★ 回教徒、ついに世界一? (その2)
= 若干の補足 =
ベトレヘムのキリストの降誕の教会の中庭で輪になって踊る共同体の若者達
気が付いたら 回教徒、ついに世界一? (その1) は、大分前にアップしていました。そこでは、世界の人口に占める回教徒の数は、ずっとトップを走ってきたカトリックを追いぬいて世界1になったという話でした(どちらも9億人台ではあるが)。その単純な原因の一つは、カトリック教徒の一家庭あたりの数(ヨーロッパでは1.3)に対し回教徒の一家庭当たりの子供の数は3とか、4とか、それ以上とか(国、地域によるが)、とにかく2を遥かに上回っている現実が続いたことから来ています。それで、ここに若干の補足をしたいと思いました。
「アーミッシュ」 (この言葉は説明を要しますね、後でいたします) の場合と同様、カトリック教会の中の「新求道共同体の道」 (これも説明が必要ですが、今はそのまま読み飛ばして下さい) の場合も、7の70倍赦し、敵を愛し、悪に逆らわないように、と言う福音的な理想に日々チャレンジしています。そして、そのチャレンジを通して、人間的にはそれが実現不可能なほど高い理想であることを、イヤと言うほど身に沁みて思い知るのです。
しかし、それと同時に、たとえ人間的には不可能なことでも、神の霊の助けによって、奇跡的にその不可能が可能になる、と言う信仰を、体験を通して、事実によって、着実に皮膚感覚で体得していくのです。
その結果、例えば、二人目の子供の誕生後間もなく、夫婦のいずれかの不倫や、金銭的問題からのいさかいや、育児教育の考え方の相違など、様々な動機と理由で不仲になり、猜疑や、嫉妬や、憎悪で早々と寝室を別にし、意味のある会話が失われて家庭内離婚状態となっていた夫婦が、民法上の離婚手続きに終わろうとする寸前に、たまたま「新求道共同体の道」に出会い、信仰を通して和解に導かれ、再び寝床をともにして愛し合い、何年ものブランクの後、また次々と子供に恵まれ、温かい愛に包まれた大家族に変貌して行くというような、現代の奇跡が相次いで起こっているのです。(信仰によらなければ、このような奇跡は現実にあり得ないでしょう!)
あるいはまた、初心を忘れ、倦怠と召命感の喪失で、生きる意味を見失った神父が、辞めて結婚に踏み切ろうとした矢先に、この共同体にめぐり合い、回心して気を取り直し、熱烈な宣教者、信仰の証し人に変わっていった司祭の例を、私は実際に目の当たりにしています。これなども現代の奇跡に数えていいと私は思っています。そもそも、私自身が、長い放蕩生活の末に、いまこうして司祭として生きているのも、私にとっては小さな、しかし確かな奇跡なのです。
そういう意味で、2000年前のキリストの時代と同じように、現代においてもキリストは目に見える奇跡をあちこちで行っているといえるでしょう。
そういう奇跡を体験した人たちで形成された共同体では、一家庭あたりの平均の子供の数が回教圏の平均をも上回っているとしても何の不思議もありません。
信仰の証は、決して世界人口に占める信者の数で量れるものではありません。現に、たった16万人アーミッシュの沈黙の証言は強烈です。2001年にペンシルヴァニアで起きたアーミッシュの学校での児童に対する銃乱射事件の後にアーミッシュの共同体が示した赦しの精神は、世界中のキリスト教徒に衝撃を与えました。世界の新求道共同体100万人の存在も、9億のカトリックの中で大きな証しとなっています。
敵を赦すだけではなく、敵を愛する宗教。正当防衛と報復の権利を進んで自由に放棄する宗教。悪に逆らわず、裁きを神に委ねて、悪を前にして判断を停止する宗教。カトリック9億の中に、そのような福音の理想を体現するほんの一握りのグループがいるだけで、その存在意義は大きいと言えるのではないでしょうか?
どんなに小さくとも、そのようなグループが現実に存在するなら、それこそ「時の印」、「地の塩」、「世の光」と言えるのではないでしょうか。
(近いうちに 「アーミッシュ」 について連載を考えています。)
この世はサタンの支配下ですから、未来社会は想像した以上に悲惨なものになるのではないかと思います。