(つづき)
その教皇たち。ルチアがマリアのお告げを受けた時既に教皇であったベネディクト15世から、ピオ11世、ピオ12世、ヨハネス23世までは、教皇が生命を狙われたというような記録はありません。
第3の秘密の封印が解かれた1960年後に教皇になったパウロ6世は、その秘密を読んで「内容の重大さにショックを受けて卒倒し、『これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持って行く』と言って、発表を差し止めてしまった」と言うような話がありますが、もしそうだとすれば、パウロ6世教皇は、自分が暗殺の犠牲者だと早飲込みして、自分の殺される時にこの秘密を一緒に葬ろうと考えたとも受け止められます。しかし、当の教皇は81歳まで在位して何事もなく亡くなり、第3の予言はそのままバチカンの奥に保管されたまま残りました。
その次に教皇に選ばれたのが、ヨハネ・パウロ1世でした。彼は教皇在位33日目に突然不審の死を遂げます。第二バチカン公会議の決議事項の実施やマネーロンダリングの温床と目されたいわゆる「バチカン銀行」の改革などで、大幅な人事異動を発表する前夜に死亡したということで、司法解剖もせずそそくさと葬ったリして、謀殺説や証拠隠滅の疑いが囁かれています。これは、ファティマの第3の予言と無関係だったでしょうか。
無念の死を遂げたヨハネ・パウロ1世の遺志を継ぐかのように、ヨハネ・パウロ2世は、東欧の民主化、反共のために働くとともに、回勅で妊娠中絶や安楽死を「死の文化」と呼び、それに対して「生命の文化」を提唱するなど、世俗化した現代社会に対して厳しく警鐘を鳴らしました。彼は、2005年2月23日に著作「記憶とアイデンティティー」においてファティマのメッセージの全容に関する解釈を開示し、「1981年5月13日の狙撃事件の背後には、20世紀に生まれた暴力的なイデオロギーに属するしっかりした組織があった」と述べていますが、具体的には、トルコ人マフィアのメフメト・アリ・アジャを使ったKGBによる組織的犯行だったとされています。
教皇庁の「最終公文書」によれば、当時の国務省長官アンジェロ・ソダーノ枢機卿はその声明のなかで、教皇の暗殺未遂事件とファティマの予言との関係について、「ファティマの『秘密』の第3部に関わると思われるいろいろな出来事は、もはや過去のことに思える」と語っています。
果たしてそうなのでしょうか。
ルチアの設けた1960年までと言う封印期限が過ぎて初めて読んだパウロ6世は、予言通り死ぬ運命にある教皇は自分だと思い込んだふしがあるが、実際には何も起きませんでした。
謀殺された可能性が高いヨハネ・パウロ1世は、ルチアの予言にあるように銃弾によるものではなく、毒殺の可能性が指摘されています。しかし、「白い衣を着た司教」(教皇)が殺されたのだとしたら、ファチマの予言と無関係とは言えないのではないでしょうか。
2発の銃弾を受けて致死的重傷を負ったヨハネ・パウロ2世は、奇跡的に一命を取り留めました。狙撃事件のあと、ジェメリ病院に入院中だった教皇自身が、「瀕死の教皇が死の際に」とどまるよう、「銃弾の軌道を導く母の手」のあったことを認めました。一命を取り留めたということは、別の見方をすれば「未遂」に終わったということでもあります。未遂なら、まだこれからもあるかも知れないでしょう。現に、あまり知られていないようですが、狙撃事件から満一年目の1982年5月、ファティマの記念日にその地を訪れたヨハネ・パウロ2世は、再び刃物で襲われて怪我を負っています。
前述の国務省長官ソダーノ枢機卿の表現を注意して読むと、「1989年に相次いで起きた事件(注:ペルリンの壁崩壊など)は、ソビエト連邦においても東欧諸国においても、無神論を標榜していた共産主義体制の崩壊をもたらしました。このためにも教皇は、心の底から聖なる乙女マリアに感謝しておられます。しかし、世界の他の地域における、苦しみの重荷を負う教会とキリスト者に対する攻撃は、残念ながらまだ終わっていません。ファティマの『秘密』の第三部に関わると思われるいろいろな出来事は、最早過去のことに思えるとしても、聖母マリアから20世紀の初めに呼びかけられた回心と償いへの招きは、今日もなお時代性と緊急性を残しています。」と記されています。
と言うことは、状況はまだ変わっていない、第3に秘密は今も有効であるということではないでしょうか。ソダーノ枢機卿は「教皇たちに導かれた一つの終わりのない『十字架の道』です」と言う表現を使っていますが、それも同じ解釈に道を開くものではないのでしょうか。聖ペトロ広場でのヨハネ・パウロ2世の狙撃事件は、背後に大組織があったことは知られていますが、撃ったのは一人のテロリストで、発射された銃弾は2発だけでしたが、ルチアの「秘密」によれば、教皇は「一団の兵士たちによって殺され」、「彼らは教皇に向かって何発もの銃弾を発射し、矢を放ちました」とある。これはあくまで象徴的なヴィジョンであって、殺されるのがどの教皇か特定されていないように、犯人は一人か、複数か、ピストルかライフルか、また2発だけか多数の銃弾か、ナイフか矢か・・・、はたまた毒殺か、などの詳細も示されていないのかもしれません。既に二人の教皇が標的になり、一人は実際に殺された、とすれば、3人目は絶対に無いと、誰が断言し切れるでしょうか。
わたしは、この2年余りの間ローマにいて、何度も教皇ベネディクト16世の姿を間近に見る機会に恵まれてきましたが、ブログにそのことを報告する時は、ほとんど毎回、教皇の警備が目立って厳しくなっていることを指摘し続けてきました。それぞれの教皇の個人的んキャラクターの違いによる面もあるでしょうが、ヨハネ・パウロ2世の場合は、全く無防備と言ってもいいほど群衆に身をさらし、人々に積極的に近づき、セキュリティーの人間がめざわりになることもなかったのに、今の教皇の場合は、もうなりふり構わず安全第一主義の警備体制をひいています。まず、謁見の会場のみならず、聖ペトロ大聖堂に入るためだけにも空港並みにX線による所持品チェック、ボディーチェックに始まり、教皇が大勢の人に接する場所には何十人のボディーガード、セキュリティーマンが、ダークスーツに身を固め、湧きの下にはピストル、耳にはイヤホーン、袖口には隠しマイクを忍ばせたいかつい男たちが、実に目障りなほどうようよしています。
新しいパパモビレ。秘書などの側近は乗せず、運転手は低い位置に。その周りを、大勢のセキュリティーが取り囲んでいる。
膨大な経費のかかるこのような警護は、1981年5月13日にヨハネ・パウロ2世を襲った狙撃事件を上回る攻撃を想定してのことでなければほとんど説明がつきません。
第三の「秘密」の「最終公文書」の半分近いページ数を費やして、当時教理省長官だったラッツィンガー枢機卿(現教皇)自らが、ファティマの出来事に関する「神学的考察」を書いていますが、そのことからも、同教皇が如何にこのファティマの秘密を重く真面目に受け止めているかを示しているものとわたしは考えています。
そして、教皇になった今、恐らく彼は自分自身が次のターゲットであることを強く意識しているのではないかとわたしは考えています。
近くに彼を見、また遠くから彼の表情をカメラの望遠レンズにとらえて見る度に、わたしはついそのような想念の虜になるのです。
だからと言って、現教皇が襲われ、死ぬと断言しているわけではありません。そんなことがあってはならないし、避けることも可能でしょう。避けるためには、マリア様の警告を自分に向けられたものとして真摯に受け止めて、各自が、そして全ての信仰者が、回心に努め、償いの技に励む以外に無いでしょう。歴史のコースは人間が選ぶもので、人間はそれを変えることができる。
(おわり)
教皇ヨハネ・パウロ2世の脇腹を貫通しジープの床にころがった銃弾は、ファティマのマリア像の冠の中に埋めこまれた。水色の玉の下に見えるのがそれだろうか。