:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 友への手紙 インドの旅から 第14信 ボンベイの街角

2021-01-10 00:00:01 | ★ インドの旅から

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友への手紙

インドの旅から

第14信 ボンベイの街角

a) 懐かしの学校

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 四谷の聖イグナチオ教会で数年にわたりホイヴェルス神父様の早朝ミサの祭壇奉仕者を毎日勤めてきたわたしは、東京から直線距離で7000キロ離れたインドのボンベイ(今の名をムンバイと言う)で再会して、孤独で緊張に満ちた初めての海外旅行の後に、まるで放蕩息子が父親に再会したような安堵感と幸福感に浸った。(以下、当時の記事)

ホイヴェルス神父様と昔の教え子たち

 

 お着きになった翌日、ホイヴェルス神父様は懐かしげにバンダラの町を散策された。

 まず、半世紀前に教鞭をとられた学校とセント・ピータース教会へ。外回りの塀と、一、二の建物がまだ昔のまま残っていた。教会の前の墓地も昔の面影をとどめている。昔のカトリックの習慣で、教会の入り口には有力者の信者の墓があり、地面に大理石の板がはめ込まれていて、教会を訪れる人はみなその上を踏んで通ることになる。神父様はこの習慣をお嫌いになった。

 聖堂の中の右手には、この教会で亡くなったイエズス会士の名が壁に刻まれていた。

 「この人を知っている。ああ、この人も良く知っている・・・」と、一人一人の名を読み上げながら、「私もインドの激しい気候のもとに働いていたら、この人達のように早く死んでいたでしょう」と、感慨深げであった。当時の人はもうほとんどここに残っていなかった。

 グラウンド。そこには昔、ココナツの林が良く茂り、水牛の群れが昼寝していたものだそうだ。今は広い芝生となり、朝夕、人夫が水を撒いている。人件費が高い日本では考えられないほどの労働が何の不思議もなく広い芝生の中に注ぎ込まれている。

 カトリックの学校では、カーストの身分差別はどう処理されているのだろうか。とにかく、大体は上流階級の子供達である。明るくて元気よく、実に屈託がない。神父様も、かつてはこんな良い子たちと一緒にクリケットやホッケーに打ち興じられていたに違いない。

 インドはホイヴェルス神父様の初恋の国である。

ホイヴェルス神父と再会を果たして

 布教雑誌「聖心の使徒」に載った第14信もたったこれだけの短いものだった。しかし、その背景には多くのことがあった。

 ホイヴェルス神父は1914年7月、24歳の神学生の頃、未来の宣教師の実習活動として、インドのバンダラの聖スタニスラオ・カレッジで教壇に立った。当時彼は黒い髭をたくわえていた。ある日、インド人の少年たちとグラウンドでスポーツに興じている間に、気候に慣れない北欧人の体は強い太陽を浴びて日射病にかかって倒れてしまい、実習を中断してドイツに送還されてしまった。

 イエズス会のドイツ管区長は、優秀で将来を嘱望されていたホイヴェルスが帰ってきたことを大いに喜び、管区の将来を担う逸材としてずっと国内の要職につけ、二度と宣教地に出さないことを決め、本人にもそう言い含めた。

 ところが、若いホイヴェルスは、いったん宣教地の味をしめた後では、もはやドイツ国内で会の上長、管理職で一生を終わるなどと言うことはとても考えられず、東洋の使徒フランシスコザビエルのようにアジアの宣教の夢を捨てることは出来なかった。

 1920年ハンブルグで司祭に叙階されたころ、日本の中国地方5県の宣教がドイツのイエズス会に委託されることが決まり、ホイヴェルス神父の修道院の掲示板にも宣教志願者の募集が張り出され、彼の同僚の若い神父が応募して採用された。

 ところが、出発の間際になって、その同僚が急に病気で倒れドクターストップがかかった。時あたかも、当時の管区長の任期が終了して新しい人が就任したばかりだった。ホイヴェルス神父は、彼の扱いに関する前任者からの引き継ぎが終わっていない間隙を縫って日本行きの代役を申し出、新任の管区長はホイヴェルス神父の言葉をあっさりと受理してしまった。こうして、まんまとドイツ脱出に成功したホイヴェルス神父は、1923年6月29日にハンブルグを発って8月25日に横浜に入港した。

 関東大震災が東京を襲ったのは、その一週間後のことだった。

 「日本は地震国」としっかり学習してきたホイヴェルス神父は、慌てず騒がず、片手で本箱の本を護り、もう一方の手でドイツからわざわざ持ってきた戸棚の上のトップハット(シルクハットとも言うが、要はタキシードを着た手品師がウサギをとり出して子供たちを喜ばせるあの黒い筒形の帽子)を後生大事に護っていたのだった。

 大地震でパニックになって外に飛び出して震えていた先輩の宣教師たちは、地震がおさまったのを見極めて自室から悠然と現れた神父の口から、皆さん、何をうろたえているのですか?日本は地震国ではありませんか?という言葉を聞いてショックを受けた、と言うのは有名な話だ。

 その後40年以上日本を離れず、頑として里帰りも拒んできたホイヴェルス師が、突然インドに行くと言い出されたのは、神学生時代1年余り教鞭をとったムンバイ(ボンベイ)のハイスクールが懐かしかったからだけではなかった。

 キリスト教2000年の歴史を大きく3分割する二つ目の重大な節目に際して、ホイヴェルス師はその大変革の印を直接肌で体験したかったからに違いない。

 一つ目の変革は、紀元312年前後に訪れた。

 生前イエスは弟子たちに「聖と俗」、「神の国と地上の帝国」を互いに相容れない世界として峻別し、教会が世俗の覇者と慣れ合い癒着することを厳しく禁じられた。聖書にはこう書かれている:

 人々はイエスに言った。「先生、皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。納めるべきでしょうか、納めてはならないのでしょうか。」イエスは、「なぜ、わたしを試そうとするのか。デナリオン銀貨を持って来て見せなさい。」彼らがそれを持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らが、「皇帝のものです」と言うと、イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。(マルコ:13-17)

 このイエスの教えは、ローマ帝国の最底辺の貧しい庶民たちの間で急速に広まり、ひたすら神に寄り縋って生きはじめた。

 これは皇帝にとっては極めて面白くない現象だった。皇帝にとって帝国の底辺の庶民は生かすも殺すも皇帝の意のままの、いわば「奴隷女」のような存在だった。ところが、気がついたら、自分のものだと思っていた女奴隷たちが、キリストと言う色男の花嫁になって自分を捨てはじめた。プライドを痛く傷つけられて怒り狂った皇帝は、自分を裏切った女奴隷は皆殺しだとばかりに、キリスト教徒を迫害し、捕えた信者をライオンに食わせる見世物として楽しんだ。しかし、殺しても、殺しても、殉教者は聖者として崇められ、改宗者はあとを絶たず増えるばかりだった。

 そんな時、権力者はどうするか。戦術を180度転換し、迫害をやめて懐柔に転ずる。まず、皇帝自身がキリスト教を受け容れ、キリストが弟子にしたガリラヤの無学な漁師の後継者たちには、皇帝の庇護のもとに元老院の会堂のような豪壮な建物(バジリカ)で元老院の議員の華麗な式服を身にまとってミサや祭儀を行わせ、宮殿での優雅な生活と自由な宣教活動が許される。さらに、皇帝の軍隊が教会を護り、その見返りに、教会は皇帝に神のご加護を祈ることで手を打つことにした。

 キリストの弟子たちはこの誘惑的な処遇に、コロッと魂を売り渡した。その結果、ローマ帝国の版図はあっという間にキリスト教化していく。皇帝と教会の利害が見事に一致し、迫害は止み、パックス・ロマーナ(ローマの平和)が訪れた。

 こうして、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」というキリストの厳しい教えを守り、迫害にめげず、血の代償を払いながら永遠の命の源であるキリストに恋して、「キリストの浄配」、「キリストの花嫁」となった貧しいながら誇り高い帝国の最底辺の人々は、教会指導者たちの変節で、皇帝の女奴隷よりももっとひどい皇帝の「妾」、「娼婦」に成り下がってしまった。

 結果は地上的には大成功に見えた。しかし、皇帝の宗教になったキリスト教になだれ込んできた民衆は、それまで皇帝を神とし、皇帝が拝んできたギリシャローマの神々を信心していたときと全く同じレベルの宗教心のままキリスト教徒を名乗ることになった。

 キリストは「回心して福音を信じなさい」と言われたが、人々は「回心」とは何か、「福音」が何であるかを全く理解しないまま、ただ言われるままに洗礼を受けているにすぎなかった。それはそうだろう、昨日までキリスト教を信じるのは命がけだったが、いまやローマ帝国で出世したければ、急いでキリスト者にならざるべからずの時代に入ったのだから。

 イエスの「神のものは神へ、皇帝のものは皇帝へ」の教えは、僅か300年で反故(ほご)にされ、「神の民=キリスト教会」と「この世の覇者=皇帝」との政教一致の時代に突入した。そして神聖ローマ帝国に象徴されるような「皇帝」とその「娼婦(教会)」の蜜月時代は、中世を越え、宗教改革の時代も超えて、植民地支配者の船に乗って宣教師が日本に渡来した時代以降も、さらに、第二次世界大戦後まで綿々と続いた。「キリスト教民主同盟」などの保守政党はその名残と言うべきものであっただろう。

 しかし、1964年、第1回東京オリンピックの前後に、コンスタンチン体制の時代が終わろうとしていた。いや、実質的には既に終わっていた。そして、その事に気付いたのが第二バチカン公会議を提唱した教皇ヨハネス23世だった。その後を受けて公会議を主催中のパウロ6世教皇が、今インドのボンベイ(ムンバイ)にやって来ている。

 ホイヴェルス神父様は、キリスト教の歴史が第3期に入ったこの「時の印」を敏感に受け止め、教会の大変革の空気を肌で感じようとしてインドに旅されたのではなかったか。

 313年に皇帝の妾として囲われた「キリストの花嫁」(教会)は、すでに年老いて醜くなり、皇帝から疎まれていた現実にようやく目覚め、未練たらしく地上の覇者に縋りつくのをやめて、コンスタンチン体制ときっぱり決別して、「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に返す」と言うキリストの教えの原点に立ち返る大変革がまさに始まったばかりのときだった。

 だが、始まったばかりのキリスト教の第3期に、日本の教会はまだ十分に溶け込んでいるとは言えないのではないか。

 

聖スタニスラオ学校のスタッフとの遠足

 

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1 コメント

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JDhkさんへ (谷口幸紀)
2021-01-14 08:56:02
JDhkさん
コメント有難うございました。
頂いたコメントの趣旨は良く理解しました。
あなたが出会ったフェークニュースのこと全く知りませんでした。全く馬鹿馬鹿しい話ですね。否定しても否定してもますます拡散すると言うことのようですが、もしそうであるならば、ご依頼通り私が改めて否定すること自体が、結果的に問題のフェークニュース拡散の片棒を担ぐことになると思うので、敢えて沈黙することこそ、拡散防止のために協力したことにならないでしょうか?そういう思いから、戴いたコメントはここで公開することを控えさせていただきたいと思います。
お返事になりましたでしょうか?
谷口幸紀拝
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