~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「人間の歴史は二本の紐を撚り合わせたもの」②
(ヘルマン・ホイヴェルス師のことば)
創造と進化(3)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ホイヴェルス師は学生たちといて、気分が乗ると、よくドイツ民謡を歌って下さった。自然に私はドイツ語に魅かれた。
そもそも、中世哲学の文献を読むうえでは、英語よりもドイツ語とフランス語の知識が必須であることは痛感していた。どうする?ドイツ語は発音のゴツさから考えて、独学でも行けそうだ。周りにドイツ人の神父さんたちもいるし・・・。
それに比べ、フランス語の発音は洗練されてデリケートだからちゃんと習わないとモノにならないだろう、と直感した。そこで、エイヤッ!と決断して、哲学科を1年休学、上智大学の外国語学部フランス語学科に転入した。お蔭で、フランス語の文献もドイツ語のものも、辞書と時間さえあれば何とか読めるようにはなっていた。(そのドイツ語が、後日ドイツのコメルツバンクに就職する足しになるとは、人生分からないものですね!)
近代ドイツには、ゲーテ、ハイネ、ヘルマン・ヘッセ、アイヒェンドルフなど、日本でも知られた詩人がたくさんいる。ホイヴェルス師が歌うドイツ語の歌の作詞者には私の知らぬ人が多かったが、いつの間にか私も、ハイネの「ローレライ」や、ミュラーの詩を歌ったシューベルトの「冬の旅」から「菩提樹」をドイツ語で暗記して歌うことを覚えた。
日本にも宮沢賢治、白秋、啄木、西城八十、野口雨情など優れた詩人がいて、歌曲や童謡になったものもあるが、現代の若い世代にはどれほどのものだろうか。
最近若い女性から、中嶋みゆきの「糸」がいいわよ、とわざわざスマホに動画が届いた。シンガーソングライターの中では、綺麗な人という印象で、日ごろ好感を抱いていたが、その歌詞が気に入った ♪ ♬ ♫ 。
なぜめぐり逢うのかを 私たちは何も知らない
いつめぐり逢うのかを 私たちはいつも知らない
どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす糸は いつか誰かを
暖めうるかも しれない
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は仕合わせと 呼びます
・・・・・
歌っている中島みゆきは意識しているだろうか?彼女の詩の中に何となく哲学めいた風味が漂っていると私は感じた。どこが、どのように、というのはあとに回すが、それにどこか雰囲気の似た―と私には思われる―しかもより文学的な表現を、数日前に須賀敦子のエッセイ「となり町の山車のように」の中に読んだ。
「時間」が駅で待っていて、夜行列車はそれを集めてひとつにつなげるために、駅から駅へと旅を続けている。・・・・・「線路に沿ってつなげる」という縦糸は、それ自体、ものがたる人間にとって不可欠だ。だが同時に、それだけでは、いい物語は成立しない。いろいろ異質な要素を、となり町の山車のようにそのなか招きいれて物語を人間化しなければならない。ヒトを引合いにもってこなくてはならない。・・・縦糸の論理を、具体性、あるいは人間の世界という横糸につなげることが大切なのだ。 (須賀敦子全集第3巻559ページ)
「人間の歴史は二本の紐を撚り合わせたもの」というホイヴェルス師の命題に取り組むためのウオーミングアップとして、中島みゆきと須賀敦子を引用したが、導入としてはもう十分だろう。次回こそ、二本の紐(糸と言いなおしてもいい)の本題に入ろう。