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アリベデルチ・ローマ / サヨウナラ「ローマ」(そのー1)
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私がローマに住み始めたのは1989年だから、もうかれこれ29年になる。
その間数年間は日本で司祭として働いたが、直近の10年間はローマの「日本のための神学院」の仕事をしていたので、正味延べ20数年のローマ生活になった。正直、こんなに長くなるとは夢にも思わなかった。
しかし、その長かったローマ生活もようやく終わりを迎えることになった。ベネディクト16世教皇の粋な計らいで、日本での閉鎖・消滅を免れてローマに移植された旧高松の神学院は、「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の名のもとに、ローマで生き永らえることができた。ローマに移ってからも毎年2-3人ずつ司祭を生み出し、その多くはベネディクト16世に続いてフランシスコ教皇によって司祭に叙階された。最近では、去る4月22日にユライ君とファビオ君が叙階されたことは既にブログに書いた。延べ人数は35人ほどになる。
今回のローマ滞在は、住み慣れたローマの神学校の自室を片付けて明け渡すのが主たる目的だ。ローマ生活の最後に、時間を見つけて思い出深い街をひとり散策した。アルバム風に辿ってみよう。
足は自然にグレゴリアーナ大学に向かった。カトリックの最高学府と言われるところだ。正門の上には黄色と白の教皇に旗が風に揺らめいていた。私が日本に帰ることになったのは、ローマで務めていた「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院が」が日本に帰ることが決まったからだ。それも、聞き及ぶところでは、教皇庁立として、「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の名前で東京に帰ると言う話のようだ。もしそうだとしたら、その神学校の入り口にも常時教皇の旗が掲げられることになるのだろうか。
30年ほど前に神学生として毎日通った懐かしい建物の一階にカフェテリアがあった。ローマの思い出にと覗いてコーヒーを一杯飲んだ。当時の古色蒼然としたカフェテリアは、明るく近代的なインテリアに変わっていた。女子学生の数も増えているように思った。当時、神学生の心をとらえていた美人のレジのお姉さんは、もちろんもう居ない。
大学から100メートルほどでトレビの泉。泉から緩やかに下がったあたりに焼き栗屋が今も香ばしい香りと共に客を待っている。私はよくそれを買って、皮を無造作に足元に投げ捨てながら歩くのが好きだった。
坂を左に曲がるとサンタ・リタの教会がある。そこの権司教のモンセニョール・モリナリ師と組んで、毎年3.11の頃になると、福島の犠牲者の追悼のミサを捧げ続けてきたことはブログに書いた。そして、モリナリ師のお葬式のこともブログに書いているので読んでいただきたい。
今はモリナリ師のいないこの祭壇で、かつて私たちは歌ミサを捧げたことがあった。イタリア人と日本人のプロの歌手たちの合唱で、NHKも協賛した。そして、日・伊の参列者全員で復興ソング「花は咲く」も歌った。このこともブログに書いた。
サンタ・リタ 教会からコルソ通りに出て左に折れると、突き当りはベネチア広場だ。正面には過去の戦争で死んだ兵士たちを祀る巨大なモニュメントがある。日本の靖国神社のような政治性も宗教性もない。明るい記念碑で中を見学に訪れることができる。
モニュメントを背に広場の左を見ると、ベネチア宮殿がある。長くカトリックのローマ教皇の宮殿でだったことのあるこの建物は、第2次大戦中はファシスト独裁者ムッソリーニの住居となり、二階の真ん中の窓から広場を埋めた群衆にアジ演説をしたことで有名だが、今は美術館になっている。観光馬車の後ろの緑の陰までその宮殿は続いているが、
その宮殿に取り込まれるように一体となって、サンマルコ教会がある。この教会の歴史は古く、この教会の地下の発掘現場から、紀元1世紀の裕福なキリスト教徒の屋敷跡が見つかった。そこで信者たちは礼拝し、福音史家聖マルコはこの屋敷に逗留してマルコの福音書を書いたことが知られている。私は、司祭になってからもグレゴリアーナ大学で教授資格を取るために学生神父としてこの教会に寄食していたが、古くて綺麗で市のど真ん中とあって、土日、祭日には何組もの結婚式があった。私は映画俳優と女優のような見栄えのする若いカップルの結婚式を何度も司式したが、場違いのような足の短いアジア人の神父が、沢山の結婚記念アルバムに姿を残していることを、何となく申し訳なく思ったものだ。だからと言って、たっぷり金をかけて作ったがアルバムが、数年後の離婚と共に捨てられることのないようにと祈らずにはいられないが・・・。
サンマルコ教会のわきの角のところにはギリシャ神話の女神の像がある。アンデルセン作、森鴎外訳の「即興詩人」によれば、この像は元はコルソ通りに面してあったようだ。大理石の彫刻も2000年以上の風雨の前には、次第に融けて形が崩れていくものだ。そして、この壁の左側には国連の事務所があり、その隣には教皇やムッソリーニの召使たちの住まいがある。いまその一部が教会の司祭館として使われているが、私が住んだ部屋は、ムッソリーニのお抱え床屋さんの住まいだったと言う。その真偽のほどはわからない。
ベネチア広場から、古代ローマの遺跡群のフォロロマーノを左右に見ながら15分歩くとコロッセオにたどり着く。ローマ市民の娯楽の中心だったが、剣闘士同士の戦いや、皇帝から迫害されていたたくさんのキリスト教徒が、ここでライオンなどの猛獣の餌食となって殺されるのを見世物として楽しんだ血なまぐさい歴史がある。
当時の衣装をまとってローマ兵に扮した男たちが観光客と写真に納まり小銭を稼いでいる。私もこの写真を撮らせてもらうために、子供たちの親の了解を得て、男たちには2ユーロをはずんだ。
コロッセオからバスを乗り継いでナボーナ広場に向かった。ローマで一番美しい広場と言われている。広場には3つの泉の彫刻があり、中央のは昔4つの大河として知られていた、ナイル川、ドナウ川、ラプラタ川、ガンジス川だったかな?を象徴する彫刻から水が流れ出る仕組みになっている。
広場の片隅では、カッコいい憲兵さんがスマホで彼女とメール交換中。
サングラスに豊かなブロンドの髪がよくて、気付かれないように遥か彼方から望遠で捕えた。若い頃はきっとほっそりしていたに違いないと勝手に思う。やや厳しい顔つきからどんな人生だったろうか、と思いを致した。
ナボーナ広場にはたくさんのレストランがある。これは「4大河」という名のお店だ。
カフェ・レストランの前の若い服装のご婦人。左の初老の紳士のお連れさんらしい。彼女のことをバックシャンというが今の若い人には意味不明かも。大正か昭和のはじめに旧制高校の書生さんが作った言葉ではないか。バックは英語の「うしろ」だが、シャンはドイツ語の「シェーン」、つまり「美しい」という単語が訛ってくっついた造語だ。要は「後ろ姿美人」と言う意味。撮ってから好奇心を抑えきれずさり気なく顔を覗き込んでみたら、皺を刻んだ醜いおばあちゃんだった。
ここらで小休止と、一人ワインを注文した。「アリベデルチ・ローマ」のお散歩だもの、これぐらいはいいだろう。
4大河の泉の正面に、殉教者聖女アグネスの教会がある。お墓には聖女のシャレコウベ(頭蓋骨)が聖遺物として安置されている。そういう趣味は私の感性に合わない。入り口の階段のわきにいつもいる物貰いさん。新宿西口広場など、この手の物乞いの姿を日本ではほとんど見ない。毎日誰かに連れてきてもらうのだろうか?帽子に2ユーロほりこんで、写真の許可を貰った。どんな悲惨な事故に遭ったのだろうか。意外と表情に暗い影がない。
わきの泉の半人半漁の彫刻
ナボーナ広場から東に5分歩くと、パンテオンがある。ローマ時代から2000年余り、ずっと現役で使われ続けたローマでも数少ない建造物。今はイタリア王家の墳墓教会で、画家ラファエロの墓もあるが、写真は省略。広場いっぱいにリヤカーに積んだスピーカーから美声で弾き語るお姉さん。
パンテオンの隣に、「ミネルバの神殿上の聖母マリア教会」がある。中世にローマを捨てて落ちのびた教皇を叱咤激励してローマに呼び戻した女傑聖女シエナのカタリナの遺体が祭壇の下に葬られている。後ろのローズウインドウのステンドグラスがきれいだ。
聖女カタリナのお棺の上の彫刻は30年前は彩色されていたから木彫かと思っていたが、今は絵の具を落として白大理石の生地が出ている。私にはこの方がいい。
このセンチメンタルな散歩はまだ続くが、一回分の長さとしてはこの辺が限度かと思う。
(つづく)