可能な測定器を用いて測定が始められたが、福島県の圧力を受けて、たった5日間、わずか62人の測定をしたばかりのところで打ち切られた。チェルノブイリ原発事故後の旧ソ連では数十万人規模の測定が行われたことと比べて、恐るべき対応のずさんさと言わざるを得ない。

現在福島県が行っている「県民健康調査」、“健康被害は考えられない”から安心しなさいと言って県民の不安を打消すこと目的に開始されたものだ。このように、福島県に雇われた学者たちは故意にリスクの過小評価を行い、また、事故初期に健康被害がないことを医療従事者や一般市民に強調して回った。

その結果、行政や国、そして≪専門家≫に対する「不信」が広がった。被曝限度を1ミリシーベルトから20倍の20ミリシーベルトに引き上げて移住回避を図り、同じ限度量を用いて4月から通常通りの学校の開校も行われた。食品に対しては、年間5ミリシーベルト相当の暫定基準値を設けて、住民レベルでの食品測定は行われず、学校給食は“地産地消”のスローガンを子供たちに押しつけ、“不検出”という“汚染ゼロ”と混同されるような聞きなれない言葉によって、さらなる不信を招いた。

そして、人々が目覚めて「被曝」についての知識を身に着けていくにつれ、国、県、それらに雇われた学者、いわゆるカッコつきの≪専門家≫たちの放ったこれまでの “虚言” の数々が、次から次へと明らかになってきた。

事故当時の被曝の実態と、現在も続く被曝の現状とそのリスクを “ぼやかしたまま” 安全と安心を根拠なく押し付ければ押し付けるほど、不信は高まっている。

医療機関に対する不信も高まっている。≪専門家≫による現地の医師たちに対する情報提供は、「100ミリシーベルト以下は、健康に影響はない」と誤解させるもので、その結果市民が真剣に相談しようとしても、医師たちから冷たくあしらわれるようになった。

ここに、AAR(難民を助ける会)の相馬事務所が閉鎖になり、関係者が全員解雇された背景が見えてくる。それは、同事務所が、政府、県、東電の方針に沿わず、真実を伝え、住民の信頼を得ていたからに他ならない。国の虚偽宣伝に対して真実を明らかにすることは「国家に対する反逆罪」であり、真実のために働く者は「非国民」として容赦なく抹殺されねばならない。それが今の日本という国だ。

今や、日本は法整備においても、言論統制においても、戦争当時の状態に逆戻りしてしまった。準備はすでに整いつつある。後は、海外派兵し、戦争に突入する日を待つばかりだ。

福島原発事故の処理や補償の費用、老朽原発の廃炉費用、使用済み核燃料の処理費用などを計算に入れれば、他のどの発電手段よりも格段に高くつくのに、原発による電気代は安いと嘘の宣伝をし、ナチスの宣伝相のように、「嘘も百回言えば本当になる」を押し通し、再稼働をゴリ押ししている。

日本の50基余りの原発が、日本の潜在的核戦力であることを、静止衛星を軌道に投入できる精緻なロケット技術が、地球上どこでも射程に入る長距離弾道ミサイルそのものであることを、アメリカも、ロシアも、中国も知りぬいている。そして、日本人だけが核と宇宙開発の平和利用の「神話」を信じ込んでいる。「嘘も百回言えば・・・」の宣伝効果はすっかり浸透していると言うべきだろう。

沖縄から米軍が動こうとしないのは、日本を仮想敵国から護るためなんて真っ赤な嘘で、日本が同盟国の意に沿わない形で核兵器を製造し、衛星運搬ロケットを弾道ミサイルに転用しようとすれば、いつでも日本を制圧するぞという脅しのための抑止的前進基地であることを、いい加減に見破らなければならない。1951年の講和条約締結後も戦後の日本支配構図は終わってはいない。

同じ敗戦国のドイツは、ロケットの産みの親であったのに、弾道ミサイルに転用できる独自のロケットの開発をやめ、潜在的核戦力である原発を持つこともしないで、実質的平和国家への道を歩んでいるのに、歴史の先駆をなすノーベル賞ものの「憲法9条」を掲げた日本は、何としても憲法改正を行って、好戦的な野蛮国家への道に逆戻りしようとしている。国民はそういう政府に三分の二の議席を献じて白紙委任を表明してしまった。

歴史を記憶に刻まないものは、福島の教訓に学ばず、いま脱原発の選択をしなかったら、次の巨大地震で必ず福島の惨禍の2の舞を経験するだろう。そして、100年後にはその恐ろしい結果を刈り入れることになるに違いない。奢って盲目になり、自然を恐れず、神を畏れないものは必ずその報いをうける。日本の美しい島は本当に住めなくなるかもしれないのだ。

(おわり)

コメント (6)
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