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映画『殉教血史 日本二十六聖人』
ー われ世に勝てり ー
と
ヘルマン・ホイヴェルス神父
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― 1930年代前半期の日本カトリック教会の文化事業 ―
手元には、昨年7月15日に亡くなられた平山高明司教様から私に託された一枚のDVDがある。題は、映画『殉教血史 日本二十六聖人』(以下、『26聖人』)で、1931年に公開されたこのサイレント(無声)映画は、満州事変前後の時期における日本のカトリック教会の微妙で困難な状況と深く関連している。
時あたかも、日本は軍国主義化、ファシズム化の一途をたどっていた。日本のカトリック教会(のみならずキリスト教全体)が敵性国の宗教として迫害され、信者が非国民扱いされる危険を回避するために、キリスト教徒は日本の美徳である「主君に対する殉死の精神」にも等しい死生観を持ったすぐれた国民であることを証し、当時の日本人信徒には希望を与え、海外に対しては日本のカトリックが偉大な殉教者を輩出して信仰を証した真正のキリスト教の伝統に生きる教会であることを宣伝するための、極めて政策的な「プロパガンダ」映画(宣教・宣伝映画)だった。
ハリウッドのスコッセジ監督が描いた遠藤周作張りの「サイレンス」(沈黙)などに比べれば、『26聖人』は「信仰告白の映画」と「不信仰の映画」の違いが歴然としていて、全く次元を異にする逸品だった。また、原作は活動弁士(カツベン)がスクリーンの袖でナレーションや台詞を滔々と語る無声映画だったが、今私が持っているDVDは、尾崎登明の語りでトーキー化されていて、それがまた素晴らしい。ちなみに、尾崎登明は、コンヴェンツアール・フランシスコ会の修道士。隠れキリシタンの末裔で、アウシュヴィッツの殉教者、聖マクシミリアン・コルベ神父の研究者であるが、この26聖人の映画では、弁士として自らの声でナレーションと台詞を吹き込みトーキー(音声付き)映画として完成している。
今の価値で言えば数億円の製作費は、当時日本の統治下にあった朝鮮の京城(今のソウル市)で牧場を経営していた政商、平山政十(故平山司教様の祖父)が私財を投げ打って作ったものだった。平山政十自身も隠れキリシタンの末裔だった。政十は国内での上映に加えて、海外でも各地で上映するために世界中を行脚している。
配役には、片岡千恵蔵や山田五十鈴など、当代一流の俳優を起用しているが、特筆すべきはドイツ人イエズス会士のヘルマン・ホイヴェルス神父が脚本を執筆し、演出を担当していることだ。哲学者であるとともに、詩人、劇作家でもあるホイヴェルス神父は、この映画の製作にも深く関り、力を注いだ。一方、平山政十は渡欧し、この映画のラストシーンを飾るため、ピオ9世教皇による26人の殉教者の列聖式の場面のフィルムを作成していた。
若いころのホイヴェルス神父様
私はいま、ホイヴェルス神父様と平山司教様の遺志を継いで、このDVDを携えて上映会の全国巡業をしたいものだと夢見ている。
そのホイヴェルス神父様の第47回目の「偲ぶ会」の日が迫ってきました。今年も以下の要領で開かれます。今回はこの「26聖人」のことも話題にしましょう。ホイヴェルス神父様の生前の面影を知る80才以上の老人も、師の形骸に接することのなかった若い世代も、誰でも自由に参加できます。
第47回「ホイヴェルス師を偲ぶ会」
日 時 2024年6月9日(日) 午後3時~5時半 (ミサと懇親会 参加無料)
場 所 JR四谷駅(麹町口)1分 主婦会館(プラザエフ)3階「ソレイユの間」
(イグナチオ教会の真向かい・双葉女学校の隣り)
連絡先 Tel.: 080-1330-1212; john.taniguchi@nifty.com 谷口幸紀 神父
初めての方でも、どなたでも自由に参加できます。
ttps://www.youtube.com/watch?v=ZjpL8w5JeaI
私がこの映画を知ったのは、10年くらい前、比較的若い30代くらいのカトリック信者の方々から教えていただきました。
片岡千恵蔵が大工さんに扮し、14歳くらいの山田五十鈴さんが子役とは思えない演技をされています。
コンヴェンツアル会の尾崎登明修道士のナレーションは、声に張りがあり、味わいがありました。
小道具には、昔のラテン語ミサ時代の司祭の祭服があり、司祭館に盗みに入った泥棒が、その祭服を見て、「なんだ、あれは?亀の甲羅みたいだな?」と言わせているあたり、ユーモラスな場面もありました。
若い人たちが、「昔(昭和6年)の子役は、しっかりした演技をしてた」と話していました。
ナレーターのBr.尾崎はご病床にあられましたが、その後いかがお過ごしか、案じております。
谷口神父様も書いておられますが、遠藤周作の「沈黙」の映画などと比べれば、いやいや、比べものにはなりません。1970年代の篠田監督の「沈黙」も、「不信仰の映画」の系列にあると若い私は思いました。
そもそも「沈黙」のテーマには、ローマン・カトリックの信仰は日本という田には根付かないのではないかという主人公の疑念が根底にあるのですから。
私は若いときから、ローマ・カトリックの信仰は普遍的(カトリケ)であると思っているので、沈黙だの何だのと言っている先輩方とは、立ち位置が違うのだと思います。
私は、高校生の時、遠藤周作の「沈黙」の読書感想文を書いて、旺文社の読書感想文コンクールで入賞した経験がありますが、遠藤作品のカトリック観、主人公の考える神の概念には批判的で、谷口神父様同様、近年のカトリック新聞に、遠藤作品を長々と取り上げる司教様の見識をずっと疑ってきた人間です。
二十六聖人の映画は、「沈黙」とは比較にならない、次元を異にする、秀逸な映画だと思います。ホイヴェルス神父様の偉業を、若い方々に知ってほしいと思います。
谷口神父様、暑くなりますが、どうぞお元気で!
尾崎登明修道士と最後に話したのはもうずいぶん前のことです。同修道士は2021年4月15日に亡くなられました。
Uチューブで見られると知って、全国巡回上映の意気込みが少し緩やかになりました。さすが、尾崎登明さんです。ちゃんと手を打っていたのですね。
安心しました。
それにしても、遠藤周作を高く持ち上げる人々は、私の信仰体験からは遠い人たちです。
信徒の信仰を惑わせる機会があります。危険だと思ったのは、ローマでスコセージ監督の「サイレンス」を見ましたが、インテリのローマの司祭たちが高く評価し私に同意を求めてきたことです。
遠藤の危険な誘惑が、世界的に感染しているのは由々しき現象です。
その答えは、「人が(私が)存在するからであり、私を創った神が存在するから」ではないでしょうか?