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ローマの報告(そのー2)
教皇フランシスコに盆栽献上(つづき)
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見えますか?教皇の白い帽子の右上、盆栽の陰のおでこの禿げたカメラマンがとらえた写真が翌日のバチカン機関紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」の8面に載っていた。次の写真がそれだ。
この写真に添えられた記事を翻訳すると、
バチカン広報紙、≪オッセルバトーレ・ロマーノ≫(政治と宗教の日刊紙)
2019年10月31日号(8面)教皇の一般謁見(10月30日水曜日の関連記事)
11月に予定されている日本への使徒的旅行を目前にして、教皇フランシスコへの
二鉢の盆栽の寄贈は重要な意味を持っている。
森高氏は、ジョン谷口神父と共に「これらの盆栽は樹齢150年のものでございま
す・・・。」と説明して、教皇様にそれを贈った。さらに、「思い返せば、2004年
のことですが、私たちはすでに二種類の合計30本の桜の花の咲く苗木を聖教皇
ヨハネパウロ2世に奉納し、今日それらはバチカン庭園で素晴らしく咲き誇ってい
ます。」と付け加えた。
盆栽の一行と別れた私は、古巣のローマの神学校に居を移しした。
増改築なった神学校の聖堂の正面には、キコの壁画がすでに完成している。
キリストの誕生から十字架上の死と復活、昇天、さらに世の終わりの最後の審判までを、仏教でいえば曼荼羅風に描いたものだ。
フレスコ画ではない。金箔の上に絵の具を乗せた仕上がりで、その面積はバチカン博物館付属のシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた最後の審判のフレスコ画よりもやや広い。世界中からの巡礼が見に来るのだが、今朝もアメリカからのグループが絵の説明を受けていた。
10年余り院長秘書として住んだこの神学校を訪ねた今回の目的は、「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の一部として東京に帰って来るはずだった「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」が現在どんな状態にあるかを、自分の目で確かめることだった。
神学校の大聖堂の脇の階段を上がった2階に、日本のための神学院が独立したチャペルを持っている。チャペルの中には、保護の聖人の聖遺物と共に、日本語の掛け軸が今もかかっている。
土曜日の朝、久しぶりに日本のための神学生たちと共にミサを捧げた。
ミサ後の集合写真。中央右側の紫のストールをつけているのが、現在の院長アンヘル・ルイス神父。
中央が私でその周りに8人の神学生。左から2人目のトモヒロ君は日本人。あとは、世界各国からだ。
写真を撮ってくれているマテオ君を入れて、神学生総勢9人のミニ神学校。
少数と侮るなかれ、宣教に関しては意識の高い精鋭部隊。日本語もそれなりに上達して即戦力がある。
神学校は健在だった。ローマにある限り安泰で、これからも教皇様ご自身の手で
毎年1-3人の新司祭が、日本のための宣教師として叙階され続けていくだろう。
バチカンが考えた「アジアのための教皇庁立レデンプトーリス・マーテル神学院」は東京に置かれることを前提に立案された。それは、第三千年紀のアジア全体の宣教の中核拠点となるはずだった。それが予定通り東京に置かれれば、上の「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」もその「教皇庁立の神学院」の一部として、東京に上陸するはずだった。
そもそも、同神学院は聖教皇ヨハネパウロ2世の励ましによって「高松教区立」として1990年に設立されたもので、設立者の深堀司教様が在位中は多数の若い司祭を輩出したが、司教の代が変わると、閉鎖を余儀なくされた。しかし、その消滅を惜しまれた教皇ベネディクト16世は、それをご自分の神学校として「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と名付けてローマに移植された。同教皇の生前退位後も、それはフランシスコ教皇に受け継がれ、存続していた。
もともと、同神学院のローマ移設は、移設当時の関連文書が示す通り、いずれは日本に返すための暫定的な措置だった。新教皇フランシスコは、すでに期は熟したと見て、教皇庁立の「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の一部として日本に返す案を承認されたのだろう。その案が再び日本の教会の反対にあって拒絶されると言うことは、バチカンにとってはまさかの想定外の出来事であったと思われる。
これは、アジアの教会、そして特に日本の教会にとって貴重な贈り物になるはずであったにもかかわらず、まるで真珠を泥の地面に投げ捨てるような扱いになってしまった。しかし、フランシスコ教皇は黙って身をかがめてそれを拾い上げ、泥をぬぐって、そっとマカオに置かれた。マカオにしてみれば、思いがけない棚ぼたの恵みであったに違いない。
以上が、ローマの教会と日本の教会の間で起きた、3代の教皇を巻き込んだ神学校を巡る今日までのドラマだった。
マカオと聞いて、人はピンと来ない意外な選択と思われただろうか。しかし、イエズス会出身のフランシスコ教皇には、マカオはフランシスコ・ザビエルの時代のアジア宣教の重大な拠点として記憶されていたはずだ。しかも、その選択はただ過去のセンチメンタルな記憶だけによるものとは思えない。
習近平の終身国家主席になる可能性が見え隠れし、かつての中国の皇帝のような絶大な権力を手中に収めつつあるが、中国の無神論的共産党一党独裁があっけなく崩壊する日が来たら、マカオは再び中国大陸宣教の橋頭保として脚光を浴びるかもしれないのだ。
絶対に失敗しないソ連差し向けのプロの殺し屋の銃弾2発を至近距離から腹部に受けた聖教皇ヨハネパウロ2世は、奇跡的に生還した。その結果無神論的共産主義国家ソ連は崩壊した。ならば、フランシスコ教皇の努力如何では、中国の無神論的共産党一党独裁体制が崩壊するという奇跡が絶対に起きないと言い切れるだろうか。その日に向けて、2万人の中国語を話す宣教師の養成が急がれている、と言う話がカトリック教会の中にある。本当だろうか?
しかし、予断は許されない。もし習近平が力を伸ばし、香港を手中に収め、余勢をかって何らかの口実を設けて台湾に電撃作戦に打って出れば、トランプが2-3か月をかけて反撃の態勢をようやく整えた頃には、中国の台湾実効支配はすでに完了していて、手も足も出せない後の祭りということもあり得る。商売人トランプは一銭の得にもならないベトナム戦争の二の舞を大国中国相手にするはずはない。そのようなことになれば、マカオの地位も危うい。「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の撤退、立地の見直しも必要になって来るかもしれないのだ。
その時、再び最有力候補として浮上してくるのは、地政学的に見てもやはり日本を措いて他にないように思う。高松教区立の「レデンプトーリス・マーテル神学院」を閉鎖に追い込むためには、バチカンを相手に日本の全司教が一致団結したと言われているが、「教皇庁立アジアのためのRM神学院」の東京設置を水際で阻んだのは、必ずしも全司教一致ではなかったと言う話がある。だから、次には三度目の正直で、少なくない数の日本の司教が教皇様の意向を受けいれて実現する希望がないわけではない。その時はじめて、元高松教区立の「レデンプトーリス・マーテル」神学院問題も最終決着を見るだろう。
反対に、もし、マカオの環境が今後も平穏で、「教皇庁立」の神学院が順調に軌道に乗れば、遅かれ早かれ、アジアの各地にマカオの神学院の分身(支部)が置かれることは容易に考えられる。日本のどこかにマカオの支部が置かれれば、フランシスコ教皇の手で、ローマの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」がその支部と一体化する形で日本に帰ることも夢ではなくなる。
聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコと3代の教皇を巻き込んだ「レデンプトーリス・マーテル神学院」問題を巡るローマと日本の司教団との軋轢の構図は、いずれかの形で必ず解決を見なければならない。
フランシスコ教皇の来日が、この問題について何らかの新しい展望を切り開くことを切に望みたい。
レデンプトーリス・マーテル神学院に入りたいというご希望でしたか?東京にできなくても、ローマには「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」があります。イタリア語を覚えなければならないというハードルはありますが、あそこに通って司祭になった人たちは、皆それを何とかクリアーしました。不可能ではないでしょう。もちろん、ローマで受け入れられるためには、日本で一定の修練が必要ですが・・・
ご相談ください。
そのような人が日本にも少なからずいることを私はよく知っています。そういう人には司祭をやめてほしいです。聖職者のなり手が不足している今、修道会にしても教区にしても神学生は喉から手が出るほどほしいところでしょう。しかし誰でもいいというわけではありません。ドミニコ会の判断は正しいと思います。ローマに行けば司祭になれる、のようなコメントはあまりにも軽率だと思います。失礼なことを申し上げてしまったかもしれませんが、他ならぬ教皇様ご自身のお考えということをどうかご理解ください。
Unknownさんへ
ご尤もです。
精神を病んでいる人は司祭になるべきではないし、なることはできません。
私がミカエルさんに上の肯定的、希望的な展望を書いたのは、ミカエルさんが統合失調症を患っているということを知らされる前の話です。もし知らされていたら、もちろん全く別の助言をしたでしょう。
レデンプトーリス・マーテルの神学校は世界に125以上の姉妹校がありますが、少しでも精神病、同性愛、アルコール、薬物、ギャンブル、ポルノなどの依存症の疑いのある人は、志願者、神学生としての受け入れを認めていません。その点では極めて厳しいものがあります。
早朝の朝の祈りに2-3度遅れてくるだけで、院長は「お前のような怠け者は、明日一番の飛行機に乗って家へ帰れ!」と並み居る神学生の面前で怒鳴りつける、というのが普通です。125も姉妹校があれば、昔のように大勢の志願者が神学校に入れずに待機させられるというほど召命に溢れているとは言えなくなりましたが、
それでも、「ボク司祭になりたい!」と言えば、「それ!金の卵だ!」と言って無条件に受け入れ、やめれれたら困るからと言って甘やかし、やめたいと言えばあの手この手で引き留めるなどというようなことは絶対にありません。
それに比べて、ともすれば、在来型の教区立神学校、修道会立神学校の場合は、召命の枯渇、司祭不足のために、審査が甘く、隠れた同性愛者(ホモ)や、うつ病の無気力な人が少なからず紛れ込んでいるというのが実情のようです。東京の大神学校も例外ではないでしょう。
iPhone、インターネットの普及した今日、ポルノの動画は無制限に、それも秘密裏にアクセス可能の時代になりました。女生との交際、接触が禁じられた神学生が、何時のまにかポルノ依存症、自慰行為の常習者になる危険は大です。それはアルコールや麻薬以上に危険なものです。度々本人が望むだけではどうにも抜けられません。彼らも、神学校を出て普通の生活をして、精神科医に助けられながら、ノーマルな異性関係を築かねばなりません。
汝の敵を愛し、その人たちのために祈りましょう。
精神科医と宗教家の立ち位置は違うと思います。
立場の違う方からの私個人への批判は甘受いたしますが、教皇を同列に批判されることに対しては、教皇を擁護したいと思います。