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ふと思うこと。煉獄(れんごく)って本当にあるの?
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その答えは「ある!」です。
確かに、「カトリック教会のカテキズム」という日本語版で 839 ページに及ぶ書物の中に記載がありま。
「カテキズム」は「教理問答集」とか「教理教育の手引き」とか言われるカトリックの信仰内容を分かりやすく解き明かした本と言えばいいでしょうか。(うまい訳が見つかりません。)
その「カトリック教会のカテキズム」の中の309ページに、たった1ページだけ、さりげなく「最終の清め・煉獄」という項目があります。
その内容を分かりやすく言えば、誰かが死んだとき、まっすぐに天国に入れてやれるほどの聖人ではないが、さりとて、根っからの極悪人でもなかったから、地獄に追いやるには忍びない。だから、なんとか天国に入れる程度まで清くなるように、しばらく煉獄で火にあぶられて浄化の苦しみを受けなさい、ということでしょうか。
教会がそう教えろというのであれば、痛くもない腹を探られて異端神父と言われるのも不本意だから、人にはそう教えますが、なんともお尻の下がムズムズして、すわり心地が良くありません。
聖書をひっくり返してみたり、神学者たちの膨大な論文を精査するために時間を費やしたりするつもりは更々ありませんが、ごく常識的に、生活感覚として、私の困惑している状態を率直に吐露したいと思います。
今年のはじめ頃から、大分の平山司教様の容態があまりよくないという話は耳にしていましたが、3月のはじめに、いよいよその容態が悪化して、主治医の見立てではあと1週間しか持たない、というニュースが飛び込んできました。
すわ、一大事! 平山司教様と言えば、高松からローマに避難疎開していた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の院長様で、私はその秘書として10年余りローマで寝食を共にしてお仕えした上司ですから、お亡くなりになる前に是非いちどお見舞いをしたいと思いました。ところが、神父業の悲しさ、雑事に追われてやっと大分にたどり着いたときには、医者の宣告した1週間をわずかに過ぎていました。
せめてお通夜に間に合えばという切ない思いで司教様のお家にたどり着いたら、幸いにもまだ生きておられました。
枕もとに名乗り出たら、意識もはっきりしておられ、手を握る私に、目を開いて「一緒に過ごしたローマはよかったね。毎晩枢機卿様にご挨拶してから床について、いい夢を見ましたね」、と優しく述懐されました。
これは、私と司教様だけにわかる説明を要する隠語を含むお話です。
解読すると、晩の祈りの後、神学校の食堂で大勢の神学生とともに夕食を いただくと、司教様と私は同じ3階の部屋にいったんそれぞれ退きます。小一時間ほど頃合いを見計らって、私は司教様のお部屋に行き、戸棚からブランデーとグラス二つとチョコレートの小箱をテーブルに並べて、その日最後の儀式をいたします。
そのブランデーは「カルディナール・メンドーサ」という銘柄で、カルディナールはカトリック用語で教皇に次ぐ位の枢機卿の意味なので、ブランデーを寝る前の二人で味わう儀式を、「メンドーサ枢機卿様にご挨拶申し上げる」という話になるのです。
実に喉越しのいい高級ブランデーで、それにひとかけらのチョコレーと実によく合うのです。
瀕死で明日にもご臨終かと言われた司教様との今生の別れの話としては、実に粋な会話だと思いました。
そして、私の耳元に「もう数日前から私は天国の門の前に佇んでいるのに、なかなか門は開かない」とつぶやき、さらに声を潜めて「あのね、今の時間はまさに煉獄だよ!」とささやかれたのです。
私は何とも心温まる思いとともに、後ろ髪をひかれる心地して大分を後にしましたが、その後、老司教様がお亡くなりになったという知らせはいまだに届いていません。3月末が99歳のお誕生日でしたから、あれから4カ月、この勢いでは100歳のお誕生日まで生きられるのでは、という声さえ聞こえます。
他人の世話になるのが人一倍お嫌いで、秘書の私にさえ過剰なお世話を拒まれたほどの司教様ですから、生きるために日々何から何まで人の介護に頼らなければならない生活は、どれほどお辛いことか私にはよくわかります。聖なるご生涯を送られた司教様が、こんなに長い「煉獄」の試練を耐え忍ばなければならないとは、まことに不思議なことだと思いました。
私は、司教様のお姿を見て、カトリック教会が教える煉獄とは、死んでからのあの世のことではなく、生きているうちに済ます清めの業のことか、と悟りました。それならば納得です。「カトリック教会のカテキズム」はその短い記述の中で、「教会の伝承では、聖書の若干の個所にもとづいた、清めの日というものを取り上げています」と述べて、(註)のところで1コリント3・15と1ペトロ1・7を挙げていますが、それらの聖書の個所を読んでみても、私には無理なこじつけのようにしか思えませんでした。
日本人は死んだら斎場で煙と水蒸気とわずかな灰になって、肉体は滅び、五感は完全に封じられます。私は神父という職業柄、多くの人の死とお骨拾いに立ち会いましたが、私はいつも深く思います。
この人もまた、肉体を失い、新・旧約聖書の随所に見受けられる言葉のように、「先祖とともに深い眠りについた」のです。肉体が滅び、五感が封じられた瞬間から、時の流れも宇宙の進化も何も感じることなく深く眠り続けます。次に体を返していただいて五感が目覚め復活するときまで、本人の自覚としては一瞬の出来事であるに違いないと思っています。死から世の終わりの復活の日まで、何万年か、何百万年か、何億年か時間が経過しようとも、個々人の死から復活までは一瞬の出来事なのです。
私は83年の人生において、3度全身麻酔を経験しましたが、麻酔医師と看護師の会話が遠のいて聞こえなくなった瞬間と「お目覚めですか?」とい別の看護師さんの声を聴く瞬間の二つの瞬間は、同じコインの裏表のような一瞬のできごとでした。その間に2時間が経過していたか、難しい手術で6時間が経っていたのか、一体私は体に何をされたのか、全く認識していませんでした。
同じように、死んで肉体が滅んで五感が完全に閉じられてから、肉体を取り戻して復活するまでの間も、人の魂は全身麻酔よりも深い眠りの中にいて、死から復活までは、本人の自覚としてはまさに一瞬のこと、死んだ次の瞬間に復活してイエス・キリストの御顔を仰ぐことになるだろうと私は信じています。
死んだらすぐ深い眠りに入って、時の流れも外界の喧騒も全く知覚することなく、まるで死の次の瞬間のように復活するという話と、死んだらゆっくり煉獄の火に焼かれて清められるという話と、私の小さな頭の中ではどうしても調和しないのです。
カトリック教会の最高学府と言われるローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学で、神学修士と教授資格までいただいた私は、上の疑問に答えを与える講義を聞いて納得することはついにありませんでした。
私は死んだら肉体を失い五感は閉じられ、例えて言えば、深い、深い眠りに入り、気の遠くなるような宇宙の進化の歴史的時間の流れも、世界の変化の様子も全く知覚することなく世の終わりに復活するが、自分の主観的意識の流れにおいては、死の次の瞬間に復活して主の御顔を仰ぐことが出来るという想念は、私に深い慰めと希望と喜びを与えてくれるのです。
その時間の経過を伴わない二つの瞬間の間に、どのようにして煉獄の火の清めを体験することができるのか。肉体を失い五感が閉じられて深い眠りに入っている自分が、いかにして煉獄の業火を体験できるのか、私には全く分からないのです。
教会が信じろというなら私は信じます。しかし、私の貧しい頭は納得のいく理解に達し得ていなことを信者さんに説明するのは難儀なはなしです。どなたか、賢い方が、この問題を解き明かしてくださることを期待します。
最後に一つのエピソードを加えて終わります。
私がまだ大学生だった頃、神戸の六甲の家から歩いて5-6分のところに「小百合幼稚園」というのがありました。その幼稚園の経営者はカトリックの「煉獄援助姉妹会」という女子修道会でした。その修道会が、ある日突然会の名称を改めて、「援助姉妹会」となったのです。
会の使命の最も主要の部分は、煉獄で清めの火に焼かれて苦しんでいる膨大な数の魂たちを助けることに特化した会でした。それがどうして大事な会の精神の要である「煉獄」の二文字をを会の名前から外してしまったのでしょうか。
それは、時あたかも、第2バチカン公会議が教会の大改革に取り掛かっていた頃で、その女子修道会は公会議の神学的議論の経過を敏感に受け止めていて、中世では盛んに論じられてきた「煉獄」の存在そのものの意味があいまいになってきて、教会としてはあまり触れたくないテーマになってきたことを、敏感に感じ取ってのことだったに違いありません。
はっきり言ってしまえば、これからの世の中で、またカトリック教会の今後を見通して、「煉獄で苦しんでいる魂を援助するために祈り、働く」という目的を掲げて修道会を維持できる時代ではなくなったから、別の存在理由を見出してそれにシフトしていかなければ会の将来はない、と直感しての会の名称変更だったのではないかと思います。
わたし自身の中にも、煉獄の存在をわかりやすく定義しなおす神学的理論武装をしてもらうか、あるいは、いっそうのこと、勇気をもって、中世にはそういう教えを説いてきたが、今の時代には即さない信心で、もともとキリスト教の信仰内容に深く根差した教義ではなかった、とあっさり認めた方がすっきりするのではないでしょうか。
平山司教様がそっと私の耳元にささやかれたように、この世に生きているうちに忍耐し耐え偲ばなければならない苦しみのことを「煉獄」という言葉で表現することもできる、という程度にとどめておいた方がいいのではないでしょうか。
司祭ゲオルギイ松島雄一 大阪ハリストス正教会」の、◆師父たちからのメッセージ、の、キリスト教をとらえ直してみたい人のために 聖師父と現代神学者たちのことば、の、「聖書のみ」その前提 クラーク・カールトン(先生)著(一番下にあります) 、の、「第五章『聖書のみ』その前提」、の、”聖書による聖書の解釈” の中にアリウス派との論争について書いてあります。これは異端者たちも聖書に自説の根拠を求めたことの例として挙げられています。
「・・・。
一方、正教の解釈は人類の救い主は神でなければならない、なぜなら神のみが人を救い得るからという前提に基づいている。アリウス派へ対抗する正教側の旗手であった聖アタナシオスは、神が人となったのは人が神のごとくなるためだと宣言した。言い換えれば、救いはたんなる罪の赦し以上のものである。救いの核心は死の克服と神と人との結合に存る。このように箴言8:22の正教の解釈は、ア・プリオリに神のみが死を滅ぼし、人類をご自身と一致させ得るという確信に基づく。・・・」
原文: "The Way What Every Protestant Should Know About the Orthodox Church Clark Carlton REGINA (1997), Part Two Scripture, Tradition, and the Church Chapter Five Sola Scriptura: Presuppositions
Self-Interpretation
" ...
The Orthodox interpretation, on the other hand, was based upon the presupposition that the Savoir of mankind had (Italic) to be God, because only God could save man. St. Athanasius, the Orthodox champion against Arius, declared that God had become man in order that man might become like God. In other words, salvation is more than the mere forgiveness of sins. Ultimately, it consists in the conquering of death and the union of man with God. The Orthodox interpretation of Proverbs 8:22 is thus based on the a priori (Italic) conviction that only God could destory death and unite mankind with Himdelf." cf. p. 104.
このことばは、わたし(新米信徒)が 22/05/2024 に上のコメントに引用いたしました岩下神父さまの書のことば「・・・。しかし罪の赦しは義とせら
るることの前提で、その消極的要素であるが積極的の本質ではない。義とせらるるとは如実に神の生に与って聖化せらるることで、・・・」 と全くの別物とは思えません(素人の感想)。
一年程前のプロテスタント教会との関りから始まってここまで
運ばれてきたようです。初期教会の共同体のありかたの重要性を(おそらく)説いておられる神父さまとの出会いも自然(自ずから然り)なことのように感じます。
上のコメントに岩下神父さまの書にあるアラウジオ公会議の箇所と 1 Io 4:8b-10 が引用されている箇所を少しだけ引用いたしました。以下のことはキコ先生に起こったことにも深くかかわっているようにも思われます
ので長文を引用することをお許しください。
「カトリックの信仰 岩下壮一(神父さま) 筑摩書房 (2015)」の、第六章 原罪、の "救いは善業(よきわざ)によるか信仰によるか ”、に、
「 カトリック教会が善業ゆえに救われるとするのは、ファリザイの徒が律法の遵守を救いの条件とした旧約に帰って十字架の救いを空(むな)しゅうする
というプロテスタント的偏見については、そもそも何をか言わん。かかる愚論を吐く徒は、トリエント公会議が一千余年を経た後にいわゆる宗教改革者等の所説に反対して、再認し力説したる前述のアラウジオ公会議の議定書を、三拝九拝して熟読するがよかろう。義とせらるることの根底(Radix)および基礎(Fundamentum)となるものが信仰なることは、六世紀におけるこのカトリック教会の信仰告白(カノン五)に明記してある(ルターがこの真理をキリスト降誕後一千五百何年かに発見したのだそうだ!)と共に、最初の恩寵は信仰ではないことも同じところに説明してある。『けだし汝等が信仰をもって救われたるは、恩寵に由(よ)るものにして自らに由るに非ず、すなわち神の賜(たまもの)なり』(エフェゾ書第二章八)との引証まで添付されている。義とせらるる信仰によるとは、信仰が必然的に義を産み出すためではない。『救われたるは、恩寵に由るものにして』と明らかに録されているではないか。所詮(しょせん)人間の行為たる信仰に原因するのではない。
信仰は義とせらるるプロセスにおいて一条件であるが、これとても神の賜(たまもの)である。・・・」 cf. pp. 254-255. 『 』の中の由に傍点が付されています。YouTube で視聴することができる「オンライン伝道会『活ける神』19 新しい契約 話し手 大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ 松島 雄一」においてもこのことは力説されていると思います。十年程前にプロテスタント教会のある信者の方(派は知りません)から「あなたはまだ救われていませんね」、という意味のことを一度だけ言われたことがあります。松島司祭が仰っているように、わたしも「え、?」、と戸惑いました。上の否定文は「あなたはすでに救われていますね」、「あまたはすでに救われましたね」になるのではないで
しょうか。
「・・・。彼はまた義とせらるることを、極めて皮層的(ひそうてき)な意味での赦しと考えた。しかし罪の赦しは義とせらるることの前提で、その消極的要素であるが積極的の本質ではない。義とせらるるとは如実に神の生に与って聖化せらるることで、病者が美衣をもって飾らるるがごとき形式的のことでは
ない。ルターは義を所詮人間の業たる信仰(信仰するのはみじめな人間が信仰するのである。従ってその人間のすべての不完全を伴う)に依存せしめたから、その義たるや人間の信仰そのもののごとく極めて不安定な浅薄なものとなった。・・・」 cf. pp. 255-256. 上の引用文の冒頭の「彼」はルターのことです。聖化については、Liturgia Horarum の総則にもあります。
cf. Institutio Generalis de Liturgia Horarum III De Liturgia Horarum Consecratio temporis (時課の典礼について 時の奉献) 14 Sanctificatio hominis(人の聖化)
上記のオンライン伝道会において、松島司祭は「この新しい約束は神様からまず差し出され、私達によって受け止められたとき、信仰によって受け止められたとき、目にみえるもとなり、私達と神様との関係のより深まりへと私達を導いていく、そう考えてよいでしょう。」、と仰っています(少し書き間違いがあるかもしれません)。原罪の違いや、聖化としんか(神化、深化)の違い等はあるかもしれませんが、このことに対しては、カトリック教会と正教会の信仰は近いように感じます。キコ先生も神様からその実在をはっきりと受け取った後、突き動かされるようにして、信仰の「道」を歩んでおられるのではないかと思います。
Rom 6:22 の引用の後に、
「義とせられて善業を行なわず、いわんや罪悪を犯すに至っては、言語道断ではないか。万一パウロの真意がルターの曲解せるごとき義にすぎなかったとしたら、使徒の書簡に反復さるる道徳的勧告は、そもそも何を意味するのか。信仰一点張りの自称クリスチャン諸君よ、卿等の主張は自己の我儘(わがまま)を蔽うに、あまりにも都合よき外套(がいとう)ではないか。少しく反省せられよ。」 cf. p. 256. 大変反省させられます。岩下神父さまは、神山復生病院の患者である真一さんに次のように話されたそうです。「『人間の心の奥には他の人間が立ち入ることのできない領域があるのです。イエズスさまの光は、そこまで届きます。他の人には見えなくても、私はイエズスさまにすべてをさらしています。露わに、むき出しにされています。それだけでいいのです。』」 「重兼芳子 闇をてらす足おと 岩下壮一と神山復生病院物語 春秋社 (1986)」 の p. 161 からの引用。
先のコメントの次を訂正いたします。すみませんでした。
誤:再放送で今確認しましたが
正:「光、イイススというお方 2 日本正教会大阪ハリストス正教会管轄司祭のゲオルギイ松島雄一神父 毎週水曜夜 9 時 47 分より 12 分間」の現放送番組の online 放送で今確認しましたが
再放送ではありません。それから、高音の鐘の音から、ニコライ堂の鐘の音のような気もします。・・・
上のコメントに引用いたしました岩下神父さまのことばは、「カトリックの信仰 岩下壮一(神父さま)筑摩書房 (2015)」の、第七章 御托身(その一)、の ”救主イエズス・キリスト” からの引用です。cf. p. 278. その次の ”救われし人類と神との関係” に 1 Io 4:8b-10 が引用されています。cf. p. 280.
ラゲ訳 我主イエズスキリストの新約聖書(1910年版) ヨハネ第壱書 第四章
4:8「愛せざる人は神を識(し)り奉(たてまつ)らず、蓋(けだし)神は愛にて在(ましま)す。」
4:9「神の愛の我等に於(おい)て顕(あらは)れしは、神が我等をして是(これ)によりて活(い)きしめん為に、其(その)御獨子(おんひとりご)を世に遣(つか)はし給(たま)ひしを以(もっ)てなり。 」
4:10 「愛とは斯(これ)なり、即ち我等が先に神を愛し奉(たてまつ)りしに非(あら)ずして、神御(かみおん)自ら先に我等を愛し給(たま)ひ、我等の罪の為に御子(おんこ)を贖(あがなひ)として遣(つか)はし給(たま)ひしなり。」
日本正敎會翻譯 我主イイスス ハリストスノ新約 一千九百一年 東京 正敎會本會印行(オフセット再版 二〇一四年) イオアン第一公書 第四章
八「愛セザル者ハ神ヲ識(シ)ラズ、蓋(ケダシ)神ハ愛ナリ。」
九「神ハ其(ソノ)獨生(ドクセイ)ノ子ヲ世ニ遣(ツカハ)シテ、我等ヲシテ彼ニ由(ヨ)リテ生命(イノチ)ヲ得(エ)シム、此(コレ)ヲ以(モッ)テ神ノ我等ニ於(オ)ケル愛ハ顯(アラハ)レタリ。」
十「我等ガ神ヲ愛セシニ非(アラ)ズ、乃(スナハチ)彼ハ我等ヲ愛シ、其(ソノ)子ヲ遣(ツカハ)シテ、我等ノ罪ノ
為ニ挽囘(バンクワイ)ノ祭(マツリ)ト爲(ナ)セリ、此(ココ)ニ於(オイ)テ愛アリ。」
Nova Vulgata I Io 4:10
"In hoc est caritas, non quasi nos dilexerimus Deum, sed quoniam ipse dilexit nos et misit Filium suum propitiationem pro peccatis nostris."
"propitiationem" (対格の単数の名詞)には、償い、贖罪、(神と人との)和解、神人合一 、等の感じがあるようです。Rom 3:25 の "propitiatorium" とは少し異なるように感じます。
Knox Bible 1 John 4:10 は "to be an atonement" と訳されています。"atonement" は "adūnō" (latin) にもつながっているようで、合一という感じもあるように感じます。西方の日本語訳聖書の訳の違いは、Nova Vulgata (Vulgate) の "propitiationem" の深さ(曖昧さ)の中にもみることができるように感じます(ど素人の感想)。以前にもコメントに引用いたしましたが、上記の岩下神父さまの書の第六章 原罪、の、”原罪の結果、アラウジオ公会議”、には(五二九年 現今のフランスの)「オランジュ市に開かれた公会議は、原罪の信条をさらに精密に定義した。」とあります。そのことは、西方の教会と東方の教会の隔たりをさらに大きくしたのではないかと感じます。実際、上のコメントに引用いたしましたカリストス・ウェア主教の書の、私たちはどのように救われるのか、の、"すべてを覆い尽くす「罪深さ」"、に「一方、東方では、原罪についての詳細で厳密な解釈は教義の領域ではなく、『テオログメナ(神学的共通見解)』の分野のことでした。」とあるからです。cf. p. 8. 「教会の祈り」の訳からラテン語にかかわるようになりましたが、ラテン語を調べたことは全くなかったので、初めは大変つらかったです。正教会との出会いは、ちょうど一年程前のプロテスタント教会とのかかわりから、正教会の神学者の Clark Carlton 先生の書 "The Way" の "Chapter Five Sola Scriptura: Presuppsitions" (コロンの前の言葉をラテン語の奪格として、唯一つの書から:いくつかの前提)を正教会の司祭 松島雄一が訳されたもの(「『聖書のみ』その前提)を読んだことからです。2019 年に FEBC の番組で司祭 松島雄一 のことばは聞いていましたが、不思議だなと感じながら眠りに就いていました。番組の初めの不思議な音は、再放送で今確認しましたが、おそらく大阪ハリストス正教会の鐘の音(人の手と足を使った)だと思います。冒頭の鐘の音(祈り)は大切だと思います。ラテン語との出会い、正教会との出会いにわたしの自由意志もあると思いますが、人とのかかわりと神様からの御手も大変大きいように感じます。分けることはできないと思います。キコ先生のことばからは、神様とわたしたち(すべての人)ということを感じます。押田神父も仰っていますが、本来は、わたしと他の人と分けることはできないように思います(親切のもともとの意味だそうです)。
上のコメントにわたし(新米信徒)が正教会の Rom 3:25 の訳について書いたことは誤解を与えかねないので、補足を書くことをお許しください。
日本正敎會翻譯 我主イイスス ハリストスノ新約 一千九百一年 東京 正敎會本會印行(オフセット再版 二〇一四年聖使徒パワェルガ ロマ人ニ達スル書 第三章
二十三 「蓋(ケダシ)人(ヒト)皆(ミナ)罪ヲ獲(エ)、神(カミ)ノ光榮(クワエイ)ヲ失ヒテ、
二十四 「義トセラルルヲ得(ウ)ルハ、功(コウ)ナクシテ、彼ノ恩寵ヲ以(モッ)テ、ハリストスイイススノ贖(アガナヒ)ニ賴(ヨ)リテナリ。」
(ハリストスイイススに傍線があります)
「贖」とはっきりとあります。しかしながら、「カリストス・ウェア主教 論集1 私たちはどのように救われるのか 他 2 編 日本ハリストス正教会 西日本主教教区 (2003)」に所収の「私たちはどのように救われるのか ・・・正教の伝統における『救い』の理解 翻訳 司祭 ゲオルギイ 松島雄一」の、贖いの五つのイメージ、に
「・・・。
しかし、正教会は『身代わり』の概念を用いることには慎重です。ハリストスの救いに人類の身代わりという要素があることは受け入れますが、あまり強調されません。特に、『(ハリストスに人間の罪を)背負わせる』(imputation) という表現には居心地の悪さを感じます。
『(ハリストスの死による神の)なだめ』 (satisfaction) という言葉も正教は避ける傾向があります。」 、とあります。cf. p. 28.
神父さまの一連の記事「私の『インドの旅』総集編」に引用されている(わたしの手持ちの本は新装版です) 「宗教とは何か 田川建三(先生)大和書房 新装版第一刷(1985)」の、第二部 異質の世界の無視 ー 翻訳に現れた思想の問題 ー、の、
一(いち) 異質の世界の無視 ー いわゆる「共同訳聖書」の思い上がり ー、に、Rom 3・24-25 の共同訳聖書の訳に対する批判があります。これは共同訳聖書の訳の偏向(田川先生の見解)に対する一つの例として
挙げられています。「つまりここには、古代ユダヤ教の神殿祭儀の考え方が背景にあるのであって、罪の赦しを受けて『義とされる』にはそれ相応の代価を神殿に支払わねばならぬ、という考え方が話の前提なのだ。・・・」、とあります。cf. p. 81. 上のコメントに引用いたしました正教会の訳にある「祭(マツリ)」 は(別のかたちとなって)このことと結びついているのだろうか、と感じました。また、「けれどもこの箇所はパウロ神学の一番かなめの箇所であるし、・・・」、とあります。cf. p. 82. 無知なものが Rom 3:25 のラゲ訳から感じた何ものかは、もしかすると意味があることかもしれしれませんが、改めてど素人にはあぶない箇所であると感じます。また、「ところが近頃はやりの聖書翻訳理論は、異質の世界の異質である点はそのまま訳したのでは読者に理解できないから、異質な要素はぬき去ってしまえ、という理論である。」、とあります。cf. p. 77. 田川先生が遠藤氏のイエス像を批判することは(特に 1983 年当時は)当然だと感じます。遠藤氏のイエス像を批判した第四部は、「今回新たに書き下ろしたもの」だそうです。
わたし(新米信徒)が先程のコメントに引用いたしました岩下神父さまの著書の書名は、正しくは「カトリックの信仰」です。すみませんでした。
岩下壮一神父さまの著書「信仰について」を読んでいて、Rom 3:25 のラゲ訳が引用されていました。「宥(なだめ)」ということばがあるので、正教会の訳とは異なるだろうと想像しました。
日本正敎會翻譯 我主イイスス ハリストスノ新約 一千九百一年 東京 正敎會本會印行(オフセット再版 二〇一四年)聖使徒パワェルガ ロマ人ニ達スル書 第三章二十五
「神(カミ)ハ彼ヲ立テテ、其血(ソノチ)ヲ以(モッ)テ、
信(シン)ニ由(ヨ)ル挽囘(バンクワイ)ノ祭(マツリ)ト爲(ナ)セリ、是(コ)レ會(カツ)テ神ノ寛容(クワンヨウ)ノ時(トキ)ニ行ヒシ諸罪(ショザイ)ノ赦(ユルシ)ニ於(オイ)テ彼ノ義ヲ顯(アラハ)サン爲(タメ)、」
ラゲ訳 我主イエズスキリストの新約聖書(1910年版) 使徒聖パウロ ロマ人に贈りし書簡 第 3 章 3:25
「即ち神は從前(じゆうぜん)の罪を忍び給ひしに、其赦(そのゆるし)を以て己(おの)が正義を顕(あらは)さん為に、イエズス、キリストを宥(なだめ)の犠牲(いけにへ)に供(そな)へ、其御血(そのおんち)に於(おけ)る信仰を有(も)たしめ、」
新改訳聖書 (第 2 版 1978 年) では、「なだめの供え物」、と訳されています。
Nova Vulgata
APOSTOLI AD ROMANOS EPISTULA SANCTI PAULI 3:25
"quem proposuit Deus propitiatorium per fidem in sanguine ipsius ad ostensionem iustitiae suae, cum praetermisisset praecedentia
delicta"
古語風におきかえてみると、神は、先立つ諸罪を見過(みす)ぐした後(のち)、彼の義が現(あらは)るるまで彼の御血で信をとおし、あはれの手立てを
彼に示したり propitiatorium (対格の名詞)には、なだめること、静めること、という感じがあるようです。一方、propitiatorium は、propitius とつながっているようで、propitius には慈悲のような感じがあるようです。そのためでたらめかもしれませんが、上であはれとしました。また、propitiatorium には、和解の手段、という感じもあるようで、 Knox Bible では、as a means of reconciliation と訳されています。reconciliation には、一致させること、のような感じもあるようです。一致させること、であれば、正教会の訳(信仰)に近いように感じます(無知なものの感想です)。無知なものにとって、大変あぶない箇所ですが、正教会の訳には、「なだめること」も「あがなうこと」もないように思います(神さまの赦しはありますが)。「煉獄」と「なだめ」にはつながりがあるのだろうか、と感じてこのコメントを書かせていただきました。
詳細な返信をありがとうございます。引用してくだされました聖書のことばに触れていきます。神父様から「煉獄」に対することばをこれまでにも何度かいただきました。ありがとうございます。
神父さまの記事「★ 哲学者 ホイヴェルス著 =時間の流れに=2022-08-08 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=」の 22/02/2024 に書かせていただきましたコメントに引用いたしました、岩下壮一師の先生エミール・エック師の「教え子フランソア・ソイチ」の冒頭は、
「 去る十二月四日、十年前から神山復生病院長として、単純謙虚に、しかも熱誠を傾けて、不幸な癩者の慰安のために働いておられた岩下壮一師が、その保護の聖者フランシスコ・ザベリオの祝日の夕方帰天されたと言う報知に接した時、私の魂は激しい悲しみに襲われ、とめどなく涙がこぼれ落ちた。昨年の五月から今年の七月にかけて横浜に仮寓していた時分、私は教区の司祭達の集会に出席するために来浜していた岩下師と、山手の教会で幾度もめぐり会い、胸襟を開いて素懐を通じ合う喜びを有したのであったが、その頃師は元気旺盛で、例の軽妙な
機知を駆ってよく戯れ、笑ったものであった。しかるに今や全く思いがけなく帰天して、この世ではもう再び師に会うことができないのだと思うと、老いの胸にせまりくる寂寥と悲痛とを如何ともすることができない。」 cf. p. 9.
エミール・エック先生への報知と先生のことばは「帰天」です。また、上のコメントに引用いたしましたエック先生の最後の岩下師への追悼のことばには、「すべてを尽くして仕え奉った御主のふところに、安らかに息(やす)まれよ。」、「最愛の子のいまだしかる帰天に驚きなげく汝の善き母のために祈られよ。」そして 「主に於ける最愛の子の懐かしき追憶を永久に保つであろう」 とあります。少なくとも、今の日本のカトリック教会では公の場では「帰天」ではないかと思いますが、心は理屈では割り切れないと思いますので、「安らかに息(やす)まれよ」(英語では rest in peace でしょうか)等様々なことばが心から出てくるのだろうと感じました。「時課の典礼」の「終課」(寝る前の祈り)は「永眠」と結びついているようにわたしは感じます。そのため、唱えていてこたえることもあります(個人の祈りになってしまっているのだと思います)。
カトリック教会の「葬儀ミサ」そして正教会の「埋葬式」に死者への信仰があるはずです(あまり与ったことがなく、無知ゆえほとんど知りません)。
エミール・エック先生のことばからも「煉獄」のことは全く感じられません。
私たち人間は時空の中のあるときある場所で土を材料に創造されたものですから、誕生以前に天に居たわけではないでしょう。ですから人間の死を帰天というのはちょっとオーバーな気がします。
ただ、マリアの子、イエス・キリストに関してだけは、受肉の前から、天の御父の懐に、みことば、ロゴスとして永遠の昔から存在しておられたのですから、帰天という言葉は意味を持つでしょう。
他方では、聖書を紐解いてみると、旧約聖書では「サムエルは永遠の眠りにつく前に・・・」(シラ書46:19)とか、「あなたは間もなく先祖と共に眠る・・・」(申命記31:16)とか、「王が先祖とともに眠りにつくとき・・・」(サムエル下7:12)とか、列王記上には少なくとも8回、下には12回、歴代誌下には9回など「死」と言わず「眠る」という言葉を充てています。
また、新約聖書でも、「眠りについた多くの聖なるものたち」(マタイ27:53)とか、sてふぁの歯こういって眠りについた・・・」(徒言行録7:60)とか、「ダビデは眠りについて祖先の列に(13:36)13:36)とか、「キリストを信じて目無理に着いた人たち」(1コリント15:20)、テサロニケに3回など、人の死を死んだとは言わず、「眠る」としています。
私は、それを夜寝て朝起きる日常の眠りより、今までに経験した全身麻酔の状態に近いものと考えちます。五感が強制的に完全に封じられると、3時間か8時間かにかかわらず、その間人間は完全に眠っていて、時の流れも外界で起きていたことも全く知らぬ一瞬の眠りです。死んで復活までの何億年、何十億年も一瞬であるに違いありません。それは一瞬であって眠りについて覚めるまでの二つの時点は一枚のコインの裏表のようにまさに一瞬です。自我が覚醒していて清めの炎に焼かれる体験をする一連の変化のプロセスの入る余地がないように思います。
吉満義彦先生は、師である岩下壮一神父様への次のことばにおいて「帰天」ということばを用いておられないことに気がつきました。
「信仰の遺産 岩下壮一(神父様)著 編者 吉満義彦(先生)岩波文庫 (2015) 」の、編者の序、の冒頭は、
「 永遠の召命をもって『霊魂の漁(すな)どり人』と選ばれて以来、・・・」cf. p. 11. また、
「 さきに岩下師の『カトリック研究』誌に連載の神学論文を一巻にまとめて刊行せんとする岩波書店の意志は、布川氏を通じ昨夏大体同師の承諾を得ていたのであるが、計(はか)らずも師はその後間もなく北支に遣いして帰途病いを得、竟(つ)いに永眠されたので、・・・」 cf. p. 12.
「キリストに倣いて 岩下壮一神父 永遠の面影 モニック・原山 編著 学宛社(1991)」 の、恩師永遠の面影 吉満 義彦(先生)、の冒頭は、
「・・・、分けても今筆者は生涯の恩師永遠の国に召されて、名状し難き心の空虚と孤独を如何とも致しかたなく、・・・」 cf. p. 104. また、
「・・・。師が臨終の一週間前呼吸困難の危険の伝えられた翌暁、私は師が狭き部屋にてミサを挙げられる夢を見、取るものも取りあえぬ心して神山に駆けつけた時、既に師が永眠を覚悟なされて終油を受け、極度の疲労のうちに黙想されている次第を承った。・・・」cf. p. 106.
吉満先生の「恩師永遠の面影」を繰り返し読んできましたが、読み始めた頃とは異なり、今はその底に神秘ということがあるように感じます。
正教会は「永眠」ということばを用いるそうです。例えば、「Romania ルーマニア観光・商務局」の、一般情報、の、ルーマニアの宗教ー正教、の、第七章 正教徒の心得、の、埋葬式、に、「正教会では死ぬことを『永眠』と言います。これは永久に眠ったままでいるとか、死者のたましいが眠っている、という意味ではなく、『復活』の意味を込めた象徴的な表現です。眠る者は必ずやがて目覚めて起きあがります。つまり、ハリストスの復活の恵みによって死はもはや死ではなくなり、やがて新しい生命にあずかれることをこの言葉は表しています。ただ毎日の就寝と区別するために『永い眠り』と表現しているわけです。」
昨年の 9 月 1 日以降に正教会の信仰のことについて上のコメント他において引用させていただきました。神父様から以前にいただいた助言と併せて、すべての人への祈りも大切だと感じます。若くして病気で天に召された方からもそのことを教えられました。
上記の「キリストに倣いて」の、御遺稿の、御復活の祝日に際して、に、「 かくて xx さんは苦の杯を傾け尽くして、次の週の木曜日の夜おそくとこしえの眠りに就いた。・・・。それは悲しい行列であったに相違ない。併し皆の胸には、xx さんはもう天国へ行ったのだという安心が支配していた。」、とあります。xxさんは信徒の方です。cf. pp. 208-209. 神山復生病院でお亡くなりになられたハンセン病患者の方々のお墓の土の上の木の十字架の裏には、「何年何月何日帰天とか、永眠」と書いてあったそうです。cf. p. 209. 最後は、
「・・・。併し沼津の海を遥かに見下ろすこの箱根山の麓の墓地から、xx さんと共に眠る二百有余の患者の魂は天地に向かって叫んでいる。
『われはわが救主の活き給うを信ず、かくて末の日に当たりてわれ地より蘇り、わが肉体に於てわが肉主なる神を仰ぎ奉らん。われ彼を仰ぎ奉らんとす。われ自らにして他の者にあらず、わが眼こそ彼を仰ぎまつらめ!』と。」 cf. p. 209. 煉獄のことは全く感じません。
"CATECHISMUS CATHOLICAE ECCLESIAE" の PARS PRIMA PROFESSIO FIDEI の SECTIO SECUNDA: FIDEI CHRISTIANAE PROFESSIO の
CAPUT TERTIUM:CREDO IN SPIRITUM SANCTUM の ARTICULUS 11 «CREDO CARNIS RESURRECTIONEM»
の 990 には、
"... « Carnis resurrectio » significat post mortem non solum vitam animae haberi immortalis, sed etiam nostra « mortalia corpora » (Rom 8,11)
vitam esse iterum assumptura."
とあります。日本語訳は、
「・・・。『からだ(肉)の復活』とは、死後、ただ不滅の霊魂が存続するだけではなく、わたしたちの『死ぬはずのからだ』(ローマ 8・11)も生き返ることを意味しています。」(小さい文字で書かれています)上のラテン語を一応日本語におきえてみました。「体(たい)の復活」は、死の後に、永遠の魂の生(しゃう)が記憶されるだけでなく、われらの «死を免れない身(み)»(Rom 8,11)は復(また)身命(しんみゃう)を与えられることも示しています。神父様の問いかけは大変重いと思います。
「正教会の暦で読む 毎日の福音 府主教 イラリオン・アルフェエフ [著] 修道司祭ニコライ 小野成信 [訳] 教友社 (2021)」 、の、ハリストス降誕祭~博士たちによる礼拝 [12/25 (1/7)] (マトフェイ 2 章1-12節)、に次のことばがあります。
「・・・。主の降誕祭の奉神礼では、イサイヤの預言書中の言葉、『・・・神は我らとともに
すればなり』(正教会訳、イザ 8・9-10。)が朗読されます。ワィフレエムに生まれた神たる
幼子イイスス・ハリストスに、わたしたちの人生の途を慶びと
光で満たしてくださるように祈りましょう。わたしたちの人生、ハリスティアニンの人生が、他の人々にとって模範となるように祈りましょう。なぜならわたしたちは、神の存在も、
主がわたしたちのすぐ近くにいるということも、わたしたちの人生自体を模範としてしか証明できないからです。神が我らと共におられるということは、わたしたちの人生が神へのこの近さを示さなければ、どんな言葉によっても、わたしたちの周囲の人々を納得させることはできません。善によって返されるということを期待せず、悪によって返されるということを恐れず、善を行ないましょう。なぜなら善は、絶対的で争う余地の
ない価値だからです。」
キコ氏や神父様がよく知っておられる宣教家族のことを思い
出しました。この書にまだあまり触れていませんが、福音書(イエス様)から離れず、理屈を並べず、大切なことが語られているように感じます。 Nova Vulgata の Is 8:10 の最後は、
", quia nobiscum Deus."
そのまま置き換えてみると、神は我らと共にゆゑ。
上のコメントに引用いたしました「メッセージ集 神の狂おしいほどの愛 松島雄一 [著] 株式会社ヨベル (2019) 」の、「第 10 話 ひとりでは救われません
ー 人々のあやまちをゆるすなら・・・ 大斎準備週間『乾酪の主日』に マタイによる福音書 6 章 14-21節」から、主の祈りの後に 14 節と 15 節が続いていることを教えていただきました。
Nova Vulgata の Mt 6
"14 Si enim dimiseritis hominibus peccata eorum, dimittet et vobis Pater vester caelestis;
15 si autem non dimiseritis hominibus, nec Pater vester dimittet peccata vestra."
を古語風におきかえてみると、
14 まことに人倫から其の過怠(くゎたい)を離(さ)けば、天の汝(な)が父は汝(な)からも離(さ)け給はむ;15 然(さ)れど人倫から離(さ)けざらば、汝(な)の父は汝(な)が過怠(くゎたい)を
離(さ)け給はざらむ。
上の書には、「私たちが互いに赦し合えば、神も私たちのあやまちを赦してくれる、赦し合わないなら、赦されないというのです。・・・」、とあります。cf. p. 59. 新改訳聖書 (第 2 版 1978 年)とラゲ訳では Mt 6:14-15 において、「過ち」ではなく「罪」と訳されています。Douay-Rheims は "offences" , KJV は "trespasses" , NASB と NABRE (2011は "transgressions" と訳されています。
日本正敎會翻譯 我主イイスス ハリストスノ新約 一千九百一年 東京 正敎會本會印行 (オフセット再版 二〇一四年)聖使徒パワェルガエフェス人ニ達スル書 第二章、は、
1 「神(カミ)ハ爾(ナンジ)等、罪ト愆(アヤマチ)トニ縁リテ死セシ者ヲモ生カセリ、」
「過」と「愆」の読み方は同じですが、異なることのように感じます。新改訳聖書(第 2 版 1978 年)と新共同訳聖書 (1987) は、この 1, 2 節において、過ちと罪に死んでいたことを強調しているように感じます(わたしの単なる主観です)。
上のコメントに書かせていただいた「救いについて」(25/10/2023) に引用いたしましたカリストス・ウェア主教の著書の「私達はどのように救われるのか」の p. 17 に「正教会では旧約時代の聖人たちが教会歴の中できちんと記憶されていますが、驚くべきことに西方教会ではあまり記憶されていません。これは、アウグスティン主義の圧倒的な影響によってのみ説明できることです。」とあります。「カトリックの信仰 岩下壮一(神父様)著 筑摩書房 (2015) 」の第十二章 御復活、の、「古聖所とは何か」においてそのことに関連したことが説明されているようです。cf. pp. 576-577.
上のコメント「永遠の記憶」(01/09/2023) に、正教会の松島司祭のことばとして、「十字を切って・・・」と書いてしまいました。「メッセージ集 神の狂おしいほどの愛 松島雄一 [著] 株式会社ヨベル (2019) 」の「第 20 話 どうせ、わたしは 『癱者(なんしゃ、病気で寝たきりになった人)の主日』に ヨハネによる福音書 5 章 1-15 節」の最後に、「罪を犯したら何度でも神に赦しを願い、そのつどキッパリと、カラリと胸に十字を書いて、立ち上がります。そして心に確かめます。
『ハリストス(キリスト)復活!』」、とあることを最近知りました。十字を切って、と書いてしまい大変申し訳ございませんでした。
同じコメントに、ツルゲーネフの「初恋」のことを書かせていただきました。不思議なことに、神西 清先生と沼野恭子先生のその最後の場面の訳は順に、「老婆はひっきりなしに十字を切り続けて、『主よ、わが罪を許させたまえ」とささやき続けるのであった。ー」、「、お婆さんはしきりに十字を切り、しきりに『神様、私の罪をお許しください』とささやき続け、」とあります。上のコメント「ツルゲーネフ(初恋)」(23/09/2023) に引用いたしました "First love and other stories, translated from the Russian by Isabel F. Hapgood ... (1904)" には、"the old woman kept crossing herself and whispering:
—“O Lord, forgive my sins,”—" on p. 113、とあります。手持ちの辞書によると cross v.t. には、・・・に十字を切る。十字の印をつける、十字を書くの
ような感じがあるようです。沼野先生の解説には、ツルゲーネフは、初恋の内容が「道徳的でない」という批判が出ることを予測して、「『あるあ婆さんの死』を看取る場面を置き、それに『道徳的』な意味をこめた
のである。」、とあります。
上のコメント「十字架のしるし(ベネディクト 16 世)」(04/09/2023) に引用いたしました本の英語訳 "Joseph Cardinal Ratzinger (Benedict XVI), The Spirit of the Liturgy translated by John Saward, Ignatitus Press (2000)" の、Part Four Liturgical Form の 2. The Body and the Liturgy の 2. The Sign of the Cross に、"To seal oneself with the sign of the Cross is a visible
and public Yes to him who sufferd for us; ... " cf. p. 177.
とあります。ど素人がおきかえてみると、キリストの十字架のしるしをもって自分自身に十字のしるしをつけることは、・・・。「濱田了(神父様)サンパウロ (2004) 」の訳は、「自分自身に十字架のしるしをする(十字を切る)ことは、」 cf. p. 191. "the sign of the Cross" は、ラテン語では "signum crucis" のようです。
signum には、もともと、切ること、たどること、のような感じがあるようです。上記の英語訳には例えば他には、"... with which my father and mother
made the sign of the Cross on the forehead, mouth, and breast
of us children when ..." cf. p 184. ど素人がおきかえてみると、・・・私の父と母は、私たち子供の額、口そして胸にキリストの十字架のしるしをしてくれました・・・。「煉獄」に直接関わらないと思われることを長く書き、お許しください。
これまでと異なり、今(日本時間の 15:00 頃)のローマは大変寒いようですね。
先日、Liturgia Horarum を唱えていて、「聖書の讃美歌 詩編とその解説 2 J・アブリ(神父様)著 エンデルレ書 (1967)」による Ps 111 (112) :5-6 の訳に、「5 心やさしき、人を助くる者の暮らしはよくなりゆかん、かれはおのれのものを、正義もて秩序立つるなり。
6 かれはとこしえまでゆるぐことあらず、正しき者は永遠に記憶さる。」、とあり、正教会の「永遠の記憶」を思い起こしました。「永遠の記憶」は、01/09/2023 に上のコメントに書かせていただきました。この書の Ps 111 (112): 6 には、「格 10 の 7、知 8 の 13」、とあります(格は、格言の書(箴言))。知恵の書 8:13 のフランシスコ会による訳 (2011) は、
「知恵によってわたしは不死を得、後の代(よ)の人々に永久の記念を残すであろう。」
上記の J・アブリ神父様の Ps 111 (112) には、「・・・。すべての神の恵みの働きは、他人への愛によって啓示される。これは聖人や義人の道によってすでにわれわれにも示された。そしてその最高到達点はイエズスの姿によって、われらのうちにあるその愛によって示された。従ってこの詩編は、われらに対する未来の大きな約束を含むものである。神の愛は人間の働きによって創造的な力をもち、新しい人間を作り出すことを、この詩編は明らかに示している。」、とあります。
Nova Vulgata の Psalmus 112 (111)
"5 TETH. Iucundus homo, qui miseretur et commodat,
IOD. disponet res suas in iudicio,
6 CAPH. quia in aeternum non commovebitur.
LAMED. In memoria aeterna erit iustus, "
を、心浅き者が古語にまねびておきかえてみました。5 心良(こころよ)き人、其(そ)はあはれみて与へ、心から彼らの事を正(ただ)す、6 然(さる)は、とこしへに揺るがされざれば。とこしへなる覚えにて正しくあらむ。
上のコメントに「theosis(神化)」 (10/09/2023) と書いてしまいましたが、YouTube で視聴することができる「オンライン伝道会『活ける神』 19 新しい契約 話し手(大阪ハリストス正教会 長司祭 ゲオルギイ 松島雄一)」では、「神との交わりの深化(テオシス)」とあります。短絡的に神化と書き、申し訳ございませんでした。
一月ほど前に、仕事場の近くを歩いていると、前を歩いている小柄な少女が何度かこちらの方を向いて手を振っていました。だれに向かって手を振っているのだろうか、とわたしも後ろを向きましたが、それらしき人は
いません。暫く見ていると、全体の景色が少し見えてきて、向こうに見えるマンションの最上階のベランダで手を振っている女性の姿が見えました。暫くの間その女性の方を見ていました。
その日の寝る前に、寝床の横にある本を何気なく手にとると、
「ー白血病と闘いながらも、人を思いやり強く生きた日々ー
あっ子の日記 Akko's Diary 植木 亜紀子/植木 誠 著 教研学習社 (1990) 改定新版」でした。手を振っていた少女のことがあったためか、日記のことばに入っていくことができました。大変重い本で、長い間読まずにいました。植木亜紀子さんは、3 歳から 11 歳まで白血病と闘われたそうです。召天される半年程前に、お母さまとともに洗礼を受けられたそうです。亜紀子さんは、祈り続けられ、日記にも祈りのことばを書き続けられ、この地での生をまっとうされました。神の子とされることを信じて。暫く亜紀子さんのことをおもってその道を歩いていましたが、今日、手を振っていた少女のことを思い出してその道を歩いていると、わたしの後ろからわたしの横を通り過ぎる少女がいました。以前に見た手を振っていた少女によく似ていました。その少女は元気そうでした。何度も振り返って手を振っている姿が心に残っています。健康であることは有り難いことだと思います。
ホイヴェルス神父様の随想「神の栄光と小さきエマヌエラ」に
あるエマヌエラ(洗礼名)さんのようにもし重い病(障碍)にあっても、「どうして」、の先に進んでいくことができれば、心の平安(希望)が与えられるようです。次は、上のコメントに引用したホイヴェルス神父様の本「人生の秋に」からの引用です。エマヌエラさんは、年とともに小児麻痺である自分の運命について悩むようになったそうです。(エマヌエラさんのお母様の証言)「・・・。しかし、娘はその後、死ぬ六年前に、お友達のおかげで信仰に入り、エマヌエラという霊名をうけて、そのときから自分の運命について語らなくなり、かえっていつも快活に、来るべき日まで送ったのです。」、とあります。
上のコメントにおいて引用した著書 「正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方 主教カリストス・ウェア主教[著](司祭)松島雄一[訳] 新教出版社 (2021)」の著者は、「主教カリストス・ウェア」です。英語では、"Bishop Kallistos Ware" です。申し訳ございませんでした。
上の「コメント (9/23) の補足 (新米信徒) 」において神様への「畏れ」について書かせていただきました。昨日の主の日 (05/11/2023) の Liturgia Horarum(教会の祈り) の Ad Vespers (宵に、晩の祈り)から、神様への畏れを何度も唱えていることを自覚させられました。例えば、
Ps 111 (110):1-10 Magna opera Domini の 10 節の "Inítium sapiéntiæ timor Dómini,
intelléctus bonus ómnibus faciéntibus ea;*
laudátio eius manet in sǽculum sǽculi."
主への畏れは知恵の初めに、・・・、(素人によるおきかえ)とあります(恐れと訳している聖書もあります)。
Canticum cf. Ap 19 De nuptiis Agni
5 "Laudem dícite Deo nostro, omnes servi eius*
(℟. Allelúia.)
et qui timétis eum, pusílli et magni!
℟. Allelúia (allelúia). "
古語風におきかえてみました。我らが神からまばゆき光を言(い)へ、神の有りとし有る下部(しもべ)よ、神を畏れる者、小さな者よまた大きな者よ!
アレルヤ。
上のおきかえの光については、「正教の道 キリスト教正統の信仰と生き方 主教カリストス・ウェア主教[著](司祭)松島雄一[訳] 新教出版社 (2021)」の第六章の 暗黒と光、から教えられていて、また、映画 "Marcelino, Pan y Vino(直訳 マルセリーノ、パンと葡萄酒 邦題 汚れなき悪戯)の最後の場面をおもって、古語風におきかえました。最後の場面で光が強調して描かれていたように思います。上の「正教の道」の「光と暗黒」は、現代人が思う現象的なものとは異なり、上のコメント「『救い』と『イエス・キリスト』 (新米信徒)」に引用いたしました師父シソエスの息を引き取る場面にあると思います。上の映画でも人には描きようがない場面だと思いますが、修道士が跪いて手を合わせています。おそらく畏れを感じて。「ホイヴェルス随想選集 人生の秋に ヘルマン・ホイヴェルス(神父様)春秋社 (1996)」に、「"栄える"という言葉」と「神の栄光と小さきエマヌエラ」という随想が収録されています。どちらも「神において栄えること」の大切さを具体的に述べておられるように感じます。上の映画の冒頭の場面で、重い病にある少女に、修道士がマルセリーノの伝承を話しますが、「神において栄えること」について話しているようにも感じます。長文をまたすみません。
先日、「カトリックの信仰 岩下壮一(神父様)ちくま学芸文庫 筑摩書房 (2015)」の第六章 原罪、の、「救いは善行(よきわざ)によるか信仰によるか」を読みました。cf. pp. 254-256. わたしは全く無知な者ですが、一箇所、「アラウジオ公会議」の議定書が引用されていることに引っ掛かりを覚えました。同書の同章の「原罪の結果、アラウジオ公会議」も読んでみました。cf. pp. 249-250. 「カルタゴ公会議の後約百年、五二九年ガリヤのアラウジオすなわち現今のフランス、オランジュ市に開かれた公会議は、原罪の信条をさらに精密に定義した。・・・」とあります。そこで、上に引用した、「カリストス・ウェア主教 論集 1 私たちはどのように救われるのか 他2編 翻訳 司祭 ダヴィド 水口優明 司祭 ゲオルギイ 松島雄一 日本ハリストス正教会 西日本主教教区 (2003) 」の
「私たちはどのように救われるのか ・・・正教の伝統における『救い』の理解 翻訳 司祭 ゲオルギイ 松島雄一」を再び読みました。その中の「すべてを覆い尽くす『罪深さ』」に、「・・・。東方キリスト教は陥罪・堕落の事実を疑いません。しかしその結果への厳密な定義はためらい続けてきました。正教会はこの問題について、いったん宣言されてしまえばもう取り消しや訂正が許されない強い拘束力を持つ『教義』化を避けました。七回の全地公会はいずれも、堕落、原罪あるいは元祖の罪、自由意志と恩寵について、教義上の宣言は何も行っていません。ペラギウス論争は西方教会の論争であり、ギリシャ、東方教会にはわずかな影響しか与えませんでした。
西方教会ではオランジェ公会 (529) と後代のトレント公会 (1546-7) の第五、第六会期で、
聖アウグスティン(アウグスティヌス)の教えが、一定の留保の上で正式に承認されました。
・・・。そんなわけで、原罪についての教えは杓子定規に考えないようにしましょう。さまざまな意見の余地のある『多様性』こそがちょうどよい視野を与えてくれるはずです。」、とあります。わたしは、真っ当な有り方だと感じます。
ベネディクト 16 世の「・・・。もし煉獄が存在しないなら、それをつくり出す必要があるだろう、とわたしは言いたい」、のことも思い起こします。このことは、「信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話 V. メッソーリ 著 𠮷向 キエ 訳 ドン・ボスコ社 (1993); 原書 (1984)」の第十章 "最後のこと(終末)"について、の、「煉獄から古聖所まで」の p. 193 から引用しました。また、プロテスタント教会のある神学者の方の「義認論の力強さは、罪認識の深さに正確に比例している」という、ある論説の言葉も思い出しました。大変長い引用を含むコメントをまた書き、すみません。
平山司教様のこと(言・事)と時課の典礼(教会の祈り)の第二金曜日 朝 第二唱和 旧約の歌(ハバクク 3・2-4 18-19)にある新約の一節 ルカ 21:28 が結びつくように感じます。一人で唱えるときは、バルバロ神父様による訳 (1980) で唱えています。
「・・・
28 * こういうことが起こりはじめたら、身を立てて頭をあげよ、あなたたちの救いは近づいたのだから・・・」。
「*この節には多くの解釈がある。キリストの来臨後、エルサレム滅亡後などいろいろ解釈する人がある。」
この訳の「救い」はイエス様のことであると単純に感じました。フランシスコ会による訳 (2011) でハバクク書の 3 章の歌
を唱えると、ルカによる福音書の 21 章との結びつきを強く感じました。
Nova Vulgata
EVANGELIUM SECUNDUM LUCAM
21:28 "His autem fieri incipientibus, respicite et levate capita vestra, quoniam appropinquat redemptio
vestra ”. "
を素人が古語風におきかえると、然(さ)れど此等生(む)さば、心せよ然(しかう)して上げよ汝(いまし)が頭(かしら)を、やがて汝(いまし)返(かへ)るため」。、のようになりました。
Liturgia Horarum の SACRATISSIMI CORDIS IESU(イエズスの聖心(み心))の晩課のラテン語規範版の Preces(祈願) の一つに、
"Omnes, qui in te, cum in terris dégerent, speravérunt,
— ad cæli portas admítte, quas crucis tuæ mérito reserásti."
があります。素人が古語風におきかえると、
ああ一切衆生よ、地にありしとき、御身に信を成さば、
ー 御身が十字架まこと(真・実・誠)現(あらは)す天国が門へ入れ給へ。、のようになりました。少なくともこの祈願から煉獄のことを感じることは、わたしはありません。また、長文をすみません。
わたし(新米信徒)は、上のコメントに詩編 36 (35) の 2 節について書きました。その後、
新改訳聖書 (第 2 版 1978 年)の詩篇 36 の 2 節(節の分け方が新共同訳聖書等と異なります)の訳を何気なく読んで驚かされました。
2 「彼はおのれの目で自分をへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。」
念のため、New American Standard Bible (1971) の訳をみると、Psalm 36
2 "For it flatters him in his own eyes Concerning the discovery of his iniquity and the hatred of it."
わたしには、この 2 つの訳は近いように感じます。新共同訳聖書 (1987) の訳は、詩編 36
3 「自分の目に自分を偽っているから自分の悪を認めることも
それを憎むこともできない。」
わたしには、上の新改訳聖書の訳と随分異なるように感じます。NOVA VULGATA の訳は、
PSALMUS 36 (35)
3 "Quoniam blanditur ipsi in conspectu eius,
ut non inveniat iniquitatem suam et oderit. "
新共同訳聖書の訳に近いように感じます。ど素人が古語風におきかてみると、彼が見ゆることから思ひ上がらせて此の方、彼がとがを見出(みい)でて心憂(こころう)がらざらむ。
フランシスコ会による訳 (2011) は、詩編 36 (35)
3 「彼は自分の神を無視する、
神に悪を探り出され、憎まれるのを恐れるが故に (2)。」
「(2) 本節は多様に解されている。『無視する』は、通常『滅ぼす』と訳されている。この動詞を『おもねる』の意味に解して、本節を『彼はおもねる眼で自分を見つめ、自分の咎を探し出して憎むことができない。』と訳す者もいる。『自分の神』のヘブライ語は、『自分を<見つめ>』という意味にも読まれる。僅かな修正によるもう一つの訳は、『しかし彼の神は、彼の不届きな悪口を探し出し、狙いつけて彼を滅ぼすだろう』。」
NABRE (2011) の訳は、Psalms
Chapter 36
3 "For he lives with the delusion:
his guilt will not be known and hated.*"
"* [36:3] Hated: punished by God."
素人には、フランシスコ会による訳 (2011) に近いような気がします。詩編 36 は、告白(告解)にそしてこの神父様の記事にかかわっているようにわたしは感じましたので、この長いコメントを書かせていただきました。長文をまたすみません。
わたし(新米信徒)が 9 月 23 日に上のコメントに書いたことの最後の文に対する補足を書くことをお許しください(誤解を招かないために)。神様へのおそれを持たずに、理念や観念で安易に触れるべきことではない、という意味で書きました。
先日、時課の典礼(教会の祈り)で、詩編 36 の 2 節を唱えて、感じるものがあったので、調べると、Nova Vulgata と Vulgate の訳がかなり異なっていました。
Nova Vulgata
PSALMUS 36 (35)
2 "Susurrat iniquitas ad impium in medio cordis eius;
non est timor Dei ante oculos eius."
Vulgate
Psalmus 35 (36)
2 "Dixit injustus ut delinquat in semetipso:
non est timor Dei ante oculos ejus. "
無知な素人が古語風に置き換えると、Nova Vulgata の詩編 36 の 2 節は、とがは真実(まめ)ならざる者に彼が心の最中(もなか)でささめく。彼が目の目方(まへ)に神のおそれ有らずと。Vulgate の詩編 35 の 2 節は、正しからず者は己(おの)が己(おの)に越えむと言ひ、彼が目の目方(まへ)に神のおそれ有らず。
Vulgate の "delinquat" は大変重く感じます。フランシスコ会による訳 (2011) は、
詩編 36 (35)
2 「罪は悪人の心の奥にささやきかける。
神への畏れは悪人の眼中にない。」
舊新約聖書 文語訳 日本聖書協会 (1887, 1917, 1982) の 1982 年版は、
詩篇 三六篇
一「あしきものの愆(とが)はわが心のうちにかたりて、
その目のまへに神をおそるゝの畏れあることなしといふ」
神様へのおそれがあることは、当然のことであるように感じます。素人感想です。長文をいつもすみません。
わたし(新米信徒)は、上のコメントに「『救い』と『イエス・キリスト』」というタイトルで 10/09/2023 に正教会の書「私たちはどのように救われるのか」のことと、また Benedictus (Canticum) にある「救い」から感じたことを書かせていただきました。 今日、時課の典礼(第 25 週日 火曜日)の朝の祈りの短い読書(Roma 13:11b-13a) を読み、11b にある「救い」は、イエス・キリストのことのように単純に感じました。
上のコメント (10/09/2023) の本に、師父シソエスが息を引き取る前のことばがあります。「死の床で師父シソエスの顔が太陽のように輝き始めました。彼は叫びました。・・・。(弟子たちに)『ほんとうのことを言うと、私自身、私が今の今まではたして悔い改めを始めたかどうかさえも疑わしいのだよ』。
その瞬間、彼の顔から発する光は一層輝きを増し、弟子たちは畏れに満たされた。『見よ、主がやってくる』師父シソエスはそう叫んで息を引き取りました。」*60 cf. p. 46(60 は引用されている文献の番号です).
ローマ人への手紙の第 13 章には、信仰者の共同体と社会との関わりに関する大切なことがあるように感じます。正教会、神父様がよく知っておられる共同体において大切なことがあるように感じます。正教会の聖体礼儀のお祈り(ことばを知りませんのでこのように書きました)を YouTube で聴き、ますますそのように感じるようになりました。
わたし(新米信徒)による上のコメントについて、いくつか訂正いたします。度々すみません。
(i) 名前とタイトルについて
正「初恋(ツルゲーネフ)」(新米信徒)
誤 新米信徒 (「初恋(ツルゲーネフ)」)
(ii) 第二番目の段落
正「どうも以前と感覚が」
誤「どうも依然と感覚が」
(iii) 最後から第二番目の段落
修正:ラテン語の動詞 calumnior の完了分詞からきているようです
正「不当に責めされた」
誤「不当に責められる」
付記:上のコメントを書いた後ぐらいに、偶然(わたしの自由意志で)、海援隊の「あんたが大将」を YouTube で聴きました。頭を垂れて、笑いながら聴きました。わたしのような者は、時々聴くと良いようです。
わたし(新米信徒)は、「永遠の記憶」という表題の上のコメントの中に、ツルゲーネフの「初恋」について書かせていただきました。あの時は、青空文庫で読みました。もう 15 年以上前に、あるロシアの数学者の方が来られたときの食事会で、ロシア文学の話が話題になり、わたしはジナイーダに惹かれる、ということを話しました。若いころに読んだときの感覚はその頃にもまだ残っていたようです。
手持ちの本が見つからず、ミサの帰りに、教会の近くの書店で本を探すと、「トゥルゲーネフ 沼野恭子 訳 初恋 光文社 (2006)」があったので、購入して終わりに近いところ、そして他のところもかなり読みました。何度か読み直すうちに、どうも依然と感覚が異なるように感じてきました。そこで、若いころに読んだ「はつ恋 ツルゲーネフ 神西(じんざい)清 訳 新潮社 (昭和 27 年)」を購入してある程度読みました。
わたしのあくまでも個人的な感想ですが、沼野先生の訳から地上にとどまっているようなことを感じます。その一方で、神西先生の訳から正教会の信仰にかかわる何かそしてツルゲーネフの痛ましい気持ち(この小説はツルゲーネフの経験がもとになっているそうです)が強く伝わってくるように感じます。
以下は、神西先生の訳からの引用です。主人公がこの地で最後にジナイーダを見ることになる場面では、「ー 今まで見たこともないあの姿、思いがけなく今日わたしの目に映ったあの姿は、永遠にわたしの記憶に焼き付けられたのだ ー とも感じた。」cf. p. 124.
ジナイーダの死の知らせを聞いたときの場面では、「わたしは彼女に会えたはずなのに、つい会わずにしまった。しかももう永久に会えないのだ。・・・」
cf. p. 129
老婆の臨終に立ち会った時の最後の場面では、「そしてわたしは、ジナイーダのためにも、父のためにも、そしてまた、自分のためにも、しみじみ祈りたくなったのである。」cf. p. 132.
"FIRST LOVE AND OTHER STORIES, TRANSLATED FROM THE RUSSIAN BY ISABEL F. HAPGOOD, NEW YORK CHARLES SCRIBNER’S SONS 1904" では、上の第二番目に引用した文の「しかももう永久に会えないのだ。」は、"and that I should never see her, - "
正教会の教えにほんのわずかに触れたはずの今のわたしには、最後への転換点が大切なことであると感じます。初老に入った主人公が青春を振り返り、西欧的な「自己実現」において自分は何をなしたのか、と責めるような場面のあとに、「だがわたしは、いささか自分につらく当たり過ぎているようだ。・・・」。cf. p. 131. 上記の英語訳では、"But I calumniate myself without cause. " この calumniate は、素人が調べた範囲では、ラテン語の calumnior の分詞からきているようです。これは不当に責められる、というように感じました。この転換の場面から人とのつながり(「わたしたちと一つ屋根の下に住んでいたある貧しい老婆の、臨終に立ち会ったことがあった。」cf. p. 131. )を通して、最後の祈りの場面に至ります。
罪という言葉、原罪論、さらには義認と原罪論そして二重予定説のような神様の範疇にあることを、理念や観念で、安易に言葉にしたり考えるべきではない、ということも強く思わされました。また長文になりすみません。
わたし(新米信徒)が上のコメントにおいて、最後の文の下に、おそらく改行による空白を残したままにしたことにより、不要な大きな空白を作ったようです。申し訳ございませんでした。
上のコメントに、「(Mt の)主の祈り 」の「負い目」のことを少し書きました。そのことについて、上のコメントに引用した「カリストス・ウェア主教 論集 1」の、「私たちはどのように救われるか(翻訳 司祭 ゲオルギイ 松島雄一)」にある「ニッサのグレゴリイにみる受け継がれた『罪深さ』」からその一部を引用します。cf. pp. 12-13.
「私たちは人間性全体に共通の負い目を思い起こさなければならない。人は皆一人一人、人間本性の一部を分かちあうがゆえに、それぞれにこれらの負い目を分かち合う・・・、アダムは一人一人の人間の内に生きている・・・、だから『我等の負い目を赦したまえ』という言葉を用いて祈るのがよいのだ。・・・。
ニッサのグレゴリイによれば、私たち一人一人は皆、アダムの背きについて赦しを請わなければなりません。そうであるなら、彼の背きはある意味で私たち自身の背きであると言えます。私たちがアダムの悔悟を分かち合わねばならないということは、彼の罪深さと罪責をも同様に分かち合っていることを意味しています。」
YouTube に upload されている NHK の番組「見えないものを」の 2(話し手 押田成人神父様、聴き手 金光寿郎氏)の前半で、金光氏が、観想修道会では、世の中の役に立つことは何にもなさならいで、観想三昧の生活をしている、そういう修道会もあると聞いていますが、そのような観想生活はいったい何のためにさっているのでしょうか、という意味のことを問われます。押田神父様が仰ったことを、今のわたしの言葉で書くと、そのような観想生活は、人の罪をも自分の罪として受け取って、神様に赦しを請い、神様に帰依することができる人をつくる。このように感じます。
長い間、押田神父様は、何を仰っているのだろう、と思っていましたが、押田神父様が仰っていること(事、言)は、正教会の教えにもつながっているように感じます。FEBC の松島司祭の番組を聴いた直接の事は、当時体調がよくなかったので、ラジオをよく聞いていたことによります。その当時体調がよくなかったことは、恵みをもたらしてくれたようです。
上に引用した、「カリストス・ウェア主教 論集 1 私たちはどのように救われるのか 他2編 翻訳 司祭 ダヴィド 水口優明 司祭 ゲオルギイ 松島雄一 日本ハリストス正教会 西日本主教教区 (2003) 」の
「私たちはどのように救われるのか ・・・正教の伝統における『救い』の理解 翻訳 司祭 ゲオルギイ 松島雄一」をさらに少し読みました。その中に、わたしが以前に受けた衝動につながっていると思われることが書いてあるように感じました。
「アダムの本性と堕落の分かち合い」という項目に、「疑いなく、ここからはアウグスティン主義による厳密な『原罪責』の教義は出てこないでしょう。
ほとんどんの正教会の神学者たちが何とかぎりぎりいっぱい踏み込むのはここまでです。アダムの行為(罪)の個人的な法的罪責を負うからではなく、私たちが一つの人間の家族に属するがゆえに、私たちはそれに関わり、ある程度それに責任があるということです。・・・。
このような考え方の底には、正教意識に深く根差した確信があります。それは、私たちは一人一人で孤立して救われるのではなく、あらゆる時代の仲間たちとの結合において救われるという確信です。・・・。」
冒頭の、「ここからは」は、「相互連帯性」のようです。
わたしが受けた衝動は、「一体(結合)」ということでした。そのようなことは衝動を受け始めたころには像(イメージ)としてみえました。畏れも大きかったですが。先日、書きました「永遠の記憶」の重みにもつながっているように感じます。
上の正教会の信仰におそらく対立することは、例えば、Catechism の 404 の後半にある、(人祖の)「この罪は生殖によってすべての人間に伝えられるが、・・・」のようです。
わたしがプロテスタント教会で洗礼を受ける気持ちになることができなかったことは、「個」、「分断」ということを感じていたためだと、今は思います。
"CATECHISMUS CATHOLICAE ECCLESIAE" の "SECTIO
SECUNDA ORATIO DOMINICA: «PATER NOSTER»" の
"et dimitte nobis debita nostra,
sicut et nos dimittimus debitoribus nostris;"
の "debita" と "debitoribus" に対する日本語の口語訳に対して
不思議に思ってきました。Catechism には Mt 6:9-13 とあるので、「罪」と訳されていることが、わたしのおろかさゆえ、よくわかりません。
正教会の日本語訳は、
「我等に債(おひめ)ある者を我等免すが如く、
我等の債(おひめ)を免し給へ。」
のようです。
Catechism(英語訳) の 2838 は、'... If it consisted only of the first phrase, "and forgive us our trespasses,..." ' と "trespasses" とありますが、日本語訳では、「罪」と訳されているので、わかりにくいように感じます。
無知でおろかなものが書いたことゆえ、お赦しください。
先日、「カリストス・ウェア主教 論集 1 私たちはどのように救われるのか 他2編 翻訳 司祭 ダヴィド 水口優明
司祭 ゲオルギイ 松島雄一
日本ハリストス正教会 西日本主教教区 (2003) 」を手にして少し読みました。そのことのためかどうかわかりませんが、朝の祈りで Benedictus (Canticum) をバルバロ神父様による訳 (1980) で唱えていたときに、Luke 1:69, 1:77 の「救い」に対するわたしの感覚が変わっているように感じました。念のため、調べると、
ラゲ訳 (1910) 、路加(ルカ)の耶蘇(イエズス)基督(キリスト)聖福音書
1:77 「其民に罪を赦さるべき救霊(たすかり)の知識を與(あた)ふべければなり。」
バルバロ神父様による訳 (1980)
ルカによる福音書
1:77 「罪のゆるしによって救いの来たことを、その民に教えるからである。」
ラゲ訳は、漢字では救霊となっています。上記のカリストス・ウェア主教の書によると、「すなわち救いはハリストス・救い主そのものです。」、とあります。cf. p. 26. おろかものの感想ですが、Benedictus をバルバロ神父様の訳で唱えていると、「救い」と「イエス・キリスト」がほとんど同じである
ように感じました。念のため、Nova Vulgata をみると、
EVANGELIUM SECUNDUM LUCAM
1:77 "ad dandam scientiam salutis plebi eius
in remissionem peccatorum eorum,"
無知なおろかものがでたらめに古語風におきかえると、
其の民に、彼らが罪の赦されにつきて、救いの下形(したかた)告(つ)ぐる為(ため)、
のようになりました。"scientiam" が大変心に残ります。これに相当することばは、ラゲ訳 (1910) と新改訳聖書 (第 2 版 1978 年)は、「知識」と訳されています。神父様のこのブログのコメントに、以前、救霊に逃げていたことがあると書きましたが、ラゲ訳のこの漢字を見て、そのことを思い出しました。
「神化 (theosis)」にかかわること思われることは、Cathechism の 460 (信仰宣言) にあると思います。上記のカリストス・ウェア主教の書の、「最後に『救われましたか』」に、「『救われましたか』と問われたら師父シソエスにならって答えましょう。『悔い改めを始めたかどうかさえも疑わしいのですと』と。・・・。しかし、聖ニコラス・カバシラスとともに気を取り直し、勇気を持たねばなりません。ハリストスは今ここでも、またこの旅路のどんな場面においても、・・・『目的地ばかりではなく、私たちの夜毎の宿りにも、共にいてくださる』のですから。」 cf. pp. 46-47.
このことばを受け、バルバロ神父様による訳 (1980) の使徒行録を何気なくみると、8:37 が目に留まりました。正教会では大変大切な場面のようですが、わたしが持っている Nova Vulgata には、バルバロ神父様の訳の注釈にあるように、本文には (37) とだけあり、8:37 は脚注にあります。上記のカリストス・ウェア主教の書の「正教徒は聖書をどう読むべきか」の、「教会を通じて聖書を理解すること」の裡に、使徒行録 8:30-31 が引用されています。これは、site 「正教会を知りたい人のために by Fr. George Matsushima 司祭ゲオルギイ松島雄一 大阪ハリストス正教会」の「◆師父たちからのメッセージ」の 「キリスト教をとらえ直してみたい人のために 聖師父と現代神学者たちのことば」の「キリスト教をとらえ直してみたい方へ」の「正教徒は聖書をどのように読むべきか カリストス・ウェア府主教」を通して読むことができます。わたしは、以前にこれを読み、使徒行録が引用されている箇所は大変心に残っていました。わたしは、あまりこのような話は聴いたことがないので、多くのことで教えられます。また長文をすみません。
たびたびすみません。わたし(新米信徒)が上のコメントに引用した文に書き間違いがあるので、訂正します。
エゼキエルの書 9 章 4 節以下の「タウ」について書いてある頁は、正しくは pp. 193-194。
最後のことばは、正しくは、
「・・・浸透させるべきだと思います。」
すみませんでした。
わたし(新米信徒)が上のコメントに書いた、ベネディクト 16 世の十字を切ることについてですが、「Joseph Kardinal Ratzinger, Der Geist Der Liturgie Eine Einführung, Verlag Herder (2002) :邦訳 ヨセフ・ラッツィンガー 濱田 了 訳 典礼の精神 サンパウロ (2004)」の第四部 典礼の組成、の、第二章「身体と典礼」、の、二 十字架のしるし、からのことばのつもりで書きました。不正確に書きましたので、その箇所の一部を引用します。記憶にたより、不正確に書いたことをお許しください。
「十字架のしるしは一つの信仰告白です。・・・。私たちは十字架のしるしを、御父・御子・聖霊である三位一体の神への信仰告白と結び合わせます。このようにして十字架のしるしは、洗礼の記念となり、聖水を使用してしるす場合にはとりわけ明確になります。十字架は受難のしるしでもあり、同時に復活のしるしでもあります。・・・」cf. p. 192.
もう少しだけ引用することをお許しください。十字架とユダヤ教との関連で、エゼキエルの書 9 章 4 節以下にある、「タウ」が言及されています。cf. pp. 193-193. さらに、多くの考察が続き、最後に、「私の父と母は、子供たちが遠くに行くとき、とりわけ長い別れになるときに、聖水で額と口、胸に十字のしるしをしてくれましたが、・・・。すべての受洗者が持つ共通司祭職を完全に表現するものとしてこの祝福が、私たちの日常生活に再びより力強く行われ、そして主から来る愛の力をもって私たちの生活に
浸透すべきだと思います。」、とあります。cf. p. 199.
先日、ある正教会の聖堂があるところに行きました。わたしが暮らしている場所とそれほど遠くないところに聖堂がありました。近くもありませんが。
駅の地図を見て、適当に歩いていくと、空の方から十字架が見え、迷わずに行くことができました。門が空いていたので、中に入り、聖堂の周りを見て歩きました。素人の感想ですが、窓や丸屋根は別にして、線分を組み合わせてできている多くのものからなるように感じました。聖堂の裏手には、おそらくオリーブの木だと思いますが、木が 4 本程あり、多くの実がなっていました。
そして、門の近くに、記憶違いかもしれませんが、「永遠の記憶」と書いてある聖なる建物がありました。聖所だと感じて、その前で手を合わせて祈りました。平日で聖堂には入りませんでしたが、西方の教会と異なる十字架を見ることができました。
家に帰って、「永遠の記憶」のことを調べると、正教会の信者の方にとっては大変大切なことばであることがわかりました。永眠された方々をおもって神に祈るときのことばのようです。また、永眠の永は、永久の永であることを知りました。永眠したものは必ず復活するということを信じているので、永遠ではなくて永久であるそうです。また、ある論文によると、カトリック教会では、(少なくとも今は)神様に死者を永遠に記憶してください、という祈りはないそうです。
また、正教会の松島司祭が十字を切って、ハリストス復活と言う、ということを FEBC の放送で何度か聴いて、ツルゲーネフの「初恋」の最後の場面を思い出した。最後に近いところを読み直すと、「死(眠り)」、「罪」、「祈り」が中心にあるように感じて驚きました。わたしは、若い頃に、奔放で繊細なジナイーダに惹かれて、何度か読みましたが、今はまったく異なるものを感じます。最後の場面で、老婆が、今はの際に、十字を切り続けて、罪の赦しをこう場面は大変重く感じます。最近、日本のカトリック教会の信徒は何度も十字を切るでしょうか? ベネディクト 16 世は、十字を切ることは信仰宣言(三位一体の神を信じること、イエス様の御受難と御復活を信じること)でもあると書いておられました。
煉獄に座って歌う Sitting In Limbo
坂倉神父も煉獄に座ったかしら
彼らしいいい死に方した
わたしは、受洗の前に、「キリストへの新しい道 求道者のための教えと行い キリストバル・バリョヌェボ=著 サンパウロ (2005)」を神父様の指導を受けながら読みました。以前に、神父様のこのブログに、この本にある、幼い娘ラケルさんを亡くした母親の方の「聖徒の交わり」への確信について書きました。煉獄は、「聖徒の交わり」と深く関わっているようです。ごく最近、修道女の高木慶子さんが「援助修道会」の方だと知り驚きました。無知ゆえのことです。わたしは、「グリーフケア」等の専門家で、活発に活動されている方とだけ知っていました。ところが、「援助修道会」の site に、修道女の ラファエラ 高木慶子 さんのことばがあり、「『煉獄援助修道会』と言わないと私は困るのです。」から始まっていました。ここにあることばは、わたしを指導してくださった神父様のことばと重なります。また、カトリック広島教区の site の「修道院めぐり」には、「煉獄援助修道会(通称:援助修道会)」とあります。フランスでは 今も "Sœurs Auxiliatrices des Âmes du Purgatoire" のようで、わたしがでたらめに直訳すると、煉獄の魂の助け手の修道女達、のようになります。無知なおろか(疎か、愚か)な者の感想ですが、「清め」が中心にあると思いますが、すべての人の救いへのおもいにも通じるように感じます。そのような意味では、「(ギリシャ)正教会」の教会全体での死者への祈り、"Liturgia Horarum" の "Ad Vesperas" の "Precēs" の最後の死者への祈りにも 通じるようにも感じます。 日本語の「教会の祈り」の「晩の祈り」の「共同祈願」には、しばしばすべての死者の救いへの祈願があります。また、ラテン語規範版にも多くあると思います。わたしが唱えたラテン語のそのような祈願はわずかですが。正教会は、自死者の救いには厳しいようですが、教会全体ですべての死者への祈りをするそうです。
Catechism で「聖徒の交わり」を通して「煉獄」をみると、例えば、954 から 959、1474 から 1479 があります。「煉獄」そのものについては、1031, 1032 にあると思います。神父様が引用された箇所は、1031 の注の 624 ではないでしょうか。今は時間がありませんが、時間ができれば、2 マカバイ 12・44-46 について教父の教えを学んでみたいと思います。無知な者が少し調べて書きました。
改名の理由や意味合いについては直接「援助姉妹会」の皆様からお聞きしたいものですね。
・サン・モール修道会→幼きイエス会(ニコラ・バレ)
・扶助者聖母会→サレジアン・シスターズ
・煉獄援助修道会→援助修道会
・宮崎カリタス修道女会→イエスのカリタス修道女会
サンモール会の場合、仏語の正式名称は、
Les Sœurs de L'instruction Charitable du Saint Enfant Jésus
聖嬰イエズス愛徳教育修道女会
だと。
各修道会は、特別な場合を除き、まず地元司教様の認可を受け、その後バチカンでの教皇認可を受けて、正式名称はラテン語で届けられると、お聞きしたことがあります。
援助修道会の場合、修道会創立当初教皇認可を受けた修道会のラテン語の名称に「煉獄」の文字が入っていたのだと思いますが、第二バチカン公会議後、正式名称まで、変えられたのでしょうか?
何を援助するのかと問われると、やはり「煉獄の霊魂」なのではないのでしょうか?
日本語の翻訳だけを変えたのか、バチカンに届けてある正式名称まで変えられたのか、お聞きしたいです。
***
六甲の援助修道会のシスター方、1970年代半ばの記憶があります。神父様のお姉様の修道会の当時の修道服よりも丈が短く、ベールの中の御髪もたくさん見えていて、話し方も「シスター調」ではなく「現代的」だと感じました。