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メリークリスマス!
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ブログの「編集」画面で、何気なくアクセス状況をクリックしたら、ここ数日更新していなかったにもかかわらず、普段より目立ってたくさんのアクセスがありました。そろそろ何かあるかな、と期待して覗いてくださった方が大勢いたんだ、と言うことを思い知りました。
さて、あらためてキリストの降誕オメデトウございます。何故目出度いか?私なりの意味づけを書きたいと思います。
2010年のクリスマスイブにちなんでの私のメッセージは以下の通りです:
① クリスマスはナザレのイエスと言う歴史上の人物(12月23日が天皇明仁と言う歴史的人物の誕生日であるというのと同じ意味で)の誕生祝いをする日です。世間は意図的に(悪意をもって、計画的に・・・)その厳粛な事実を覆い隠そうとやっきになっています。サンタクロースでもなければ、クリスマスケーキでもなく、ツリーでも、クラブやキャバレーの乱痴気騒ぎでも、デパートの大売出しでもありません。それらはみんな、2013年ほど前のキリストの誕生から人々の目を逸らさせるために巧妙に、意図的に広げられたヴェールです。
② 誕生したナザレのイエスは、「全ての人」の「救い主」です。「全ての人」とは、キリスト教を信じる人も、信じない人も、他の宗教を信じている人も、神を否定する無神論者も、全ての人を救ったと言う意味です。彼は全ての人を平等に、無差別に、本人の意思にも関係なく、一方的に救ったと言う意味です。しかも、彼のもたらした「救い」とは、「死」を無力化し、「死」を超えた「復活の命」、二度と死なない永遠の生命を与えてくれるという意味です。(正統派を自任するキリスト者で異論のある人は、どうぞ「コメント」欄に反論のご意見をお書き下さい。受けて立ちますよ!)
③ 他の宗教とどこが違うか?他の宗教は、ともすれば「これを信じたら救われる」「信じなければ救われない」と教える傾向にあります。
キリスト教にもその匂いがプンプンするではないか、ですって?それは非常に残念な事実です。しかし、それは間違ったキリスト教です。キリスト教は、信じない人にも信じる人と同じように、みんなに平等にキリストの救いが届いた、と教えます。その限りにおいて、本当のキリスト教だけは、他の全ての宗教と本質的に違うこと、万人の救いの宗教だと言えます。だから、キリスト教は正当に全ての宗教を超越している、と主張します。そう信じられたからこそ、私は国際金融業を擲って、55歳でカトリックの神父になる決心をすることが出来ました。
(届いた救いをどう受け取るか、あるいはまったく受け取らないか、は最終的に個人の自由です。その点だけは、理性と自由意思を神から頂いた人間の魂の神秘です。)
④ ナザレのイエスは地上に平和と和解をもたらしました。キリスト教は平和の宗教です。
宗教は戦争の種ですって?確かに宗教一般はそうです。
しかし、本当のキリスト教、ナザレのイエスの教えだけは断じて違わなければなりません!
実際には歴史上キリスト教徒が深く絡んだ戦争がたくさんあった、ですって?
確かにありました。それもひどいのが沢山。残念なことです。
しかし、戦争に関わったキリスト教徒らが信じたのは本当のキリスト教ではありませんでした。キリスト教を語った、しかしキリスト教を裏切った、異教的な信徒たちのなせる業です。キリスト教の中にも、異教(偶像崇拝)の要素はいっぱい入り込んでいます。本物が霞んでしまって、ほとんど見えなくなってしまうほどです。
⑤4世紀はじめ、キリスト教がローマ帝国の実質的国教になった時、大きな転機が訪れました。昨日までギリシャ・ローマの神々、偶像を拝んでいた人たちが、真実のキリスト教的回心を成し遂げることなく、異教的メンタリティーを保ったまま、雪崩を打って教会に入ってきたからです。
寄らば大樹の陰。新体制下で出世したければ、キリスト教徒になるが一番早道、と言った不純な俗物的メンタリティーです。そのとき以来、キリスト教は、主流を制した人々により、キリストを裏切って諸宗教の一つに成り下がったと言っても、あながち言い過ぎではないでしょう。
そのとき以来、キリスト教も、もはや平和の宗教ではなく、争いの種、戦う集団に変質したと言えるでしょう。十字軍、然り。キリスト教を語った保守政治集団、然り。争い、戦い、流血の一方に組したキリスト教集団は全て然り、でした。
全ての人に救いを約束するナザレのイエスの良いニュースは、その超越性、普遍性、したがって、あらゆる宗教に対する優位を誇りえたはずの特権的な立場を、みずから放棄したと言っていいでしょう。
⑥ 現代社会は、本来のキリスト教、他の諸宗教の相対性を超越した平和の宗教としての地位を回復したキリスト教を求めています。そして、それは今こそ再び可能です。せいぜい、この50年ほど前から(理論的には1965年以来)の全く新しい状況です。
「汝の敵を愛する」キリスト教。「悪に逆らわない」キリスト教。「友のために命を棄てるほどの愛を示す」キリスト教。回心した、地の塩の塩味を取り戻したキリスト教。それが、今再び、個人レベルにおいてではなく、共同体レベルで可能になったと言うのが、私の今年のクリスマスに寄せるメッセージです。
可能になった、と言いましたが、簡単に達成できるとは言っていません。少なくとも、その可能性を本気で信じる人達がいる。その為に日々自分と戦っている人がいる。神様がその人たちとともに居て、日々小さな奇跡が起こっている、と証言します。
これこそ私からの良い知らせです。だから、メリークリスマス!
②キリストは万人の救い、アーメン。
③他の宗教でも万人の救いを解いているところもあると思います。確か仏教も全ての人が救われるまで。
④十字軍、保守政治集団。権力を求め戦うものはみなキリストに反すると、同意です。
⑤「悪に逆らわない」がよく分かりませんが、多分「悪に悪をもって打ち勝とうとせず、善によって打ち勝つ」と言う意味でしょうか。
現代の教会内偶像とは何なのか、(特にカトリックにおける)その辺ご意見聞きたいです。
また、信仰を持たない多くの方に、「私は神様に頼りたくない、したくない。神様を信じるのは弱い人だから。でも人間は自分で自分をどうにかしなくちゃいけない。」と言う意見もあります。
新求道共同体というのですね。理念には共鳴するところ多々ありますが、いまいち、これをそのまま日本に持ってきてもなあと、考えこみます。twitterではtyriuyの名で新共同体のことどう思うか書いてみました。今パソコンの調子が悪くて、ケータイで短くしか書けませんが、考え方自体はよいものだと思っています。
実は、私はその角度からまだ突き詰めて考えていませんでした。
私の頭にあったのは、「偶像」崇拝、つまり「神」でないものを神として拝むこと一般でした。その最たるものは偶像としての「お金の神様」、別の名を「マンモンの神」の崇拝は、全ての宗教の陥る誘惑で、その意味でカトリック教会の中にもその偶像は忍びこんでいる、と言いたかったのです。