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ホイヴェルス師との出会い
きっかけは森一弘神学生(後の東京教区の森補佐司教)だった
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第2次世界大戦が終わるまで、父は内務省の高級警察官僚だった。
原子爆弾が投下され、広島と長崎が焦土と化した直後、父はまず青森県陸奥湾でソ連艦隊との折衝に当たり、踵を返して広島の警察部長として転勤した。残留放射能の人体への影響が未知数だったので、アメリカは占領軍として自国の兵士を広島に送ろうとしなかった。代わりにやってきたのは明るく無邪気なオーストラリア軍の若い兵士たちだった。
父は広島界隈の旧家から日本刀の脇差を供出させ、安芸の芸者たちからは―当分着る機会もあるまいと―着物を買い上げて、脇差は将校たち、着物は将校夫人たちへのプレゼントとして用意し、母を伴って占領軍との顔つなぎに挨拶して回った。だがそれだけでは足りず、海軍兵学校のあった江田島の近くの島の料亭旅館に将校らを招待し、女たちを侍(はべ)らせて数日間にわたり酒池肉林の接待攻めにした。敗戦国の卑屈なサービスだった。
それが功を奏してか、私はヘッドポリスの坊やとしてマスコット代わりに可愛がられ、将校の膝に乗ってジープで広島市内を駆け巡ることにもなった。襤褸(ぼろ)をまとった同じ年頃の孤児が「ギブミー・チョコレート」と言って追いすがる姿を、ジープの上から見下ろす不思議な気分に戸惑った。
天皇陛下が全国を行幸し、広島にもお来しになった。警護は無論父の仕事だった。学者の天皇が自然観察のためお忍びで宮島の植栽をご覧になりたいと言われた。特別のランチを仕立ててまさに桟橋を離れようとしたとき、どこで嗅ぎつけたか一人の新聞記者がランチに飛び乗ってきた。彼を無慈悲にも海に突き落とした父は、後日、大事なカメラが台無しになって可哀そうなことをした、と言った。
お召し列車が岡山との県境を越えた時、父は車内で公職追放の辞令を受け取った。広い官舎を追われ、黒塗りの公用車もうばわれ、女中さんにもお手伝いの男性にも暇を出して、一家の転落が始まった。
心労も重なってか、お嬢さん育ちの母は開放性の肺結核で和歌山の療養所に隔離され、家族のもとに帰ってきたのはバラック同然の自宅で死を迎えるためだった。すでに重篤で施すすべもなかった母はせめて家族に見守られて31歳の若さで他界したが、半ば失業状態で三人の幼い子供を抱えた父は、途方に暮れて再婚した。
学歴とキャリアだけで人の上に立ってきた人生の大きな挫折体験から、父は私に社会の激変にも耐えられる人生を歩むようにと、技術者になることを私に期待した。私もそれに応えて神戸の自宅から通える学費の安い国立大学の理科系を目指して受験勉強に励んでいた。しかし受験を目前にした正月休みに参加した広島の黙想会で、突然司祭職の召命を感じ、帰宅すると、開口いちばん「僕は東京の上智大学に進み、イエズス会の神父を目指します」と父に宣言した。
失望のどん底に突き落とされた父は、人の口も借りて何とか翻意させようと説得に努めたが、かえってその努力が仇になり、私の決意はますます固くなるばかりだった。
今ごろの東大受験校とは異なり、当時のミッションスクールは、大きな宣教の成果を上げていた。135人ほどの卒業生のうち約三分の一が洗礼を受けており、その中から3人がイエズス会の志願者として上京した。上智大四谷キャンパスの学生寮に着いたら、同期の志願者は全国から7人だったか9人だったか、とにかく奇数の人数だった。新入生を二人ずつ部屋に割り振ると、一人余る。その一人が何故か私で、一年上級の森一弘神学生と同室になった。
森さん(と私は彼をそう呼んだ)は当時横須賀の海軍基地の跡地にあった六甲の姉妹校、栄光学園出身の秀才だった。入寮の次の朝から、森さんは私をイグナチオ教会の6時のミサに連れて行って、香部屋 (聖堂内陣わきの控室)で赤のスカートと白のケープに着替えて一緒に「ミサごたえ」(祭壇奉仕者)をするように指導した。
これが私のホイヴェルス師との最初の出会いだった。以後、毎朝同じ目覚ましで起き、一緒にホイヴェルス師のミサに与り、ミサ後は3人そろって香部屋を出て、イグナチオ教会の正面の入り口から入りなおし、最後の列のベンチに並んで跪き、5分―10分黙想し、師が立たれると一緒に聖堂の外に出て、さらに2-3分立ち話をして朝食に向かうのが日課になった。
たまにホイヴェルス師が早朝からお出かけになるときは、5時半のミサのアルーペ管区長が入れ替わって私たちと一緒にミサを捧げられた。アルーペ師は後にローマでイエズス会の総長になり、イエズス会の400年の伝統の大改革を敢行された人だ。年齢からいうとアルーペ師は総長として今の教皇フランシスコの上司だったはずだ。アルゼンチンのイエズス会の管区長ベルゴリオは、アルーペ総長の改革に抗議して管区長を辞任したが、すかさず聖教皇ヨハネパウロ2世は彼をアルゼンチンの枢機卿に抜擢し、それがフランシスコ教皇の誕生につながったという話は、確かな裏取りはしていないが、いかにもありそうな話だ。
話を戻して、都会育ちの森さんは、六甲の山出しの野生児にとっては洗練された兄貴分だった。都内の多くの博物館、美術館、そして、上野文化会館や日比谷公会堂のクラシックの音楽会にも、見ておきなさい、聞いておきなさいと言って連れ回ってくださった。1歳しか年は離れいてないのに、大した大人(おとな)に思えた。
左から、私(イエズス会)工藤さん(ドミニコ会) 森さん(後のカルメル会)
3人とも別々のことを考えている
学生時代の森さんは、どちらかと言えば物静かな思索的な人で、スポーツマンタイプではなかった。それに対して、私は中学・高校を通して山岳部で、六甲山を毎週の訓練場に、山猿のごとくすべての尾根と沢に精通していたし、夏は北アルプス、冬も極地法と称して、ベースキャンプを設けて頂上をアタックするヒマラヤのプロの登山家のまねごとをしていた。だから、山のことに関してだけは森さんより詳しく自信があり、案内もした。
左から森さん、工藤さん、三本目のピッケルは私の
実は、紀尾井会に私を連れて行ってくれたのも森さんだった。上智会館で寝起きする大勢の志願者の中でホイヴェルス師に近づいたのは森さんと私だけだった。私は森先輩の後にくっついていれば、いいイエズス会士になれると信じて日々を過ごしていた。
それから半年ほどしたある朝、ミサ後の黙想も終わって聖堂を出て、風雲急な曇天のもとに立ち止まったところで、二人の頭の上から長身のホイヴェルス師の声が下った。
「森さん、あなたの召し出しはイエズス会ではありません。」
森さんがその凛とした声をどう受け止めたかは知らないが、私にとってはまさに晴天の霹靂(へきれき)だった。そんな事って有りなんだ、とど肝(ぎも)を抜かれた。数日を経ずに彼の姿は寮から消えた。カルメル会に志願者として移っていったのだと思った。彼はその後、会からローマに送られ、司祭に叙階されると日本に戻り、上野毛(かみのげ)の修道院に住まわれたが、やがて修道会を出て東京教区の一司祭となり、白柳大司教のもとで補佐司教に抜擢され、大司教退任後は自分も補佐司教を辞めて、信濃町の真生会館に移って今日に至っているのではないか。
私はホイヴェルス師のもとに一人残り、相変わらず師の「ミサごたえ」をしながら、イエズス会の志願者を続けた。そのころ、自分では勝手に師に期待され愛されていると思っていた。
そのホイヴェルス師に私を引き合わせてくれた決定的な人物が森さんだった。そして、彼はその後も私の人生の重大な転機、危機に際して、一度ならず大きな役割を演じることになる。
「心の闇を乗り越えて 私の歩んできた道 森一弘(司教様)オリエンス宗教研究所 (2004)」の、第 1 章 教会に出会っていなければ?、を少し読み直しました。東京・上野毛のカルメル会の修道院が一般信徒に開放することについての森司教様のことばを読み直しかったからです。第一章にあるカルメル修道会と臨済宗のある道場との出会いの直前に、「・・・。若者たちのありのままを受け取り、理解し、導いてくれる指導者が必要だと思います。」とあります。ようやく、森司教様の道に、うわべだけですが、少しだけ触れることができたような気がします。上のことは、ローマでのこと、上野毛修道院でのこと、多くの苦しんでいる人との出会いに、深くつながっているように感じます。わたしの一方的な感想です。