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「日ソ円卓会議」の「想い出」
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齢を重ねると、ふと思い出したことを、何となく書き留めておきたいと思うものらしい。
ローマの昼下がり、平山司教様のお部屋で午後のお茶を二人で楽しんでいたとき、話題が旅の思い出に及んだ。司教様も地位相応にあちこち世界を旅されたようだが、世俗の生活の長かった私は、公私にわたってそれ以上の旅を経験している。
1980年の秋、まだコメルツバンクにいた頃かすでにリーマンブラザーズにスカウトされた後だったか、ある日、「日ソ円卓会議」という組織から封書が届いた。中には、同会議への招待状が入っていた。
鳩が豆鉄砲を食らった思いがしたが、若くて好奇心が旺盛だった私は、一体何の話かはあとでゆっくり調べることにして、取り敢えず「喜んで招待をお受けする」旨の返事を書いた。
数日を経ずして、アエロフロートのファーストクラスのモスクワ往復切符と共に日程表が届いた。いつのまにか私は「日ソ円卓会議」の宗教部会の「カトリック日本代表」ということになっていた。だんだん謎が解けてきたぞ。
北方領土問題が未解決であるため、日ソ間に平和条約が存在しないことは幅広い分野における両国関係の進展にとって大きな支障になっている。(それは今も変わりない。)その不都合を少しでも補うために、1979年12月に第1回「日ソ円卓会議」がホテルニューオータニで開かれていたことなど、そのとき私はまだ全く知らなかった。
政界、財界はもちろんのこと、科学も、スポーツも、音楽も、映画も、あらゆる分野の交流が相乗りしていた。日本側は一応民間を装ってはいたが、代表団の団長は与党の桜内幹事長だったし、窓口には社会党の関係者が多数名を連ねていた。また、ソ連側は露骨に共産党の要人が前面に出ていた。
翌1980年には第2回「日ソ円卓会議」がモスクワで開かれることになった。日本からは130名の代表団が大挙参加した。新たに加えられた宗教交流部会も、ロシア側はもちろんモスクワ総主教以下のロシア正教会がホスト役。日本からは伝統仏教各宗派や神道の他、天理教、創価学会、立正佼成会、などの新宗教にプロテスタント各派もこぞって参加したのだが、カトリックの代表がいないのは画龍点睛を欠くということになったらしい。
では何故一介の国際金融マンの私に一本釣りの的を絞ってきたのだろう。それは当時、日本のカトリック教会がロシア革命を逃れてアメリカに亡命したロシア正教会と外交関係にあり、モスクワの正教会とは断絶状態にあったためのようだ。だから、モスクワは東京のカトリック司教協議会にではなく、社会党に近いプロテスタント教会にカトリック代表の人選を求めたのだろう。私はベトナム反戦運動以来、同和問題や反公害運動などでプロテスタント左派にお友達が多く、その線からの推薦で選ばれたに違いなかった。
共産圏初のオリンピックのために国威をかけて新築されたホテルコスモスの威容
同年7月に開催されたオリンピックに向けて大改修をしたモスクワ空港は、もう粉雪の舞う季節だった。降る雪の彼方の白樺林は灰色で憂鬱な感じがした。円卓会議の会場のホテルコスモスは、オリンピックに合わせて開業したソ連で最もモダンな欧米式の巨大ホテルで、中は快適そのものだった。どの部門も友好ムード一色に華やいでいて、ロビーでテレビニュースのカメラのインタビューなど受けると、偉い人になったような錯覚にも誘われた。
何もかも申し分なくみんな満足していると思われたのだが・・・、最初の夕食の席で、自民党の田舎代議士と思しき男が、タダワインを飲みすぎたか、突然大声で騒ぎだした。
「なんだ、こんな萎(しな)びたリンゴを出しやがって!日本人をバカにする気か!」と、赤く上気した顔でいきり立っている。思わず私は自分のテーブルに目をやったが、そこには形の整わない小さな赤いリンゴが食後の果物として盛り付けてあった。
ホテルコスモスの大食堂 私たちの時は丸テーブルの点在だったような気がするのだが・・・
ドイツで何度も冬を過ごした私は、それが冬の北欧では特上のもてなしであることを知っていたので、酔っぱらいの罵声に身の竦(すく)むような恥ずかしさを覚えた。
次の日、銀座の千疋屋で一個何千円もしそうな大きく艶やかな林檎がどのテーブルにも山と盛り上げられたのは言うまでもない。その日のうちに狸穴のソ連大使館に電信が入り、東京中で買い占めたものを、次のアエロフロート便が急送したものに違いない。つまり、あのテーブルの給仕はただのホテルマンではなかったということではないのか。日本人同士の気を許した会話をスパイできる日本語のわかる人材が給仕姿で各テーブルに張り付いていたのかもしれないのだ。
別の日、午後から自由時間だった。戦後日本の社会党委員長を務めた川上丈太郎の長男、当時社会党の国際局長をしていた川上民雄の秘書の M. I. 嬢(皆さんプロテスタント)と仲睦まじく、モスクワの庶民の長距離乗合バスに乗って、できるだけ遠く郊外までいって、庶民の生活に直接触れようと冒険に出かけた。バスの乗客は見慣れぬ日本人の若いカップルを黙って観察していた。モスクワ市街を抜けると、すぐ灰色の貧しい雪景色に変わった。開放感と好奇心から、二人は車窓の景色を眺めながら仲睦まじくおしゃべりに夢中になっていたが、1時間余りも走った頃か、後部座席に居た制服に自動小銃の若い兵士が近づいてきて、きれいな英語で、「お客様、どうぞ次の停車場からモスクワにお戻りください」と言った。言い方はあくまでも慇懃だったが、それは任務を帯びた者の冷たい響きがあった。従わなければ即逮捕もありえた。当時のソ連では、許可なく都心から60キロ以上離れることは許されていないことを、ホテルに帰ってから知った。この一見「恋人」たちはホテルを出たときからあの兵士に尾行されていたのだった。
鉄のカーテンの向こう側、共産圏ソ連の緊張した社会を思い出させるエピソードだった。今のロシアはそんなことはなかろうと思うが、逆に、日本の社会はいま、戦前、戦時中を思わせるような「物言えばくちびる寒し」の世界に変わりつつあるような、嫌な予感がする。
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35年まえ、お金持ちの国際金融マンだったわたしは、ニコンのボディーを複数個、長短のレンズを何本か持って写真を撮ることを趣味にしていたが、今のデジカメと違って、どんどん溜まっていくネガの整理が追いつかず、神父になった今、当時の写真はすべて失われてしまった。このブログをたくさん撮った自分の写真で飾れないのはまことに残念だ。
(続く)