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〔完全版〕教皇のインタビュー(その-7)
第2バチカン公会議 ・ 全ての事の中に神を探し、見つけること ・ 確かさと誤り
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私のブログの常連読者の多くにとってあまり関心のない教皇のインタビューを長々と続けることは、賢明ではないことを知らないわけではない。しかし、乗りかけた舟で今さら降りるわけにいかない。退屈された方は一回おきに書く別の話題だけをフォローしていただいてもいい。インタビューは今回で約4分の3をカバーしました。あと少しの辛抱です。どうかお見限りなく。
第二バチカン公会議
「第二バチカン公会議は何を実現したのか?一体何が起きたのか?」私は、教皇のいままでの主張からして、巧みに関連付けられた長い一連の回答を期待しながらこの質問をした。ところが、印象としては、教皇は公会議を長々と話すに値しないほど明白なこと、単純にその重要性を再確認するだけで足りる議論の余地のない事柄、と考えているようだった。
「第二バチカン公会議、それは現代の文化に照らして福音を読み直すことだった。公会議はただ単純に同じ福音から新たな刷新を生み出す運動にすぎなかった。しかしその成果は膨大だった。それは典礼の事を思い出すだけでも十分だろう。典礼改革は、具体的な歴史的状況から出発して福音を読み直す民への奉仕の仕事だった。そこには解釈上のラインの連続性と不連続性の問題があったが、にもかかわらず一つの事、つまり今日の時代に即した公会議に固有の福音の読み方の展開は、絶対に逆戻り出来ないものであることだけは明白だ。そのほかにも、Vetsus Ordo(公会議前の古い様式)による典礼の扱いなど個別の問題がある。教皇ベネディクトの選択は、この様式に固執する独特の感性を持った一部の人々に対する配慮としては賢明であったと私は思う。しかし、Vetsus Ordoをイデオロギー化し、それを(公会議を空洞化させるための)手段として利用しようとする動きには、憂慮すべきものがあると考えている。」
全ての事の中に神を探し、見つけること
今日の挑戦に関する教皇フランシスコの話には大変並外れたものがある。数年前、現実を見るためには信仰の視点が必要で、それがなければ、現実をばらばらな断片としてしか見ないことになる。これはLumen fidei(信仰の光)の回勅のテーマの一つでもあった。私はリオ・デ・ジャネイロの世界青年大会の期間中に教皇フランシスコがした話の幾つかの箇所を頭に置いていた。それを引用しよう。「今日神がご自分を現されたとすれば、それは本当だ。」「神はあらゆる部分におられる。」これらの言葉には「全ての事の中に神を探し、見つけなさい」というイグナチオ的表現をこだまさせるものがある。そこで教皇に「教皇様、すべての事の中に神を探し、見つけるためにはどうすればいいのですか?」と訊ねた。
「私がリオで言ったことは時間的な価値を持っている。実は、神を過去の中に、または将来起こり得ることの中に探し求めようとする誘惑がある。確かに神は彼が残した痕跡の中にいるから、過去の中にいるともいえる。また、約束として未来の中にもいる。しかし、《具体的な》神、とでも言うか、を見出すことができるのは今日の中だけだ。だから、泣き言を言っても神を見つけるためには全く何の役に立たない。この《野蛮な》世界は一体どうなってしまうのだろうかという今日の嘆きは、ともすれば教会の中にただの保守的な防衛的秩序への願望を生み出すだけに終わる。しかしそうであってはならない。私たちは今日神と出会わなければならないのだ。」
「神は歴史的な啓示の中に、時間の中にご自分を現される。時間が流れを開始し、空間がそれを結晶させる。神は時間の中に、流れていく経過の中に見出される。時間、それも長く経過する時間、の前には、力の空間を特別視する必要はない。我々は空間を占めることにではなく、新しいプロセスを開始することに取り組まなければならない。神はご自分を時間の中に現し、歴史の経過の中に現存される。これは新しいダイナミズムを生む活動に特権を与えるものである。それはまた、我々に忍耐と待つことをも求める。」
「全ての事象の中で神と出会うということは、経験的なeureka(発見)とは違う。私たちが神と出会いたいと願うとき、心のどこかで、経験的な方法ですぐに確かめたいと望んでいるかもしてない。しかし、そのような形で神に出会うことは出来ない。神はエリアのときに起きたように、かすかなそよ風の中で出会うものである。神に気付くのは、聖イグナチオが呼ぶところの《霊的な感性》によってである。イグナチオは神と出会うために純粋な経験科学的アプローチの彼方にある霊的な感受性を開くことを求めている。また、観想的な態度が必要だが、それは、事柄と状況に対して共感と愛情のこもったよい歩みを行うために、耳を傾けようとする姿勢だ。この良い歩みの印は、深い平和と、霊的な慰めと、神への愛と、事柄と状況の全てを神の中に見ようとする姿勢だ。」
確かさと誤り
「もし、すべての事の中で神と出会うことが《経験的な理解》によるものではないとすれば、-と私は教皇に言った-したがって、もしそれが歴史を読み取る歩みの中で行われるものであるとすれば、誤りを犯すこともまた可能になるのではないだろうか・・・・」
「そうだ、全ての事の中に神を探し見つけることの中には、常に不確実さの余地が残る。またそうでなければならない。もしある人が完全な確実さで神と出会ったと言い、不確かさの余地は全くないと言うとすれば、何かがおかしい。それは私にとって大切な鍵だ。もしある人がすべての疑問に対して答えを持っていると言うならば、それこそ神が彼と共にいないことの証拠だ。それは彼が偽預言者であって、彼は宗教を自分自身のために利用しているしるしだ。モーゼのような偉大な神の民の指導者は、常に疑いのために余地を残した。私たちの確実さにではなく、主のために場所を残しておかなければならないし、謙遜であることが必要だ。霊的な慰めに対して開かれたすべての本物の識別の中には、必ず不確かさがつきまとう。」
「つまり、すべての事柄の中に神を探し見つけることに伴う危険性は、明白に述べすぎることと、《神はここにある》と人間的確実さと尊大さで言いたいという願望の中に潜んでいる。それでは私たちの物差しで測ることのできる、あるちっぽけな神を見つけることしかできない。あのアウグスチヌス的な態度、すなわち、神を見つけるために探し、神を絶えず探しつづけるために見つけることこそが正しい態度だ。聖書を読み解くときのように、何度も手探りで探すことだ。私たちの模範となるのは、信仰の偉大な教父たちのこの経験だ。ヘブライ人への手紙の11章をもう一度読み返す要がある。アブラハムは信仰ゆえに、どこへ行くのかも知らずに出発した。私たちの信仰の先祖たちは皆、約束された土地を見て死んだが、それはまだ遥か遠くに見ながらのことだった・・・。我々の命は、すべてが書き記された完成した小冊子としてではなく、それは行くべき、歩むべき、行うべき、探すべき、見るべきものとして与えられているのだ・・・。私たちは、出会いを探し求め、神が出会わせ探させるに任せる冒険へと踏み入らなければならない。」
「それは、神が先にあり、神が常に先におられ、神が 第一者 だからだ。アントニオ、神はお前のシチリアでいつも一番先に咲くアーモンドの花にちょっと似たところがある。そのことを私たちは預言者の書の中に読む。だから、神とは、歩みながら、歩みの中で出会うものだ。その点で、人はそれを相対主義と呼ぶことができるかもしれない。だが、それは相対主義だろうか?もし悪意に解釈して、ある種の曖昧な汎神論だと言うならば、その通りかもしれない。しかし、聖書的な意味で理解すれば、そうではない。聖書的には神は常にひとつの驚きであるから、あなたは神がどこでどのように見つかるかを決して知ることはないし、神との出会いの時と場所を決めるのもあなたではない。だから出会いは識別される必要がある。その理由で識別は基本的である。」
「もし或るキリスト者が復古主義者の律法主義者で、どうしてもすべてを明らかに確実にしたいと望むとすれば、その人は何も見出だすことは出来ない。伝統と過去の記憶は、神のために新しい場所を開く勇気を持つように私たちを助けなければならない。こんにち、常に規律に沿った解決を探し、教義上の《確実さ》に誇大に傾き、失われた過去の回復を頑迷に求める者は、静止的で退行的なビジョンの持ち主だ。そのような形においては、信仰はたくさんのイデオロギーの一つに成り下がってしまう。私は一つの教義的な確信を持っている。それは、神は各々の人格の命のなかに宿られ、神は各人の生活の中におられるということだ。たとえある人の生活がひどい失敗であり、悪徳や麻薬や他のいかなることによって破滅しているとしても、神は彼の命の中にいる。各々の人間の命の中に神を見出されるし、そこにこそ神を探さなければならない。たとえある人の生活が茨と雑草に覆われた土地であったとしても、そこには常に良い種が育つ空間があるものだ。神に信頼しなければならない。」
(つづく)
自分の生活に、定規のようにあてはめて考えています。
日々、時々刻々、やり直せる喜びを感じます。