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ソクラテスは哲学者か?
創造と進化(1)
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キリストより5世紀も前の人。生涯にわたって知への愛(フィロソフィア)に生き、書き物を残さず、ソフィスト(自称賢者)たちのように報酬を求めず、極貧生活に耐え、ソフィストたちの無知を指摘していくうちに、反感を買い、憎まれ、誹謗され、追放を受け容れて生き延びる道を拒み、結果的に死刑を言い渡され、自ら毒盃をあおって死んでいったソクラテスは、まちがいなく本物の哲人、哲学者だった、と私は思う。
藤村操(みさお)は哲学者か?
明治36年(1903年)、一高の秀才だった藤村操は、16才の若さで「人生不可解なり」という意味の一文「巌頭の感」を傍らのミズナラの木の幹に刻んで、日光華厳の滝から身を投じて死んだ。
「立身出世」を美徳としてもてはやした当時の世相に激震を与え、彼の死後4年間に、共感した185人の若者が同じ華厳の滝で相次いで自殺を試み、そのうち40人が死を遂げた。以来、華厳の滝は自殺の名所となっている。
高い理想を持たず、金持ちになるために働くことを唯一の生き甲斐にしている現代の若者たちには見られない生きることへの真面目さが、彼らにはあった。
「自死」を受け入れたソクラテスは、人間の死後のことについては「一切わからない」と言った。藤村操も「万有の真相」を16才の明晰な頭脳で追究して、それは「不可解」であるという究極の答えに達し、その必然の帰結として「自死」を選んだのだ。
7世紀の時の流れを隔てて、ギリシャ人のソクラテスと日本の藤村操は、同じ問題に対して同じ答えを出し、同じ死を選んだ。
私は、藤村操もソクラテスに並ぶ立派な哲学の徒として認める。
では、私が習った上智の外国人哲学教授たちは哲学者だったか? また、私が50才代にローマのグレゴリアーナ大学で講義を受けた若い教授たちの中に、哲学者はいたか?
答えは、「ノー !」だ。
カトリック界の最高学府グレゴリアーナ大学に、襤褸(ぼろ)をまとったソクラテスが現れて、「学生たちと対話をしたい」と言っても、門前払い間違いなし。16才の藤村少年が、「告げたいことがある。上智大学の教壇に立たせろ!」と申し出たら、下手をすると、精神病院に放り込まれるかもしれないのだ。
今日、大学院で修士号を取り、博士論文が通らなければ、大学の哲学准教授、教授への道は簡単に開かれない。
普通、大学の哲学科教授は、みな自分の専門分野に特化している。西洋哲学は、古代ギリシャ哲学、中世哲学、近代、現代哲学と、時代別に専門化し、東洋哲学はインド哲学、中国哲学、日本哲学と地域別に専門特化している。それはそうだろう。世界中の全ての時代の全ての場所のすべての哲学者について同じ詳しさと深さで研究し、記憶に整理することは、スパコンならとにかく、人間業では不可能だからだ。
大学の哲学教授たちは、それぞれの専門分野の過去の著名な哲学者たちの教説に詳しい専門家で、その知識を学生たちに切り売りする代償として生活の資を得る職人だ。彼らは哲学史という歴史の先生ではあっても、「哲学者」ではない。教えるのは生活のため。哲学のために命を賭ける人はいない。ソクラテスを殺した金儲けが目的のソフィスト(自称賢人)たちにどこか似ていなくもない。
では、私の魂の師、ヘルマン・ホイヴェルス神父は哲学者だったか?
彼は、1923年(大正23年)に来日したドイツ人イエズス会士。来日1週間目にいきなり関東大震災の洗礼を受けたが、地震が収まると泰然として部屋から出てきて、「日本は地震の国と聞いていたから、慌てず自室の棚の上の大事なシルクハットを護っていた」と言って、肝をつぶして外に飛び出し、わなわな震えていた先輩の外国人宣教師たちをあきれさせた、というエピソードが残っている。
その彼は、背が高く痩せた、詩人、劇作家で、随筆も書いたが、好んで学生たちと対話し、興が乗るとドイツ語の民謡を楽しそうに歌って聞かせる飄々とした風貌の持ち主だった。
彼は、随筆集「時の流れに」の中に「哲学者」という一編を残している(注)。その冒頭に、「驚異というのは哲学の出発点」であり、「またその終点でもある」という言葉があった。また、「哲学者は精神を弁明し、自然を守る」とも、「哲学者も(竹のように)まっすぐ成長せねばなりません。中正を外れた思想は許せない」とも書いています。そして、哲学者は「悪意の人たちが形而上学の聖堂の中に押し入ったとき、警報を鳴らす精神の番兵」とも定義しています。哲学者は「知識の深い竪坑から人類のために宝を運び上げる(者)」とも表現しました。
彼、ホイヴェルス師は、この小品の主人公である「哲学者」の口を借りて、「神についてただ二人の人――司祭と詩人――だけが語るべき」と言わせ、「司祭は神の神秘の管理者であり、その神秘を人々に配るもの」と定義し、それに対して、「詩人と言うものは神の鶯です。神のものについて歌って上機嫌になってしまう。」と語らせています。そして、哲学者については「僕らはドン・キホーテのような悲劇的な格好をした騎士ですよ。私たちが神について論ずることは不敬です。」と。
では、哲学者の存在理由はどこにあるか、という問いに対しては、「存在の根拠を探求し予感し、驚くこと」と答え、「私たち哲学者は Vom lieben Gott(なつかしい神についての)話をする権利を有していない。そうするためには、私たちはすべての哲学を忘れて子供のようにならなくてはだめです」と締めくくる。
これらの哲学と哲学者についての一風変わった、しかし極めて意味深長な描写を通してわかることは、司祭であり、詩人であるホイヴェルス師は、加えて彼自身、優れて本物の「哲学者」でもあった、ということではないだろうか。
12年に亙る上智大生活を通していつもホイヴェルス師のそばにいた私に、師は、実に多くの言葉を残された。
そのひとつに、「神を知らずに真面目に哲学する人には、発狂するか、自殺するか、二つに一つしか道はない」という厳しい言葉がありました。
哲学が人を狂気へと導いた一例として、ニーチェは1989年1月3日トリノ市の往来で騒動を引き起こし、二人の警察官に取り押さえられ、その後、バーゼルの精神病院に入院させられた。そして、「私が人間であるというのは偏見です。…私はインドに居たころは仏陀でしたし、ギリシャではディオニュソスでした。…アレクサンドロス大王とカエサルは私の化身ですし、ヴォルテールとナポレオンだったこともあります。…十字架にかけられたこともあります。…愛しのアリアドネへ、ディオニュソスより」 と書いている。
上のホイヴェルス師の言葉に照らせば、なぜソクラテスが自由に毒盃をあおる死の道を選び、藤村操が華厳の滝から身を投じて死に、ニーチェは狂人になったかも納得できる。
そして、師は「神を知っている人にとっては、哲学するほど楽しい知的遊戯はない」とも付け加えられた。ホイヴェルス師は、早い時期からこの「哲学する楽しみ」に遊んでおられたのだろう。私とホイヴェルス師との交わりは、彼の死まで続いたが、80才の誕生日を迎えて、いま私は師のこれらの言葉がようやく腑に落ちるようになってきた。
私が、ブログ人生の最後のテーマとして、「創造と進化」を選んだのも、このことと無関係でははい。折に触れて、今まで同様、多様なテーマで書くこともあろう。しかし、通奏低音としては、今後この方向から外れることはないと思う。
私はなぜ存在するのか。私は何のために存在するのか。世界は何のためにあるのか。宇宙とは何か。存在とは何か。真理とは何か・・・。これらの根源的な問いに対して、神に逃げず、宗教に頼らず、人間の理性、知性だけに信頼してどこまで回答に迫れるかが「哲学の楽しみ」だと思う。
私は、それを哲学者ホイヴェルス師から教わった。これが仏教でいう「師資相承」と言うものではないだろうか。
(注) 私はこの哲学者のモデルはホイヴェルス師と親交のあった日本最初のカトリック哲学者、吉満義彦ではなかったかと考えている。
ですから、ヨハネさんが、ホイヴェルス神父様について書かれた本の中でそれが一番いいと思われたのは理解できます。
私は、ホイヴェルス神父様が書かれた一連の書物が復刻・再版され、多くの人に読まれるべきだと思っています。
神父様の御活躍を影ながら応援している者ですが、今回のブログは少々難しいです。ごめんなさい。私がもっと勉強していれば良かったのですが、00は哲学者だとか云々はやはり良くわかりません。
教会のお話のほうが身近に感じられ面白いです。
好き勝手にコメントしてごめんなさい。いつも楽しみにしていることを伝えたかっただけです。
コメント有難う御座いました。
憲一さんは学位について強い関心をもっておられるようですね。学位については日本と欧米とでは微妙な運用の違いがあるのは確かです。
私の父は、素人の碁打ちでしたが、ある日こんなことを私に言いました。
日本の医学博士、理工系の博士は、囲碁の初段の人数よりも多いから余り値打がない。しかし、文学博士には希少価値があるから取っておくのも悪くない、と。
今の制度はよく知らないが、半世紀以上前の私の学生時代には、文科系には哲学博士とか、心理学博士とか、社会学博士とか国際関係博士とか言うような細分化された博士号はなく、みんな文学博士一本に包括されていた。
ところが欧米では、文学博士というのは聞いたことがなく、文科系はおおむねPHD、つまり哲学博士に統一されているようだった。
ドイツの銀行の本店に勤務していたとき、私の下宿の大家さんはパイプオルガンの奏者だったが、音楽博士ではなくPHD、つまり哲学博士の学位を称していた。驚いたことに、その奥方はどこの女学校上がりかは知らないが、周囲」からはフラウ・ドクトーリン(博士夫人)と呼ばれて一目置かれていた。
ドイツ社会では博士号が庶民生活の中でこんなに価値を発揮するのだったら、自分も取っておけば良かったな、と、ふと思ったものだ。
当時わたしは、3年間の博士課程を終え、所定の単位も取り終えて一応課程を終了し、中世哲学研究室の助手になったが、博士論文は長く大学に留まり沢山学術論文を翻訳をしたり、研究論文を専門雑誌に載せたりするうちに、博士号はいつか勝手に向こうから付いてくるだろう、ぐらいにのんびり構えていた。
それが、若い学生諸君の学生運動で大学の機能が麻痺し、全共闘シンパの若て助手として理事会からマークされ、助手を首になったときには、大学なんて糞喰らえとばかりに飛び出して、国際金融の世界に転身したのだった。
ドイツでオルガニストのエシュマン氏が名刺にPHDと書き、奥方が博士夫人と呼ばれているのをみて、ああ、ドイツでは博士号がこんなに値打があるのなら、自分もおやじが言っていたように取っておけば良かった、と思った。
後日、50歳を過ぎてローマのグレゴリアーナ大学で神学修士を取り、カトリックの神学校で哲学と神学を教える教授資格も取ったが、私は相変わらずPHD(哲学博士)ではない。
ローマでは哲学や神学の分野で、誰も手を付けていない哲学史上の小さなテーマ見つけて、1年ほどかけて重箱の隅を突っつくように調べて論文に仕上げれば、若い神学生が猫も杓子も3年の課程終了時にはPHDや神学博士になっていくのを見て、ああ、これは日本の医学博士よりも粗製乱造の学位の大バーゲンだと思った。
帰国後、高松の神学校で教えることを求められたが、私は哲学史、神学史の歴史の先生をやる気はさらさらなかったのでお断りした。では、日本の仏教について教えてはどうかと求められたが、体験に基づく集中講義を3-4回するのならいいが、それを1学期の授業数に割り振って、引き伸ばして語るなんてまどろっこしいと思って、それもお断りした。
今後、最大限配慮したいと思います。
またもし難しいことを書いたら、また叱ってください。
チコちゃんへ
私も、「信仰を欠いた哲学も芸術も、虚しい」と思っている。