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〔完全版〕 教皇のインタビュー (最終回)
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長くなったインタビュー連載も今回の短いブログで完結します。
最後の質問が教皇フランシスコの「祈り」についてであることは意味深いと思います。日頃私たちは、心の最も奥まった場所に退き、生きている神と真摯に向き合い、祈り、対話できているでしょうか。祈るために意図的に時間を割いているでしょうか。
私には、深く反省させられるものがありました。
祈ること
最後の質問として、教皇に自分の好きな祈り方について訊ねた。
「毎朝聖務日課を唱える。詩編を用いて祈るのが好きだ。それから続いてミサを捧げる。ロザリオを唱える。本当により好きなのは夕べの礼拝だ。気が散ったり、他の事を考えたり、祈りながら居眠りをしてさえも。だから、夕方の7時と8時の間は一時間御聖体の前で礼拝しながら過ごす。また、歯医者で待っているときとか、一日の他の瞬間にも念祷をする。」
「そして、私にとって祈りは、自分の歴史の記憶や、主が教会に対してなさったことについて、また或る具体的な小教区で起きたことなど、いつも思い出の詰まった《追憶的》な祈りだ。それは私にとって、聖イグナチオが霊操の第一週の中で十字架に架けられたキリストとの憐れみ深い出会いの中で語っている追憶の事である。そして《私はキリストのために何をしたか?キリストのために何をしているか?キリストのために何をしなければならないか?》を自分に対して問いかける。それはまた、イグナチオがContemplatio ad amorem(愛への黙想)の中で語っている、受けた恵みを記憶の中に呼び覚ますことを求めての追憶である。しかし、それは特に、主が私のことを覚えていてくださっていることを知っているということでもある。私は彼の事を忘れることが出来たとしても、彼は決して、決して、私の事を忘れることはないと私は知っている。記憶はイエズス会員の心を決定的に基礎づけるものである。恵みの記憶、申命記に語られた記憶、神とその民の間の契約の根底にある神のみ業の記憶。この記憶こそ私を子とし、また父でもあらしめるものなのだ。」
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この対話をもっと長く続けることも考えてはみたが、教皇があるとき言ったように、《限度をわきまえること》は考えるまでもないことだと心得た。8月19日、23日、29日の3回の約束を通して、6時間以上にわたって実に密度高く対話した。 私はここで継続の可能性を失うことのないために終了の印を残すことなしに一区切りつけることを好んだ。わたしたちの対話は実際には単なるインタビュー以上のものだった。質問はあらかじめ決められた窮屈な基準に縛られることなく、心の深みからなされた。言葉の面でも流暢にイタリア語とスペイン語の間を、その都度の切り替わりに気付かないほどに滑らかに行き来した。機械的なことは一切なかった。答えは対話の中から、私としては出来る限り要約的に行おうという思考の内面から生まれたものだった。(イエズス会員アントニオ・スパダロ)
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わたしは、ぶっきらぼうなほど原文に忠実な簡潔な訳で統一しました。訳者が分かった風をして言葉を増やし説明的に敷衍すれば、読んだ人には滑らかに届いたかもしれません。また、接続詞や関係代名詞を多用して長く複雑にもつれた文章を、幾つかに切って分けて訳せば、確かに読みやすくはなったでしょう。しかし、それも極力避けました。
例えば、教皇の最後の行、「この記憶こそ私を子とし、また父でもあらしめるものなのだ」なども、原文のイタリア語は何も説明を加えていません。教皇も恐らくその通りに話したのでしょう。その結果「私を子とし、また父でもあらしめる」とは一体どういう意味かと言う疑問が訳しながら残りました。しかし、原文にある単語はこれだけなのです。そして、これしかないという解釈のヒントは、前にも後にも存在しなかったので、そのままにしました。この一連のインタビュー記事が、現教皇を理解するうえで、少しでもお役に立てたならば、やった甲斐があったというものです。(訳責:谷口幸紀)
「神々の醜聞」「血に汚れた神」「ラビと神父」と言う三つのコメントを、相次いで三つの異なるブログに頂いて有り難うございました。何れも辛口のコメントで、一瞬引いてしまいそうになりましたが、内容自体はまじめなものであることを認めざるを得ませんでした。真剣に公開に向けて検討させていただきましたが、一つだけどうしても越えられない壁にぶつかってしまいました。それは「コメントと言うものは、あくまでそれが寄せられたその回のブログの内容に関連したものであるべき」と言う原則です。或るブログに、そのブログの内容と全く関係のないコメントが載るというのは、本来あるはずのないことです。
その観点から言うと、今回戴いた三つのコメントは、内容それ自体は示唆に富んだものであることを十分に認めた上で、そのコメントが寄せられたブログと全く無関係であったために、敢えて保留のままにせざるを得ませんでした。どうか悪しからずご了承ください。
取材者は、インタビューをするその方が、自分の心の奥から何かをあつめてきて、答えることを意図します。
成功するインタビューはあまり多くないようです。
今回は、成功していると思います。
理由は、過去の著名な取材や対談集のようなレベルのおもむきを感じるからです。
こう感じられるのも、名訳のお陰です。
谷口神父様に心から感謝します。