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私の「インドの旅」総集編
(9)田川批判-1
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(1)導入
(2)インカルチュレーションのイデオロギー
(3)自然宗教発生のメカニズム
(4)超自然宗教の誕生―「私は在る」と名乗る神
(5)「超自然宗教」の「自然宗教」化
(6)神々の凋落
a)自然宗教の凋落
b) キリスト教の凋落
c) マンモンの神の台頭 天上と地上の三位一体
(7)遠藤批判
(8)悲しき雀
(9)田川批判
(10)超自然宗教の復権
(9)田川批判
私は遠藤周作の長編「沈黙」にも「深い河」にも山ほど物申すべきことがあった。そこへ田川建三氏の遠藤批判に出会って、すっかり意気投合し、胸がスカッとして、快哉の叫びをあげた。
1935年生まれ、4年先輩でご存命中の田川氏には、雑学の私など足元にも及ばない博識と緻密な研究心に敬意を表して、「先生」とお呼びしたいと思う。
田川先生の遠藤周作のイエス像を完膚なきまでにこき下ろした「イエスを描くという行為―歴史記述の課題」には大喝采を送ったが、それは、先生が49歳のときに出版された「宗教とは何か」の第四部に収められていた。
同じ著書には、「第一部」として「宗教を越える」という論文が載っている。
そもそも、「宗教とは何か」は、その「まえがき」の中でも述べられている通り、「批判的に宗教と取り組むための視点を提供する」ために書かれたもの、一言で言えば「宗教批判」の書である。
田川先生は「人間のいとなみの全体が、あるいはそこにはらまれる矛盾、よじれ、断絶、痛みが、宗教と呼ばれるものを時として噴出させるのである」と言われる。宗教は人間が生み出したものであり、裏を返せば、人間のいとなみの全体が、健康的で満ち足りていれば宗教などが出てくるはずがない、と言うことなのだろうか。
この「宗教」の由来説は、「宗教とは神と人との関係」として捕える私の単純明快な思考回路とは全く観点を異にしている。私の宗教は人間の営みの様態などには左右されない。
しかし、田川先生は続ける。「『宗教』は克服されるべきものであるが、『宗教』という現象を克服するために先ず必要なことは、『何故、どのようにして人間が宗教を生み出し、維持してしまうのかを知ることである。』そして、批判的に取り組むということは、そのようにして宗教を知る行為が、宗教を必要としてしまうような人間の状態・現実を克服し、変革しようと努める行為に連なる」のである。
言葉を変えて言えば、宗教批判は宗教が出てくる必要のないような健全な営みを実現することを目標としている、と言うようにも受け止められる。
「宗教とは何か」という設問に正しく答えることが出来れば、人間は「宗教を越える」ことが出来ると田川先生は考えているのだろう。そのことは「宗教とは何か」という一冊の《第一部》が「宗教を越える」と題されていることからも類推できる。
そしてその最初の提題は「人は何のためにいきるか」であるが、先生はそれを「人間は何のために生きるか、などと問うこと自体間違っている、と 答えればよい。」とはぐらかす。
そして、「人間は何のために生きるか」と問う場合も、また設問を変えて「人間は何によって生きるか」と問う場合も、結論的には「人間の生の原因は人間の生であり、人間の生の結果として人間の生が生みだされる。因と果は分けることできない。そしてこの複雑多岐な働き方の総体が人間の歴史である。」と、人を煙に巻いて話は終わらせようとする。しかし、私に言わせれば、そのように言葉を弄しても何も生産的な回答は生まれてこないのだ。
私なら、「人間は何のために生きるか」と問われた場合は「神を愛し、隣人をおのれのごとく愛するために生きる」と即座に答え、「人間は何によって生きるか」と問われれば、「神の創造的愛によって生きている」、と、躊躇なく反射的に答える。このように、私と先生の思考回路は、最初から全くすれ違っているように感じる。
ところで、田川先生には「宗教」のある様態を批判して克服するために用いる一般的論理がある。
―(A)の批判として(B)が提示される。
― しかし、(B)は(A)の中に最初から含まれていたものを、ただ新しい表現に包んで提示したもの(A’)に過ぎない。
― だから(B)=(A’)は元の(A)とくらべて本質的な新味はない。
と言って(B)を(A)に対する批判とした思考を却下して終わる。しかし、先生自身は (B)に代わる自分なりの批判(X)を決して展開することはしない。
田川先生はこうも言う。
「人間は何によって生きるか、などと問うと、ついあわてて、人間の生の根拠なるものを人間の生の外に探すことになる。或いは人間の生の一部を外に投影して、そこから人間の生が生まれて来るかの如くに錯覚したりする」という。しかし、これも、上の(A)と(B)の関係性の応用問題である。
「こういう場合、『根拠』は目的と大差なくなる。『何によって』がいつのまにか『何のために』にすりかえられる。人間の生の外にあるもの、あるいは外にあると錯覚した人間の生のごく一部分の抽象、によって人間の生の全体を取り仕切ろうとすれば、人間の生に対していやらしいゆがみをもたらすことになる。そういうゆがみを我慢できる人がいるとすれば、自分自身の食って寝る現実の生活は自分の思想と切り離してある程度円満に充実して営むことができているからである。」
お言葉を返すようですが、先生が「宗教とは何か」などという悠長な思索に耽っていられるのも、ご自身「食って寝る」ことがかなり余裕をもって確保できているからではないでしょうか。それは、カトリックを売りにして流行作家にのし上がった遠藤周作が、印税で「食って寝る」をしっかり確保して、なお余勢を駆って銀座かどこかのクラブで女性と酒を酌み交わしているのとどう違うでしょうか。
それなのに先生は仰る。
「もしも人間の生とは何か、などとたずねられたら、それは人間の生の全体である、と応える以外にない。それ以外は危険である。以上の点を押さえた上で、なおかつ敢えて鮮明に言い切っておこう。人は何のために生きているか、なんぞとたずねられたら、本当は、そのように尋ねることが間違っている、と答えてすましておけばいいのだが、なかなかそう言ってもわかってもらえないので、敢えて、我々は食って寝るために生きている、と私は言う」と。
また、別のところで「人間にとって『正しさ』の基準は食って寝ることの確保である」とも言われる。このような語り口を私は田川節と呼ぶ。
さらに続く。
「人間が食って寝ることを『たったそれだけのこと』などと呼ぶのは、あきれるべき暴言である。たかが食って寝るだけのこと、などと鼻の先であしらうような奴に出会うと、わたしはぶん殴りたくなる。現在、飢えて死ぬ危険に直接さらされている者は、世界の人口の過半数をしめる。」
まさに「田川節」の真骨頂である、と私はいいたい。
「宗教とは何か」の第一部「宗教を越える」の(二)では「『知』をこえる知」が論じられ、そこに「 ー宗教的感性では知性の退廃を救えないー」と付言されている。
曰く、「知に対して宗教を対置させるのは、実は近代のものの考え方の特徴である。近代以前では、むしろ宗教こそが最高の知を与えるものだと考えられたことが多かった。啓蒙主義が出現するまでは、宗教こそが人間の知の最高形態、最も奥深い知、とみなされていたのだ。」
それはまあ、そうかも知れないな、と、私も一応同意しよう。
だが、「人間の営みの中で宗教がしめている位置がいつも同じということはないので、時代によっては知性を代表し、知の中の知、最高知、とみなされたし、時代によっては宗教が『最も深い感性』を代表するものとみなされる。しかし、宗教がこのように『感性』の側に位置づけられるのは、世界史の大きな流れの中では、近代にのみ見られる特殊な視点なのだ。」
ああ、そう言うものですかね、と、宗教史に弱い私はうなずくしかない。
「キリスト教で言えば、生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教の『知』の権威を克服しようとした。当時のユダヤ教においては、『聖書』(旧約)が知の最高かつ絶対的な形態として固定化されていた。そのように『書物』の文字に固定化された『聖なる知』は、当然のことながら、生きた人間の生活を不当に束縛するものとなる。生まれたばかりのキリスト教は、ユダヤ教を克服しようとしながらも、なおこの『聖書』の権威主義にとらわれていた。だからこそ、自分を『使徒』と呼んだパウロは、その種の『知』に対して、『霊』の自由な働きを強調したのである (2コリント3・6) 。パウロは他方で、ヘレニズム的な地中海世界の文化・宗教の状態に広く接していた。そしてそちらはそちらで、『知』が人間性の根本として宗教的な憧憬をはらんで主張されていた。それに対してもパウロは、『人間の知』を越えるものとして『福音宣教のおろかさ』を持ち出した。(1コリント1・23)」
おやおや、田川先生、あなたは「宗教批判」と「宗教の克服」を論じる時の「宗教」は、仏教、回教、キリスト教などの個々の宗教の個別性を捨象して抽象化した「宗教」のみを扱うと言われたのに、思わずご自分の溢れるほど膨大なキリスト教の知識がここにチビリと漏れ出てしまいましたね。それは、まあ許します。
だが、先生はさらに、「この『霊』は宗教的『感性』ではなく、『神の霊』であり、『おろかさ』は『神の賢さ』なのである。」と続ける。
ここまでくると、先生のキリスト教に関する蘊蓄は、「おチビリ」の抑制を越えて、もうダダ漏れの「お漏らし」の観がありますが・・・!
「本来『神の知』であるはずの『宗教知』が、人間の作った宗教的権威によってだめにされたので、もう一度『神の知』を持ち出して、『人間の知』の限界を越えようとしたのだ。」
この辺りは田川先生の十八番(おはこ)の論理が躍動する: (A)を(B)が克服したという、しかし(B)は(A)を別の言葉で置き換えた(A’)にすぎない。だから(B)は(A)の単なる言い換えで、結局、なにか変わったかのように錯覚するだけのことだ。そして、ここでも先生は(B)説をコケにしておきながら、ご自分の独自の批判(X)は一切語らない。ずるいぞ!
「そもそも、古代の伝統的『宗教知』は、そこに人間性に関するさまざまな真実が内包されているいうものの、同時にさまざまな迷信も含まれ、かつ、それが社会的な権威になればなるほど、体制秩序をゆがんで表現するイデオロギーともなった。」
この点には私も100パーセント同意できそうだ。自然科学や社会科学の進歩は宗教を迷信から浄化し迷信を駆逐する力を持っており、是非そうあってほしいと私も願う。
「近代になって、知の領域においては、宗教はとても近代科学にたちうちできなくなった。知に関しては、近代科学がそれまで宗教のしめていた位置にとって代わった。」
それは当然の成り行きだと私も言いたい。事実、私自身も「自然宗教」一般について語ったとき、全く同じ主張を展開した記憶がある。
「はじめのうちこそ(18世紀から1960年ごろまで)、最高知の王座を追われた宗教はぐんぐんと衰退していくように見えたが、うまい逃げ場にはいりこんで、逆に今ではかえって活気づいている。」
えっ?そうなんですか?一体それはどういう意味でしょう?
「近代合理主義の『知』は。その対立物としての『宗教』をかえって必要としたのである。」
へえー!なるほど、そう言うことですかね。
「ニュートンだのアインシュタインだの、やや落ちるが湯川秀樹だのと言う『優秀な』自然科学者が、実に安っぽく愚劣に宗教を崇拝し、宗教を持ち上げる発言を繰り返した理由はそこにある。」
確かにそういう面はありますよね。なるほど。
「近代的合理主義の方は、『人間性の深み』という虚妄な部分、本当は存在しない虚妄な部分に手をふれなければ全てが許されるので、じっさいには、人間の現実生活のすべての領域において権威をふるい、今もふるい続けている。他方宗教の方は、虚妄の領域において『知性』を批判、克服する『作業』に安住することによって、現実の領域での『合理主義』の横暴を追認する役割を果たしている。」
皆さん、田川先生の言いたいこと分かりますか?もし、分かりづらかった、もう一度よーく読み返してください。先生は大切なことを言っていますよ!
「けれども人間性の深みは、それだけを取り出して見ることなどできはしないのだ。(中略)『人間性の深み』が虚妄になるのは、それを特別に担当する部門として宗教が立ち現れる時である。『人間性の深み』を特別に担当する部門がつくられれば、『深み』が人間性から切り離されて、虚妄になる。」
お分かりかな?難しければ、読み飛ばしていただいて結構です。
ここから話は(三)「近代の克服としての宗教」批判 ―宗教学という逆立ち― へと進む
「(宗教学は)これも啓蒙主義の申し子として生まれた学問ですけれど、これそのものが一つのイデオロギーです。」
私も全く同感です。
「まさに近代科学が行き着くところまで行き着いた現代こそ、近代科学ではつかみきれない、もっと奥深い宗教によって人間の心底に至ろうではないか、という形でもう一度宗教の復興が叫ばれる、というのが『近代の克服としての宗教』と言うことです。」
実にうまいこと言われますね。田川先生。
「宗教が近代を克服するものとしてしゃしゃり出てくるのは、目くそが鼻くそを笑う類いでございまして、近代宗教は実は近代合理主義と根は同じ仲間のくせに、相手の悪口を言っているという構図になるわけです。」
ますます面白くなってきました。
「いわゆる宗教学というものは決してすべての宗教をていねいに研究するものでもなければ、個々の宗教を、例えばキリスト教ならキリスト教、仏教なら仏教といった個々の宗教を、丁寧に研究ものではございません。宗教学は、特にキリスト教とか仏教の研究を意識して避けて通っている学問だ、と言うことをお知りいただいてもいいんじゃないかと思います。」
だから言ったでしょう?田川先生の「宗教学」とはまさにそういうものなのです。そして、私はひと言付け加えたい。田川先生、貴方もそのイデオロギーの信奉者ですよね、と。
「結局、その中で今日まで生き残っている考え方は何かといいますと、すべての人間に何か宗教的なものがあるんだと、これが、キリスト教社会では、キリスト教という形で表現され、仏教社会では仏教という形で表現され、それぞれのところでいわゆる歴史的宗教として表現されるんだけど、それは歴史社会それぞれに従って表現されているにすぎないのであって、一番根本には『宗教』そのものがあるんだという考え方です。つまり『宗教』の普遍的な本質を抽象するのに、それを何かはっきりしたものとして示さないで、何となく曖昧に『宗教的なもの』としておくわけです。それは、まさに近代科学の発想そのものなのです。」
先生、これこそ「イデオロギー」の一種ですよね?!
「すべての人間に共通する宗教そのものなるものがあるのだという発想は、啓蒙主義から出てきているという点に、ご注目頂きたいと思います。(中略)ある意味でキリスト教を克服して、近代科学を打ち立てようとした、そこにあるイデオロギーの動きが啓蒙主義だったわけです。ですから啓蒙主義の段階におきましては、これはキリスト教に対する反発として言われていたわけです。」
ちょっとだけ皮肉をいわせえてください。もしすべての人間に共通する宗教そのもの」があるのなら、現代社会でかくも大勢の人が無神論者、乃至は無宗教者である事実をどう説明されますか?ひょっとして、先生もキリスト教に反発して、キリスト教を越えたいとお考えなのでしょうか?
しかし、私は言わせていただきたい。すべての宗教をそのイデオロギーの対象として処理されるのは結構です。ただし、どうかキリスト教だけは除いていただきたい。なぜなら、キリスト教の「宗教」は啓蒙主義とは無関係に上から来るもので、キリスト教の宗教的な真理に限っては、人間がみずからつくり出したわけではなく、上から、つまり、「わたしはある」というご自分の名前を名乗られた天地万物(宇宙)を無から存在界に呼び出し、今も呼び出し続けている神から「啓示」として与えられたものだからです。その啓示は一回的な出来事として、「イエス・キリスト」において決定的に示され完成されたのであって、つまり神の側からの選びによって生じた出来事だからです。それは自然の一部にすぎない人間が自分の知恵で考え付くことのできる事柄ではないはずです。
実は、先生ご自身も、これとそっくりなことを考えておられますよね?私は知っていますよ。
しかし、そのあとが違います。田川先生は、「ところが、世界のあらゆるところでいろいろな宗教を知ってしまうと、別にキリスト教に全然触れたことない他の諸民族においても似たような宗教的発想は多く創り出されているではないか、と言うことに気がつく」と言われます。
ちょっと待った!そんなことが簡単に言えるでしょうか。先生は遠藤周作を批判する時、遠藤は聖書を引き合いに出しておきながら、肝心なところで全く真逆の解釈を平然と持ち込む。しかも学問的な外見のもとに!と痛切に批判されたのではなかったでしょうか?今先生ご自身がなさろうとしていることは、それとどこがちがいますか?
ここで田川先生は、世界のあらゆるところでいろいろな宗教、例えば、ゾロアスター教、ヒンヅー教、イスラム教、神道、などの諸宗教を知ってしまうと、キリスト教と似たような発想が作り出されていることに気付いた、というようなメチャクチャな結論にご自身も達した、と強弁されるおつもりですか?
私なら、これらの諸宗教を正確に観察しさえすれば、だれでも誤ることなく、キリスト教だけは上からの宗教、啓示宗教、つまり「超自然宗教」であるのに対し、他の宗教はまがいもなく全て「自然宗教」である、という決定的な違いに簡単に気付くはずではないかと考えます。
私は前のブログでホイヴェルス師の「悲しき雀」の話を書きました。
僅か5ミリ立方にも満たない脳みその雀でさえ、実像と虚像の区別をたやすく見分けたのに、生物の中で最大の脳みそを備えた人間の学者が「ザイン」(Sein=実在)としての神と、「シャイン」(Shein=虚像)としての神との厳然たる区別をどうして見分けることができないのか不思議でなりません。
この明白な事実に敢えて目を覆い、白を黒と言いくるめるような大嘘を無理やりに取り込まなければ、啓蒙主義も、それを批判的に克服した近代宗教学も、現代宗教学も成り立たないのでしょうか?
啓蒙主義は、キリスト教を否定し克服するための科学的イデオロギーであって、「この段階の宗教論は宗教を『上』から引きずり下ろすことにのみ懸命で、その結果逆に、人間性を抽象性の高みへと追い上げてしまったのです。」「これがつまり近代科学の発想です。」と田川先生は言われる。
しかし、宇宙を無から創造した「わたしはある」の超越神をひきずりおろして、無理矢理に自然宗教の神、つまり人間の想像力が自然に投影した神と同列に置くことによってしか近代科学的宗教学が成立しないとすれば、それはキリスト教を否定し、乃至は拒絶するイデオロギー以外の何ものでもありません。私にはそのような歪んだ、誤った、イデオロギーと付き合っている暇はない、と言いたいです。
啓蒙主義は自然宗教の概念を復権して、「要するに、まず宗教と言う基礎がなければならない。(中略)どんな啓示宗教であろうとも、何らかの形で自然宗教の岩の上に建っていると言える」と言うのでしょう。
百歩ゆずって、「超自然神」が初めてアブラハムに語りかける以前は、アブラハムも確かに自然宗教を信じていたでしょう。たとえば、独り子のイザークを生贄として殺して、祭壇の上で焼き尽くせと神に要求されれば、アブラハムは苦しみながらも自然宗教的なメンタリティーでそれに従おうとしました。しかし、天使に制止され、思いとどまって以来、彼はその意味での自然宗教性から解放されていったのでした。また、4世紀初め、コンスタンチン大帝がキリスト教をローマ帝国の国教として取り立てたときを境に、自然宗教を拝んでいた民衆が自然宗教のメンタリティーのまま圧倒的な勢いでキリスト教になだれ込み、それがキリスト教徒の主たる部分として定着して今日に至っていますから、現代のキリスト教の中に自然宗教的要素を探せば有り余るほど見つかるのは当たり前です。だから、宗教学がその面にのみ着目してキリスト教も自然宗教の一つと見做したければ、出来ないことではありません。しかし、それはキリスト教の本質的部分を捨象することなしにはできないはずです。
話はミルチャ・エリアデに飛ぶ。
ルーマニア人の宗教学者だが、田川先生によれば怪しからんいい加減な学者だそうです。私も若いころ注目したことがありますが、よく覚えていません。
「エリアデは、宗教的象徴がそのまま実在であり、実在の根拠であると勘違いしているのです。」「近代の克服としての宗教という手品は、こうして、まさにずぶずぶの近代主義の表現なのです。実際は現状に居直りつつ心情だけは異質を求める現代の小市民が、理論的にはまったくの近代主義でしかない発想に頼りつつ、近代を克服すると言って騒いでいるにすぎません。こういう手品は成功するはずもありません。」「学問的作業のおそろしさはそこにあります。出発点におかれた理論はもうまったく単純な、およそ無反省なままのずぶずぶのイデオロギーにすぎないのに、非常に大量に、しかも世界的な規模での多人数の学者集団の知的エネルギーが注ぎ込まれていますから、それがずぶずぶの無反省だということには気がつきにくいのです。」
この「ずぶずぶの近代主義・・・」とか、「ずぶずぶのイデオロギー・・・」とか、「ずぶずぶの無反省・・・」とかは、私が愛してやまない「田川節」のまさに真骨頂です。この「田川ぶし」を私は先生の遠藤周作批判の中でもすでに何回か聞きました。それが今回は豪華3連発。私はもう大満足で今回のブログを終わりたいと思います。
ただ、最後にもう一節だけ引用させてください。
「以上、宗教的な『非合理性』をかつぎだして、これこそが近代科学のもたらした退廃状況を克服するものだ、とする立場は、実は近代科学の発想の申し子にすぎない、とい言うことがおわかりいただけたと思います。ただし、最近目立つ現象は、宗教学のことなど全然知らない人も、宗教について何となく同じような考えを持つようになってきております。これは、現代世界の状況が、宗教学を知らなくても、何となく同じことを考えるようになる、と言うことだと思います。イデオロギーとはそういうものです。ブルジョワ的な学問である宗教学と同じ発想が、いまや宗教的庶民層に広くひろがった、ということです。我々に関心があるのは、こういう宗教的庶民層の状況にどのように切り込めるかということです。」
田川先生の宗教批判はここでひとまず置きますが、鋭い指摘を含む上のパラグラフは次回でいささか重い問題になるでしょう。
私は、田川先生の鋭い指摘をお借りして遠藤周作をメッタ切りにしましたが、実は、その返す刀で田川批判に切り込もうと企んでいたのです。しかし、結果的には先生の啓蒙主義に基礎を置く宗教理解というイデオロギーを拝聴するだけこんなに長くなってしまいました。
しかし、「宗教とは何か」という一冊を著した田川先生は、結局、最後まで「宗教とはこれだ」というご自分の結論(X)を出すことから逃げたまま終わっている。
本当の「田川批判」はこれからです。
2022 年の 1 月 11 日頃に、このコメントにM 氏が書かれたことを読み直しました。というのは、昨日の寝る前に、「宗教とは何か 田川健三(先生)大和書房(1985 年新装版)」の第三部、の、山上の説教によせて、の「一 貧しい者は幸い」を少し読んで驚かされたからです。
上記のコメントを通した、わたしとM 氏との対話はずれていたと思います。上記の本の p. 112 に、「山上の説教の神学的な註解者達は、この言葉を註解するのに、貧困というものの実態から出発して考えようとはしてこなかった。・・・しかし、貧困の何たるかを知っている者は、まず、これは嘘だ、という認識からはじめざるをえない。・・・」
そして、p. 120 の後半から田川先生の言葉遣いは激しくなっていきます。長くなりますので、その最後の箇所のみを引用します。「ー金持ちが幸福なのだ、という事実に抗おうとすれば、貧困が決して幸福の原因ではなく、苦痛の原因だということをあくまで知りつつ、なお叫び出さなければならない、『貧しい者、幸い』と。幸いだ、というのか、幸いにならなければいかんというのか、幸いになるだろう、というのか、そんなこといちいち説明していられるか。全部真理だ。そして全部嘘だ。全部嘘でも言ってやる、「貧しい者、幸い。』」cf. pp. 120-121.
「この地」の「現象」のみをみると、田川先生の仰ることのようになると思います。押田成人神父様は、「現代文明は、まさに、善の追求、人間の幸福、幸せを追求する、という目標で魔の手に捕らえれた、ということですね。だから全くちがっちゃった。幻想になってしまった。」、と仰っています。cf. YouTube に upload されている、「押田成人神父『ヨハネ福音書による黙想講話(1971年6月)』テキスト+NHK「見えないものを見る」(1982年6月)の「見えないものを」の音声の部分の最後のことば。
おろかでばかなものの感想ですが、自分の中にある「罪深いもの」をしっかり受け止めて、神様に帰依する、ということがないかぎり、「神の国」がどうだ、こうだ、といくら言っても壁に突き当たるように感じます。三菱電機が武器の開発そして輸出に手を染めてしまったようです。人が今ももつ「罪」をみつめて、それでも「愛の掟」に懸命に生きていくことがなければどうしようもないように思います。
返信をありがとうございます。
イエズスとイエスの訳の違いにこだわりはありません。御顔という言葉がついているかどうかが気になり、質問をいたしました。いただいた返信からお気持ちを知ることができました。ありがとうございます。
「聖書と歎異抄」五木寛之・本田哲郎(神父様)、東京書籍 (平成 29 年)に次のことがあります。本田神父様は、初めは、上から目線で路上生活者へどのように福音を伝えようかと考えておられたそうですが、あるとき、ある一人の路上生活者に毛布を渡したときに、相手が笑顔で「ありがとよ」と言って受け取ってくれ、「解放」されたように感じたそうです。ただ素直に文を読むと、あとから振り返って、そのことに気がつかれたようです。本田神父様が強調しておられることは、「視座を移す(メタノイア)」ことの大切さです。
関わりの中で、ことに出会わないといけないようです。谷口神父様の新しい記事にもそのことがあり、頭だけになってはいけないと反省させられました。
また一つ見つけました。きっと、あちこちで出てくるのでしょう。
曽野綾子は、外国の貧困者には優しくても日本の貧困者には優しくないので好きではないけど、たまたま読んでいたら、こんな事を書いていました。
『朝はアフリカの歓び』 文春文庫140頁
→ある修道院に食事に招かれたら、空席が1人分作ってあった。それは神の席であり、神に代わってやってくる見知らぬ客人や食事にありつけない貧しい人の席‥
キリスト教の思想で(?)、神はどこにいるかというと、「今あなたたちの目の前にいる人の中にいる」‥
神は、しばしば貧しくて、他人に軽蔑されるような人の姿をして私たちの家の戸を叩く。
私はこれが、神の来臨と思うけど、違うのかなぁ?
それとも、ファンファーレと共に、バーンと華々しく登場するのを、「来臨」ていうのかなぁ?
そんな風には思いたくないけど。
返信をありがとうございます。
以前に、礼拝に与っていたプロテスタント教会の週報を見直して、礼拝では、
使徒信条を唱えて、主の祈り
を唱え、その主の祈りの最後は、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。」であること、礼拝の最後に、アーメン三唱をうたっていたことを思い出しました。わかりやすいように感じます。
むしろ、カトリック教会の祈願の結びでの、「主キリストは(または あなたは)、生きて、治めておられます、世々とこしえに。」と元のラテン語の結びとの関係がわかりにくいように感じます。
神父様の言葉が参考になりました。ありがとうございます。
有難うございます。一つは、私のつまらないコダワリです。申し訳ございません。
「教会への私の希望」 ベルンハルト・へーリンク著の53頁に、「クリスマスイブにイエス様が‥」とあります。
「イエス」は、プロテスタントが使っていた言葉で、カトリックがプロテスタントと和解する一環として使い出したように聞いています。どちらにせよ日本語でどう呼ぶかという話なので拘らなくてもいいようなものですが、宗教は文化の一つと思っていますので、仲良くするために自分の文化をいきなり変えるなんて!と、私はイヤです。
皆で祈るときに一人だけ「イエズス」と言うと耳障りか知れませんが、ブログのコメントなので私信モードで、つい変えてしまいました。
>それからカトリック教会の信者は、主の復活から神の国が始まっていて、主がいつの日か来臨して、神の国が完成することを待ち望んでいるのではないかと思います。
ミサに「主の来臨を待ち望み‥」とある気がします。
だけど私は、主はホームレスやいろんな形で、もう来臨してると思います。
来臨した主に従って、皆が神の国の完成に力を合わせるってことじゃないかと思ってます。
カトリックでも人によって考えが違うとは思いますが。
ちちみこみたま
の三位にまします唯一の神を信じます、
としか言いようがないですね。
谷口
上でいくつか書きこんだ者です。神父様との間に入ってすみません。お許しください。
へーリンク神父(様)の著書には「イエスの御顔を」ではなくて「イエズスを」とあるのでしょうか?
それからカトリック教会の信者は、主の復活から神の国が始まっていて、主がいつの日か来臨して、神の国が完成することを待ち望んでいるのではないかと思います。
仰っていることは何となくわかるような気もします。私は昔プロテスタント教会の礼拝に与っていた時があり、派によるかもしれませんが、そこでは、信者の方々はイエス様をただ一点に見つめているように、私は感じました。
私は、まだよくわかっていないので、神父様の意見をぜひお聴きしたいと思います。
間に入ってすみません。
十字架より前のイエズスは、無力で情けないイエズスだけど、寄り添ってくれた遠藤周作のイエズス像
←カトリック、プロテスタント問わず、そうだ、それが好きという方多し。
←田川建三は、聖書にそんな記述はないとして否定。
十字架後のイエズス
←カトリックは、道端で寝転がっているホームレスにイエズスを見いだしたりする。
へーリンク神父の著書にもあったと思います。
←プロテスタントは‥意地悪な言い方すると、復活後は神の本性を現して、スーパーパワーでもって、自分を助け、癒やしてくれる存在でないと困る。 昔は自分と同じ悪ガキだったけど、今は出世頭で時には自分を援助してくれる親戚や友人みたいな。
復活後のイエズスが、自分を助けてくれそうもないホームレスでは困る。
←田川建三は、イエズスが神であること自体を否定しているように思うが、敢えて言えば、カトリックの復活後のイエズス観に親和性があるのでは? 著書からはそんな気がするのですけど。
返信をありがとうございます。
田川氏の聖書の翻訳のことを知りましたが、素人は近づけべきではないので、神父様の次の記事を待ちます。
私自身、田川先生に出会ったばっかりで、まだ多くをしりません。
多くのコメントに考えさせられました。名誉教皇様のことばで、次のようなことを知りました。アシジの聖フランシスコの信仰と行いのありかたは当時としては画期的で、それがためかどうかはわかりませんが、修道会が分裂の危機にいたったようです。また、聖ボナベトゥーラがとった行いは、それまでの教父の教えに盲目的に従うことを選ばなかったようです。今の教会のことにもつながらないでしょうか?
それから、神への畏れを欠いた理念は、結局マンモンの神に操られてしまわないでしょうか? 田川氏の考えはそのことに対してはどのようになっているのでしょうか。
私の座禅の師匠の澤木興道老師は言いました。
真の禅の道は、研ぎ澄まされた刃(やいば)の上を踏み行くがごとし。左に一ミリ逸れても千尋の谷底、右に一ミリ逸れても千尋の谷底、ともに野狐禅の闇に転落するが如し。
しかし、真剣の刃の上を歩けばはだしの足の裏がざっくり切れて血まみれになる(私のボヤキ)、ああ、一体どうすればいいのだ・・・ということになる。
それでもいい、一ミリも逸れないで行く道を追求するしかないのです。社会派にもヌメリ派にも罠もあれば見失ってはいけない真実もある。その二つの真実は、二律背反では決してない。問題はそのあたりですね。
keiさんのコメントを読んで、なるほどと思いました。
サマリア人になるのは大変です。
>仕事中であったり、電話を受けたひとが体調不良であったり、もともと病弱であるなど物理的に対応できないときは仕方ないのです。
このような人たちが、そのお友だちにいつでも対応していたら、自身の食って寝るに支障を来すかも知れない。
keiさんも、もしかしたら生計を立てることには関わらないとしても、そのお友だちの対応に時間やエネルギーをたくさんつかったら、日常生活に差し支えるかも知れませんね。
田川建三の食って寝るとは、そういう事を指していると私は思います。
人はそれぞれ食って寝るのに多少とも手一杯でしょう。
他人を助けるとは、すなわち自分の食って寝るを多少なりとも犠牲にするのに他ならない。
どうしたらいいんでしょう?
改めて、田川建三の食って寝るについて、考えさせていただきました。
社会派は‥教会のバザーに積極的に関わる程度から解放の神学まで幅があると思いますが‥活動に加わらない人を裁いたり見下したり(理解の足りない人だと、善意で哀れんだり)する傾向があると思います。
もう一つは解放の神学に顕著だと思いますが、よく分かってる人が偉いとして、順位をつけて下位にマウントしがちだと感じます。
ヌメリ派は、教会に近づくほど神から遠ざかるという言葉で揶揄される通り、教会のしきたりや特有の用語等が教えだと思い込む傾向があるように感じます。
教会に新しく出入りしだした人が、シスターの被る頭巾の名称を知らなかったら、すぐ覚えるから大丈夫よと言ったシスターがいました‥そんなものを覚える必要もないし、信仰とは何の関係もないと思いますが。
まぁどちらにも共通するのは独善ですね。私は私で目の前の蝿を追わなければいけないし、そのためにはどちらの派もお手本にならず、付き合うのはくたびれ儲けです。
今は専ら、どこをどんな風に間違えるとあんな風になるのかと、考えを巡らしています。
私も誰からも着信拒否にあって、孤立し、打ちのめされている3-4人の人々からの電話(回数、頻度には個人差がありますか・・・、そしてそのうちの一人は最近まだ若いのに乳癌で亡くなりましたが・・・)を大分以前から受け続けています。
時には「おい、おい、もういいかげんにしてくれよ!」と叫びたくなることもありますが、幸い神様のお恵みか、私自身がノイローゼになったり、欝になったりすることなくいままで来ています。
遠藤批判と田川批判は、たまたま私が25歳のときに訪れたインドの体験記を連載した雑誌を図書館の倉庫の中から拾い出し、それを復刻してブログに書いているうちに嵌ってしまった落とし穴で、あと2-3編で終わる予定です。
その後は、また日常の話題を拾って平常のブログ発信に戻りたいと思っています。
Kei さんにお話ししたいことがまだありますが、ブログのコメント欄に公開するべき内容ではありません。もしよろしかったらお名前はKeiさんのままでいいですから、私が私信を贈れるメールアドレスを教えてください。非公開の約束のもとに私のコメント欄に送ってください。私は受けたコメントは選別的に公開しています。以前には自動的に全部公開される設定にしてましたが、あるとき酷いコメントが立て続いて、やむなく私が承認したコメントだけ公開する方向に切り替えました。あなたからメールアドレスをいただいても公開しません。ただあなたにここに書かなかった内容を個人的にお送りするためだけに使わせていただきます。お願いします。
彼はカトリック信徒で本の虫。とりわけ宗教史や神学・聖書学の本を読むことをなによりの喜びとしておりました。司祭や牧師や信仰深き信徒さんたちとの交流も多く、私から見れば羨むような生活をしていました。
しかし、病を得てからの彼は信仰者らしからぬ言動に終始するようになりました。携帯に登録してある信仰者たちに毎日電話を掛けまくり、辛い、苦しい、怖い、助けて・・・。悲痛な叫びをあげ続けました。忙しいさなか、昼夜を問わず電話が掛かってくる。複数の司祭や牧師や信徒たちは疎ましくなって着信拒否をしてしまいました。医療にも見放された彼の唯一のよりどころはイエスであり教会であり信仰しかなかったのに着信拒否。彼にとっては信じがたい仕打ちになりました。
善きサマリア人のたとえを話されたイエスさまは、あなたもそのとおりにしなさい、と仰いました。このたとえはパウロの信仰義認やヤコブの主張などもからめ、さまざまな解釈がなされています。が、理屈のまえにまずは素直にそのまま受け取るべきでしょう。しかし、イエスさまは(老人や障害者や子どもを含め)私たち全員にそうしなさいと仰ったわけではないことも理解しておかなければなりません。ですから、私は着信拒否をしてしまったすべてのひとたちを同じ指標で責めることはできません。仕事中であったり、電話を受けたひとが体調不良であったり、もともと病弱であるなど物理的に対応できないときは仕方ないのです。聖書の箇所は、言われたひとが名誉や地位やそれなりの資産があって、時間も充分にある。なにより、食って寝るのにことかかない律法学者だったことを考慮しなければなりません。
それでも、その食って寝ることさえ自力ではままならない彼の嘆きに誰も対応できない現状には絶望さえ覚えます。遠藤さんのイエスは癒やしができず、ただ病むひとのそばにいて汗を拭いてくれる程度。そのイエスを、そう書いた遠藤さんを負け犬呼ばわりすることは簡単ですが、だったら彼の難病をあなたの信仰で癒やしてみなさいと問い詰められたとき、たとえば田川さんなどはどうお答えになるのでしょう。いや、私が言ってるのは二千年前の真実であって、今のことではないんだ。でしょうか。信仰を持っていれば必ず癒やされる、でしょうか。それとも、法然が語ったように、どんなに信仰しても人間だから病むときは病む。死ぬときは死ぬ。大切なことは、そうなったときの心の持ちようなのだ。でしょうか。
彼が望んでいるのは、どんな答えであれ、まずはきちんと対応してくれるそのこころ、姿勢ではないかと思うのです。
私は、彼ほど酷くはありませんが、先天的なDNA異常によって医学では対処療法しかない病を得ております。そんなこともあり、また、私がカトリック信徒であることも手伝って、彼は集中的に私に電話を掛けてくるようになりました。
もう誰も相手にしてくれない。そう話し始める彼の電話はいつも同じ内容です。怖い、苦しい、辛い、助けて。どうして私はこんな辛い目に遭う。イエスはなぜ私を癒やしてくれない! まさに現代版ヨブ記です。私はなにもしてあげることができません。気の利いた話しもできません。ただ黙って聞き、相づちをうち、電話の最後に祈るだけ。それだけです。
遠藤さんを口汚くののしるひとに限って瀕死の旅人を横目で見ながら通り過ぎる祭司やレビ人です。机上で仕事をする人間は、自分も含め、額に汗して働く人たちの寄生虫である。そう言ったのはシモーヌ・ヴェイユでした。神学者や聖書学者こそ寄生虫のさいたるひとたち。そう断言するのは言い過ぎでしょうか。
遠藤さんの「イエスの生涯」や「キリストの誕生」は、信仰的に見れば確かに鼻で笑うしかない作品です。「沈黙」にしても、私たちキリスト者の気づきや励ましになるような部分は一切ありません。かと言って、歴史的に的を外しているかと言えば、そうとも言い切れません。遠藤さんの「沈黙」に触発されて、潜伏キリシタンのことを学んでみたいとおもいたったひとは少なくないはずです。
遠藤さんは宗教者ではありません。あくまでもエンターティナーです。小説家は講釈師です。講釈師見てきたように嘘を言う。小説家は見てきたように嘘を書く。それが商売なのです。読者は馬鹿ではありません。そんなことは解っています。
遠藤さんのせいで「多くの日本人がイエスという人物について思い描くイメージを大きく規定してきてしまった」事実などはない、と私は思っていますし、「作家の書きなぐる無責任な著述が人々の『知識』の内容を形作ってしまう」とは読者を馬鹿にしすぎでしょう。
「イエスという歴史の現実に生きた人間のイメージを、うまく創作の世界に引きずり込むことは難しい」とは私も思います。「だからと言って、学問的な歴史記述は遠藤程度のメチャクチャな知識(もしくは知識の欠如)でなめてかかって手を出してよいものではない。その結果出てきた作品は、歴史記述のスタイルをとりながら、とても歴史記述とは言えず、かと言って初めから小説ではない、何の意味もないものとなった」。私はそうは思いません。
小説とはそんなものなのです。
私小説といっても一字一句真実であるわけではない、と仰っていたのは作家の藤枝静男さんだったように記憶しています。もしかしたら、福島次郎さんと話し込んだときに聞いたお言葉だったでしょうか(詳細は失念しました)。史実、ノンフィクション、私小説。そう謳ってあっても、それがまるまる真実とは限らない、ということは読者も解っています。
講釈師である遠藤さんを、額に青筋を立ててヒステリックに批判する神父や牧師や神学者や聖書学者は、そんな不毛な時間を弄する暇があるのなら、エセキリスト教に引き込んでひとびとを犯罪者に仕立て上げ、ときには他者の命さえ奪ってしまうエホバの証人、統一教会、モルモン教などのカルトを批判すべきではないですか? 遠藤周作にはまり込んでひとの命を奪ってしまったというひとたちに私は出会ったことがありません。聴いたことも見たこともありません。せいぜい、自らの弱さを克服しようとしない怠け者の数がほんの少しだけ増えただけでしょう。
その遠藤さんも、「深い河」に至っては、もうみる影もないただの老人になってしまわれました。支離滅裂。なにを言いたいのか、全く伝わってきません。作品にはエンターテイメントとしての輝きは微塵も無く、エンタテイナーとしての面目躍如をはかりたかったであろう遠藤さんのもくろみは見事に失敗しました。谷口神父さまの落胆はきっとそんなところにあるのではないでしょうか。
遠藤周作は嫌いだ、と言いながら、気持ちのどこかに遠藤さんを認め応援しておられる神父さまを感じます。そして、どうかまっとうな信仰者になって欲しいと祈り願いながら、それが叶わなかった悲しみが神父さまに遠藤批判を展開する契機を与えてしまったのでしょう。
「人間は何のために生きるか」と問われた場合は「神を愛し、隣人をおのれのごとく愛するために生きる」と即座に答え、「人間は何によって生きるか」と問われれば、「神の創造的愛によって生きている」、と、躊躇なく反射的に答える。
こんなふうにまっすぐなお気持ちをお聞かせくださる谷口神父さまに、私は揺るぎない信頼を寄せています。なにとぞお元気でご活躍くださいませ。難病を得てまともに動けない私や友人のぶんまで。
祈っております。
「社会派」の良くないところについては、次の田川建三の批判で説明があるのでしょうか?
社会派、ヌメリ派のバランスとなると、操作的にどちらかに分類できませんね。
やはりカテゴリーでなく、ディメンジョンがいいのでしょうか。
「社会派」って、社会の福音化を目指す人たちだったのですね。それじゃ私は社会派かもと思います。
更に面白いのは、「社会派」と「ヌメリ派」とで、聖書の解釈も違うのですね。
(‥あ、神父さまは「社会派」でないとすれば、「ヌメリ派」ですか? その2つ以外ですか? そして、その2つ以外はどのように分類されるのでしょう?)
「一人の女がイエスに近づき、きわめて高価なナルドの香油をイエスの頭に注いだ」話をどう解釈するか、「社会派」かどうかで違うでしょうね。
今回のブログは、とても発見が多かったです。
1980年代のカトリック教会の中では「社会の福音化」を掲げる「社会派」と、「福音宣教」を掲げる「ヌメリ派」(numeriはラテン語で《数》を表す=つまり、宣教をして信徒の「数」を増やすことを優先的に考える)=「宣教派」との間で路線争いがあり、「社会派」が勝って支配的潮流になりました。その結果、路線争いに敗れた「宣教派」は司教協議会のレベルでは消え去りました。
イエスが「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言ったとき、イエスは「社会派」の弟子たちを退け、自分は「福音宣教活動」を優先することを望むと言われたのではないでしょうか。
私は、イエスが「世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。」と言われた時そう言いたかったのではないかと思います。
田川が「食って寝る」を正当化するために、「現在、飢えて死ぬ危険に直接さらされている者は、世界の人口の過半数をしめている。世界中の過半数は今も飢えている」というとき、そう言いたかったのだと思いまう。これは、教会の中の「社会派」のイデオロギーです。
イエスキリストは、この世を去る時、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」と言い、「全世界にって福音を宣べ伝えよ」と言ったが、全世愛世界に言って「食って寝る」の問題解決のために邁進せよ、とは言わなかった。
イエスの弟子たちも、Mさんも、田川も「社会派」のイデオロギーの信奉者ですね。
遠藤周作や田川建三は「食って寝る」ことが出来たでしょうが、イエズスの生きていた頃から現代まで、「食って寝る」ことの難しい方も大勢いますね。
イエズスは、
「自分だけのために隠してパンを持ってきていた利己主義者たちの心を柔らかくして、皆に気前よく分け与えさせることを、人間の自由意思を蹂躙せずに実現させるという、ほとんど不可能なことを可能にした大奇跡」
によって、集まっていた皆が「食って寝」られるようにして見せました。
イエズスの後に続こうと、教会は皆が「食って寝る」ことが出来るように努力「も」、してきたと思います。
乏しい知識から最近の例をあげます。
・1986年に、アメリカのカトリック司教協議会は「万人に経済正義を」というメッセージを公表しました。
・1970年頃から、日本のカトリック教会では「共助組合」を組織して、経済的に困窮した方々の「食って寝る」ことを支援する試みをしました。
・カトリック東京国際センターは、経済的に困窮する在日外国人に食糧を支援しています。
田川建三が、「食って寝る」ことに宗教の存在意義があると言っているのはこういう事だと、私は理解しています。
しかし、それと、多くの人が「食って寝る」をいともたやすく確保できている、例えば遠藤周作自身、そして田川自身も出来ている、と言うこととどう絡んでくるのか、説明して頂かないと、頭の悪い私にはよくわかりません。
先に、ホイヴェルス神父様のことばを記憶にたよって書きましたが、ここに正確に引用します。すみませんでした。
土居健朗・森田 明・編
「ホイヴェルス神父ー信仰と思想」聖母文庫 (2003)
第二部 ホイヴェルス神父のことば <会話から>
60 「愛はすべてを越える。信仰と希望は救いが実現すれば消えるが、愛だけはのこる。愛ゆえの妥協は妥協ではない。世の中のものはそれほど大切ではない。大切なの心だけ。」
大切な後半のことばを忘れていました。田川氏の言葉ともつながっていると思います。
返信をありがとうございます。もう一度考えました。「人は何のためにいきるか」も大変大切なことだと思いますが、「わたしはこの地でどう生きるか」も大変大切なことだと思います。わたしたちではなくて、わたしです。田川氏の言葉を見ると、「愛」という、人が決して完全に説明することができない X から逃げているのではないでしょうか?
ホイヴェルス神父様は、救われた後も愛だけは残ると言われた
ことを本で知りました。信と望は救われると、満たされるけれど、愛は残るという意味だったと思います。神の国でのことです。
その「大奇跡」が、田川建三のいう「食って寝ること」ではないのですかと申し上げたいのです。
5つのパンを物理的に増やして5000人の男たちに食べさるのはいともたやすい奇跡です。ただ、物理法則の立法者である神が、自分の定めた法にちょっと例外を設ければいいだけのことです。
しかし聖書の話は、自分だけのために隠してパンを持ってきていた利己主義者たちの心を柔らかくして、皆に気前よく分け与えさせることを、人間の自由意思を蹂躙せずに実現させるという、ほとんど不可能なことを可能にした大奇跡のはなしです。
地上にどんなに人口爆発が起きても、過去にわたって、全ての人が食べて余るほどの食料を神様は常に用意されていました。これからの必ずそうさいます。それなのに、いつも人類の半数以上が飢えに苦しみ、少なくない数の人が餓死しました。今後も必ずそうなるでしょう。
人間の力で、政治や経済、流通システムの最効率をいくら追求しても、この問題は未来永劫変わらないでしょう。持てる者の際限のない所有欲の罪のためには、人間の自由意思を神が制限しない限りそれは不可能です。そして、神は人間の自由を蹂躙することをなさいません。
それに引き換え、田川の表現は本当にひどいものですよね。「食って寝る」と簡単に言いますが、食うと言っても、美食、飽食、の欲望には際限がなく、高価な特注ベッドの入っても、安眠できない金持ちは大勢いる。反対に、たとえお腹が空いていても清い心で安らかに眠る人もたくさんいる。そんな不確かな相対的なことを正しさの基準などとえらい哲学者、神学者、大学の先生に言われても、おかしくておへそが茶を沸かしますよね。
憲法第25条の「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」という言葉も、それはほとんど空文にすぎません。
そんな不確かな相対的な事象が正しさの基準であり得る筈はないでしょう。
「人間の深みという虚妄な部分」なども、人を翻弄・幻惑する御大層なお言葉に聞こえますが、一体何が言いたいのか全く意味不明です。
それに比べれば、「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)などは明快で確固たる、まさに「正しさ」の「黄金律」と呼ぶにふさわしい言葉です。
「人間にとって『正しさ』の基準は食って寝ることの確保である」、酷い言葉だと思います。
人のために自らの命を差し出した人は、田川氏からすると、頭がおかしい人ということになるのでしょうか。そもそも「正しさの基準」という言葉をよくも使うことができたと思います。何様のつもりでしょうか。命の神秘(大切さ)は、学問でいくら説明しようとしても、無理ではないでしょうか?
田川氏は、「『人間性の深み』という虚妄な部分」から宗教を持ち出しておられるようですが、神父様が仰られるように、宗教を自身が規定できなければ、「人間性の深みという虚妄な部分」とは何かという問に答えることは、できないように思います。
私はそれに同意します。(ここからは、田川建三と関係なく自分の考えです)
先頃、多くの国で宗教の勢いが衰えているのは、宗教にそのような役割を期待する人が少なくなったからだと思います。
宗教の代わりに、公共善を追求する別の方法を提唱するという形で、自分の責任を果たす人もいるでしょう。
田川建三は聖書を研究することで、人間一人分の責任を果たしていると私は思います。
他の方々のお考えはどうか、興味深いですね。
厚労省で開かれている「医薬品等行政評価・監視委員会」の、佐藤嗣道委員の働きについてです。
佐藤先生は第6回の委員会(議事録が公開されてます)で、新型コロナワクチンの感染予防効果は未だ明らかにされていないと述べ、検証方法について提言しています。また12/21提出の資料3-2(公開されてます)で同ワクチンの有害事象を科学的に検証する方法を提言しています=つまり有害事象についても未だきちんと検証するシステムが作られていないのです。
そして曖昧な返事をする官僚に、回答になっていないといって鋭く問いつめています。
厚労省が認可した医薬品を、効果がない/有害で認可取り消しとなったら大チョンボですから、役人は嫌うでしょう。
このような言動は、東京理科大学薬学部の准教授である佐藤先生の出世にもひびくかも?‥食って寝ることに決して有利には働かないのでは?
それでも変える必要のある事‥医薬品の効果と副作用の検証方法や、もしかしたらワクチン接種の実施継続か廃止か‥を放置すれば、長期的には本人を含む皆が安らかに食って寝ることに影響していくでしょう。
佐藤先生はサリドマイドの被害者です。そのことは委員会での言動にモチベーションを与えたかも知れません。こんな形で神が働いた、と私は思いました。