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私の「インドの旅」総集編(6)神々の凋落
C) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体
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(1)導入
(2)インカルチュレーションのイデオロギー
(3)自然宗教発生のメカニズム
(4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神
(5)「超自然宗教」の「自然宗教」化
(6)神々の凋落
a)自然宗教の凋落
b) キリスト教の凋落
c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体
(7)遠藤批判
(8)田川批判
(9)絵に描いた餅は食えない
(10)超自然宗教の復権
c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体
すでに触れた通り、現代社会では、自然宗教は、4世紀以後のキリスト教も含めて、文明と自然科学の進歩につれて神秘のヴェールがはぎ取られ、凋落の一途をたどり、消滅に向かっているように思われるかもしれないが、どっこい、そうではなかった。
自然宗教は、自然の偉大な力に対するナイーブな畏怖の念から発生したかもしれないが、時間と共に供え物やお賽銭を引き寄せ、富が集中し、寺院や神殿は荘厳になり、いつの間にか巨大な集金マシーンの様相を呈するようになっていく。世界中あらゆる宗教が、お金、富、に引き寄せられていくのは何故だろうか。その謎を解き明かすカギは、禍を遠ざけ恵みを引き出そうという人間の欲望の中に初めから潜んでいた。そして、その行きつくところは「お金の神様」、別の名を「マンモン」という神様の崇拝だった。
マンモンと奴隷 サシャ・シュナイダー画
マンモン(Mammon)の語源は、人類の発祥の地、北アフリカを中心とするアフロ・アジア語族という太古の言語グループに遡るが、人類の歴史と共に古い言葉と言ってもいいだろう。
マンモンは一般的には「富」を意味するが、マンモンの神として擬人化され、悪魔の姿で描かれることもある。ミルトンの「失楽園」では、人間に対して嫉妬を燃やした堕天使ルシファー(悪魔の頭)の謀略によりアダムとエバは楽園から追われたことになっているが、それはさておき、人間という者は天地万物の創造主である「超自然宗教の神」から存在を与えられたのに、誕生の瞬間から、まことの神を離れ、マンモンの神に引き寄せられる運命にあったのかもしれない。
失楽園 ジェームス・ティン画
もとはと言えば、自然宗教は自然に潜むと考えた神を制御しようとする試みだったが、皮肉なことに、科学技術の進歩とともに宗教のヴェールを脱ぎ捨てて姿を現したのは、人間の欲望の化身、お金の神様、マンモンだった。そして、人間はその神を支配するどころか、逆に組み伏せられ、挙げてお金の神様の奴隷になってしまっている。わたしも、あなたも。
私はしばらくの間四国の幾つかの教会で主任司祭をしていたが、四国と言えばお遍路さんの巡礼が今も盛んで、それを迎える八十八か所のお寺さんはそれなりに栄えている。わたしは近くの名刹を廻るのが好きだったが、ついでにお賽銭箱の数を数える変った趣味があった。それは、あらゆるお堂、あらゆる仏像の前にあって相当な数にのぼる。さらに、必ず巡礼グッズやお札(ふだ)を売り、ご祈祷や寄進を受け付ける窓口がある。それを見て私は、ここにもマンモンの神が顔をのぞかせているな、と納得する。
また、外資系銀行に勤め海外にいた時間に神学生や学生神父として住んだ時間とローマに疎開した高松の神学校に関わった時間を加えると、優に四半世紀に達するが、わたしはその期間を利用してヨーロッパ中の教会を見て廻った。各聖堂の入り口には必ず献金箱があり、あらゆる聖人の像の前にも賽銭箱があって、その数を数えながら、キリスト教の「自然宗教度」を計るという悪趣味を持っていた。どの教会にも当然のようにロザリオや信心グッズを売る店があって、たいていシスターが店番をしていたものだ。
ことほど左様に、自然宗教の「お金の神様」は、人類を奴隷にする恐るべき神で、私には、はっきりとした意思と野望を抱いた生ける化け物のように思えてならない。
ナザレのイエスが説いたキリスト教の神は、三位一体の神と言うことになっていて、同じ一神教のユダヤ教や回教の単純な神と区別されるが、その実態は「理性と自由意思を備えた究極の愛」とか「父と子と聖霊の唯一の神」とか言い替えられても、神学校の教授も、たいていの神父や牧師さんたちもほとんど正しく理解していないのだから、ここでは深入りは禁物だが、わたしにはもちろん一家言ある。ただ、それを今ここで展開し始めたらこのブログは終わらないから他の機会に譲るしかない。
それに比べると、地上の三位一体は実にわかりやすい。
私はしばらく外資系の銀行にいた。ニューヨークのウオール街のリーマンブラザーズにもいたことがある。日本では証券会社と思われがちだが、その実体はれっきとした銀行で、しかも、庶民の小口の預貯金に付き合う小売り銀行ではなく、政府機関や大企業、大富豪に特化した強力な卸し売り銀行だった。
わたしが入社した当時は、ちょうど老舗銀行のクーンローブと新興証券会社リーマンブラザーズが合併した直後で、社名もクーンローブ・リーマンブラザーズという長ったらしいものだった。
金融業のクーンローブ商会と日本の縁は昔から深かった。当時、日本政府は日露戦争の戦費調達のために海外で戦時国債を発行したが、アジアの弱小新興国が大ロシア帝国軍と戦っても勝ち目はないと踏んだ海外の投資家は、それを買おうとしなかった。後に宰相となる高橋是清は世界中を駆け巡って販売に腐心したが、どこでも思わしくなかった。その時、クーンローブ商会の社主のジェイコブ・シフが是清の前に現れ、日本の国債をブロックで買った。すると、商機に敏いシフが買ったのなら何かあると思った投資家たちが続々と後追いをして、無事国債は売れ、日本は戦費が繋がってロシアに勝つことが出来た。軍艦一杯、砲弾一発も全て外貨で買わなければならない時代だったのだ。
私は日本の政府機関やトリプルAの大企業に外債発行を薦める営業をかける時、司馬遼太郎の「坂の上の雲」の中で高橋是清の奮闘を綴った一冊の文庫本を必ずアタッシュケースの中に忍ばせていた。そして、ここぞという所でそれをテーブルの上に出し、「貴社は弊社クーンローブ・リーマンに足を向けて寝ることはできませんぜ!」と一発喰らわせることを忘れなかった。実に安上がりの手土産だった。
高橋是清
そのリーマンで仕事を始めた頃は、上司も同僚も皆エリートのアメリカ人だとばかり思っていたが、ハッと気がついたら、その実、彼らの殆どがユダヤ人で、おまけにフリーメーソンだったりもした。
わたしが「ピート!」と面と向かって呼び捨てにしていた会長のピーター・G・ピーターソンは、ニクソン政権の商務長官だった。シニアーパートナーのドクター・シュㇾ—シンジャーは国防総省の高官だった。また、日本担当の若いパートナー(ちょっと名前を思い出せない)はアジア太平洋担当の元大統領補佐官だった。
ピーター・G・ピーターソン 後にソニーの社外重役にもなった
私が言いたいのは、キリスト教の三位一体の神は神秘のヴェールに包まれて名状し難いが、この地上での「ホワイトハウス」と「ペンタゴン」と「ウオールストリート」の三位一体は、マンモンの神が目に見える形で世界を支配している姿だということだ。
マンモンの奴隷である優秀な人材は、この三位一体の三極の間を血液のように絶えず循環しながら、地上の最貧国の血の最期の一滴まで吸い上げて、少数の億万長者がさらに肥え太るために日夜働き続けている。ここに宗教のヴェールをかなぐり捨てた自然宗教の神の本性が露出している。
モーゼがシナイ山の上でヤーヴェの神から十戒を授かっている間に、麓に残されたイスラエルの民は、黄金の雄牛の像を鋳造してそれを拝んでいた。人間とはかくも弱いものなのだ。
ナザレのイエスの説いた天地万物の「創造主」であり「愛」である「超自然宗教の神」と、この世の「自然宗教」のマンモンの神との際立った対比がここにある。
人は「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」(マタイ6:24)というイエスの言葉の前に、わたしたちはどう振る舞うべきか、明らかではないだろうか。
神父様
私は、聖堂の外にあるマリア様の像の前で手を合わせて、深々と会釈をすることを見よう見まねでしてきましたが、むなしさを感じてきました。ロザリオは、洗礼のための指導をしてくださった神父様から頂いたものを使っていましたが、今は、ひもがきれたので、使わずに保管しています。そして、ロザリオの祈りは、指を折って唱えています。前回の話に戻ってしまいますが、洗礼のための指導を受けていた時に、ケルンの大聖堂のようなものをお金をかけて建てることに対する疑問を述べたことがあります。最近日本で建てられる教会は、お金をあまりかけずに崇高さをだすように工夫されているように感じます。
実家が檀家としているお寺からは、再三のお布施のお願いがきて困っています。永代供養をするにもお金がかかりますし。私は、自分の葬儀ミサには興味が
ありません。神様への冒涜であったり共同体への理解が足りないのかもしれませんが、私が生きている間に優しくしていただいたり、亡くなった後に、私のことを思い出して、時には祈っていただければありがたいと感じます。
「ハッと気がついたら、その実、彼らの殆どがユダヤ人で、おまけにフリーメーソンだったりもした。」
ユダヤ人とマンモンとの関わりをこれまで考えてこなかったことに、たった今、気がつきました。イスラエルという国のことを考えると、旧約聖書の神を信じるユダヤ教徒はどのようになっているのか不安を感じます。新約聖書で、イエス様が神殿から商人を追い払ったことと今のこととが全く結びついていませんでした。
以前福岡のサンパウロでモンテッソーリの相良教授に偶然会いましたら、えらく神父様のカミノを評価していたようでした。どこに属していても美しい確固たる霊性に期待しています。最近はパシュトー詩を楽しんでいます。
これは、聖教皇ヨハネ・パウロ2世が「新求道期間の道」の「定款」を正式に承認されて以来、ベネディクト16も、現教皇も一貫して認めれれていることです。
簡単に言えば、新求道期間の道は「会」でも「団体」でもなく、初代教会にあったように、洗礼志願者が本来歩むべきだった「キリスト教入信の過程」をそっくりそのまま、いつか過去に洗礼は受けたが、一度も徹底した本格的な「入信の過程・入信の道程」を歩む機会を持たなかった成人に、改めてその道程を歩む機会を提供するものです。
初代教会において4-5世紀ごろまで当たり前に行われていた、3-5年もかかる徹底的な入信のカテキズム、すなわち「入信養成期間の歩み」を、すでに洗礼は受けている人に長い時間をかけて最初から歩み直す勧めです。
すっかり世俗化した神不在の現代社会においては、徹底した信仰教育を受け直して足腰を鍛え直さなければ、信仰を深め生き抜くことは容易ではありません。だからこそ第二バチカン公会議が開かれ、その成果を実生活に生かすために聖霊はこの「道」を開かれたのだと思います。
コロナウイルスが世界的に蔓延し収束の展望が見えない今日、この新求道期間の道は、全ての人に信仰を問い直す機会を提供することが出来ます。
(モンテッソーリ専門の相良先生とはBernard Lonergan研究をしていた頃、少々付合いがありました。Lonergan専門家のイエズス会ペレス・バレラ神父も亡くなり、モンテッソーリ自身の友達だったとかいうイギリスのおばあちゃんも100歳で亡くなって、恩師方が次々に帰天され寂しいところですね。)
わたしなど、しがないビジネスマンから聖職の世界に紛れ込んで、ちゃんとした学問からも、専門職からも遠いところで気ままに生きて馬齢を重ねてきました。
今後とも宜しくお願い致します。
職場は一般の財団法人で幹部や上司はみな省庁からの天下り組なので、毎日毎日ルーチンワークをやっていますが、これでエネルギーを節約して余暇で、勉強したく思っております。同僚は海外で長く暮らし過ぎて、日本でまともなコースに乗れなかった人が多く、歴史や宗教や国際情勢に興味がある人もいますので、雑談は楽しいこともあります。
ウルドゥー語ができるひとが一人いるので、アラビア文字を使う諸言語についてよく話します。日本人でオスマン・トルコ語で書かれた勲記付きの勲章をもらった人がいて、見事な筆跡の勲記をコピーして楽しく見ています。
エルサレムの聖墳墓教会の鍵は2件のイスラム教徒の家庭が管理していますが、これはオスマン皇帝からの特許状に基づくそうですね。トルコ語は共和国になって、ラテン文字を使うようになりましたが、帝国時代はアラビア文字でした。
アフガニスタン(およびパキスタン)のパシュトー語もアラビア文字で書きますが、最近はパシュトー・ガザルの父といわれるHamza Shinwariを読んでいます。ガザルは詩の一型式です。
レゲエで有名なボブ・マーリーはジャマイカのラスタファリでしたが、晩年エチオピア正教(テワヘド教会)に改宗し、なんでもハイレセラシエの息子から、皇帝愛用の指輪をもらったという話ですね。エルサレムにおりました時は、コプト教会エルサレム総主教座の隣にあるエチオピア・テワヘド教会にも行きまして、売店でアムハラ語とテグリーニャ語の聖書を買いました。エチオピア・テワヘド教会の典礼は元来ゲーズ語で、ゲーズ語典礼本も手に入ったので楽しく読んでいます。エルサレムにはエチオピアからの移民も多く、よくアムハラ語で書かれた看板がありました。ゲーズ語と同じゲーズ文字ですね。
コプトの方は二度ほど、タワドロス2世にお会いしたことがあるので、気を引き締めて、コプト語をやっております。コプト文字はギリシャ文字と共通のものが多く、語彙もギリシャ語起源のものも多いため、比較的学びやすいです。
アルメニア人には知己が多かったため、アルメニア語も長らくやっていますが、なかなか上達しませんでね。アルメニア・ブランディ―ばかり飲んでいます。エルサレムにアルメニア使徒教会の美しい総主教座や学校があるのは勿論、シンガポール中心部にもアルメニア教会がありますね。確か老舗ホテルのラッフルズも元はアルメニア人の創業だったと思います。東方典礼カトリックのひとつ、アルメニア・カトリックも北米や欧州、イスタンブールにもありますね。
イスタンブールではバルトロメオス1世にも会い、アルメニア・カトリックの総司教や、アルメニア・カトリック・イスタンブール大司教、それからラテン・カトリックの神父方と会えて楽しかったです。小教区で働いているフランス人(ブルトン人)司祭が、偶々、亡くなった元・深谷教会主任(ブルトン人)のフランスでの元・教え子だったので驚きました。
まあそういうわけで、ヴァチカン文書館附属学校で学んだことをもとに、いろいろ文書を読んで楽しんですごしております。文書館の建物には、デカルトの教え子のクリスティーナ女王が、カトリック改宗・退位後、移住して住んでいた部屋があります。日本から来た書簡なんかもたくさんありました。近くの国務省庁舎の廊下の壁はラファエロが一杯描いてくれましたね。ラファエロを雇えてよかったですね。わたくしの親友のひとりはラファエロの壁のところで働いていましたが、国に帰って結婚して、大学で教えています。
ヴァチカン銀行本店の横を通りますと、バルコニーでサングラスに黒服の男たちがタバコ吸ったりしていましたね。なかなか不気味でした。まあヴァチカンというのも駅やヘリポートだけでなく、発電所はあるし、スーパーマーケットやガソリンスタンドやカフェもあり、多くの市民が薬局に詰めかけて免税で薬を買い、庁舎にはエレベーターガールならぬ、エレベーター・ムッシュがいたりと面白い処もありました。
日本の宮内庁なんかにもカトリック関係の文書で面白いものがありましてね、いちど、ブカレスト大学カトリック神学部で発表したことがありますよ。その時、ブカレスト大司教さんが、荊の冠で祝福してくれました。ブカレストには、もともとパリにルイ9世の時からある荊冠を少し切り取ったものがありましてね、なんでも日本人女性でそれで奇跡的に病が治った人がいるそうですが、まあこういう話を始めますと物騒ですし、わたくしは御喋りでこまりますので、このへんで、たいへんお騒がせ致しました。そういえば、岩下壮一神父の御父様岩下清周関連の文書を日銀アーカイブで見つけましたよ。(岩下神父関連文書はヴェネツィアの大司教区文書館と神学校図書館で若干見つけました。彼はヴェネツィアで叙階されましたのでね。岩下壮一神父が暗殺されたという噂もありますが、それについては小林珍雄教授とヒルデブランド・ヤイゼル神父の文書を精査すれば何か分かるかもしれません。)わたくしの同族でもある岩下一家の墓参りに行き、山本襄治神父様の妹さんの御墓も同じ敷地にありましたので、帰天されて久しい山本神父様の御恩を思いながら心からお祈りしたものです。
神父様、どうぞわたくしのためにも、お祈りください。
「お金=神」の時代をどう生きる?最終回(2019-01-04)に以下のコメントをくださいましたね。古いブログへのコメントは、わたしは読めますが他の読者の目には触れにくいものです。それで、ここに無断で転記させていただきました。他の読者にも読んで頂きたいと思ったからです。戴いたコメントは以下の通りで間違いありませんね?!
2021/11/22 21:00:58
神父様と禅寺
神父様
神父様の著書「バンカー、そして神父」を少し読み、驚きました。森司教様の著書「心の闇を乗り越えて」には、上智大学のことは書いていないように思います。栄光学園での、イエズス会の神父様方との関わりは少しありますが。また、神父様が安泰寺で修行をされたことを知りました。修練院で神父様が感じられた違和感には、考えさせられました。ここでも神父様の正直さが裏目にでたことも知りました。素直に聖書を読むと、直ということは大変大切であると感じます。どこに書くか悩みましたが、マンモンのことが浮かびましたので、ここに書きます。
コメントを寄せていただいたブログは:
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/7383cd255d7aefa25c149461545e317d
で見られるはずです。
谷口幸紀拝
神父様の配慮に感謝いたします。上記のコメントは、私が書いたものです。今後は気をつけます。
先日、Liturgia Horarum (時課の典礼) の Hebdomada I, III(週 I、週 III)Dominica, ad Laudes matutinas(主日、 朝の賛美に)や Sollemnitas (祝祭日)の主日の朝の Canticum
Dan(ダニエル書) 3, 57-88. 56、の、88 節の後に挿入される
"Benedicamus Patrem et Filium cum Sancto Spiritu; laudemus et superexaltemus eum in saecula. "
を見て驚きました。"cum Sancto Spiritu" とあります。ど素人が古語風におきかえると、
父と子を聖霊とともに言祝(ことほ)ぐべし;代々に神を誉めていと畏(かしこ)く捧げ栄(は)やすべし。「教会の祈り」の訳は
「賛美は父と子と聖霊に、代々に神をほめたたえよう。」。
神父さまの上の記事の三位一体についてのことばは以前から気になっています。
「Der Gott Jesu Christi: Betrachtungen über den Dreieinigen Gott イエス・キリストの神 三位一体の神についての省察 教皇ベネディクト 16 世 ヨゼフ・ラッツィンガー (Benedict XVI) 著 里野泰昭(先生)訳 春秋社 (2011)」に、
里野先生が「解説 三位一体について」を書いておられます。一年程前に、プロテスタント教会とのかかわりから、偶然、正教会のカールトン (C. Carlton) 先生の著書 "The Way" で初めて 「ホモ・ウシオス」 に出会いました。里野先生の解説には「ホモウーシオス」は、「子は父と同一本質」であるということを表す言葉とあります。cf. p. 167.
また、三位一体について、「東方教会と西方教会の間には大きな考え方の違いがあった」、ともあります。cf. p. 172. しかし、カトリック教会の一般の信徒は正教会とは交わりやすいかもしれないと思います。相手の話をよく聴き、相手の立場を尊重することは言うまでもありませんが。正教会の本を読んでも抵抗は感じませんし、理屈が難しくて、頭がいたくなることはあまりないように思います(一般の信徒も対象とした本において)。プロテスタント教会の中にはカトリック教会に排他的な立場の派もあるようですから、わたしの場合は気をつけなければいけないように感じます。
追記:06/11/2021 の上のわたし(新米信徒)のコメントの「葬儀ミサ・・・」は愚かなコメントでした。正教会の「永遠の記憶」に一年程前に出会って、より愚かであったと教えられました。私的な長文をすみません。