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悲しき雀
ホイヴェルス師著 =時間の流れに=
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友達の家の縁側には、鳥籠の中に一羽の小鳥がさえずっていました。鳥籠は朝風の中にゆりうごき、鳥の声は悲しそうでした。私が見にゆきますと、鳥は黙りこんでしまいました。私をおそれるあまりなのでしょう。何と珍しい鳥なのだ! お前の右足は白、左足は黒、尾羽根はひきむしられ、嘴は太く、たくましく、いつも桜桃の種を割っているかのようだ。しかしお前の目は賢く聰い。おとぎばなしの鳥のようだ。「お前は何という鳥だね、いってみたまえ。鶯(うぐいす)か鷽(うそ)かい」この対話を私の友達は聞いて「いやどっちでもない、名なしの鳥ですよ。あるいは雀の種類ではないかしら。小さい時に、こちらにとんできたので、鳥籠に入れてやったのです」私はこの雀といわれるものをこれ以上邪魔しないで出ていったので、雀は喜びの歌を歌いました。
しばらくして、雀の鳥籠での生活は、とても退屈にちがいない、と同情しました。この雀のために遊び仲間を何とか工面してやりたいな、と思ったものの、もちろんできっこありません。庭でもう一羽の雀をつかまえることさえできないのです。でもある哲学者によれば、現象の世界と実在の世界との差別はありませんから、この雀はなおさら現像と実在を分けることなどできまい、と思いつきました。
私は鳥籠を縁側から私の部屋のテーブルの上に運び、そこでうまく一つの鏡を鳥籠のそばに立てました。それで鏡の中にも鳥籠と一羽の雀が現れました。それから私は静かに部屋の隅に退きました。すると雀は、たまたまぐるりとむきなおって鏡の中の雀を見つけます。自分の種類とすっかり同じ鳥です。私は、雀がすぐこの新しくつくられた雀のところに遊びにくるだろうと思いました。けれども、わが雀は、哲学者でなく詩人で、物を所有することよりも、物に対する希望を大切にしますから、その胸をふくらませ、嘴を天にあげて翼をバタバタとうち、そして喜びにあふれて一心に歌いだしました。長く長く歌いました。鏡の中の雀も歌います。翼をバタバタとうつ、それで熱心はいよいよ増してくるのです。ようやく歌い終わってからお互いの挨拶のために、ぼつぼつ近づき、嘴でつつきあうのでした。それからまたさえずる。戻っては飛びまた近づきあいます。近くなってもいつもいつもただ嘴だけなのです。そのためにこの二羽の鳥は驚きあいました。疑い深くなったのです。またはなれて、少し遠くから、じっと互に睨みあい、またもういっぺん歌いましたが、もはやそんなに希望にみちた歌ではありませんでした。もう一度挨拶をしてみようととんでゆきました。しかしこの固いガラスは同情を知らないので、この二羽の友達は一しょになれませんでした。哀れな雀は現象の世界の悪戯に失望し、早くも詩人は疑い深い哲学者になってしまいました。そしてこの贋物の鳥から、なるべく遠くとびはなれて背中をむけ、時々ピーピーと嘆くのでしたが、でもたまにはそっとふりかえって、鏡の中の鳥をぬすみみていました。
私も雀に同情しました。また現象の実在の相違をそんな早く見てとったことにいくらか感心しました。ある哲学者たちはこう早くは現象と実在の差別を悟らないのですから。
私はこの雀のために遊び仲間をごまかしても作れませんが、しかし少なくとも少しくらいの自由は、すべての雀がもって生れた権利は、与えてやれますね。で部屋の窓を皆しめてから鳥籠の戸口をあけました。鳥は矢のように戸口をとびぬけるだろう、と思ったのですが、たちまち詩人になりました。自由に対する希望は、自由そのものよりも麗しいものですから。鳥は開いた戸口の方にとび、胸をふくらませ、翼をはばたいて、憧憬のあまり嘴を天に向け、自由に関して美しい歌を歌いました。それも長く長く歌ったのであります。歌い終わってから、甘い自由を味わうように、戸口の下に入り注意深くすべてをしらべました。なぜなら、新しい自由の門の彼方には悪の罠が往々かくれているものですから。何の危険もないので飛び上り、外へとんでゆきました。しかし決して注意もせずに世界宇宙の真只中に飛ぼうとせず、かえって深い思慮から鳥籠の上にとんで、そこにとまりました。それは何の意味でしょう。このいやな鳥籠というものを自分の安全に域にしたいと思うのか、あるいは長年の虜囚のあとで勝利の歌を歌ってみるのでしょうか。そうでした。鳥は胸を空気で一杯にし、翼をひろげてはばたき嘴をあげて、まず最も強い一番長い喜びの歌を歌ったのであります。この鳥の喜びをきくと、私はすべての圧迫から自由になった人びとのうれしさも感じました。
歌い終わってから、かわいい小鳥は新しい世界を発見するためにあちこち飛びました。何と珍しい世界でしょう。しかしそのたびごとに鳥籠の上へとび戻って、発見したことをよく覚え、また新しい発見を企てました。結局この発見の時代も終わらねばなりませんでした。そして最大の発見はこの世界にも限りがあるということで、ちょうど人類が地球にも限りがあるということを発見したような気持だったのでしょう。
世界の際限を発見した時に、雀はまたかなしくなり、詩人であることをやめ、哲学者になり、鳥籠の上にとまって、このいやな世界に対してしかめ顔になってしまいました。こうして私も仕方がないので、この鳥を鳥籠の中に入れ、戸口をしめ、縁側の方へ運ばねばなりませんでした。そこで雀はいつも通り、失敗した愛と、ごまかされた自由を思い出し、そして不機嫌な口笛や悲しげなさえずりをして、その日を過ごすのであります。
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この短編をゆっくり読み返すと、実に味わい深い。
鳥かごの中に鳥をみながら、ひとりで閉じられた世界に生きる人間は孤独で哀れな存在だ、とホイヴェルス師は同情を込めて語られます。
そして、師は小鳥に託して、ひと飛びに人間の認識のあり方についての哲学的考察に飛び込まれます。観念の鳥かごに閉じ込められた哀れな哲学者の中には「実在」(Sein)と「仮象」(Schein)の区別さえつかないものが大勢いる。それは、「実際にあるもの」と「ただあるように見えるだけのもの」との区別のことだと言ってもいいのだが・・・。
賢い哲学者でもそうなら、脳みその小さな小鳥はらなおさらだろうと、小鳥の前に鏡を置いてみられました。そしたら、小鳥はたちまち、鏡に映った自分の姿は、「実在」ではなく、ただの「仮象または虚像」に過ぎないことを見破ったのです。
師はユーモアと皮肉をこめて、あるタイプの哲学者の物わかりの悪さを指摘されたのでした。
考察は空間的広がりと自由のテーマに移ります。地球の鳥かごから放たれた人類は、この雀のように注意深くためらいながらも、近い将来宇宙へ飛び立つに違いありません。もしかして、どこかの星で理性と自由意思を持ったお友達に出会えるかもしれないという希望に満ちて。
しかし、やがて人は、宇宙のどこにも心を通わせあうことのできるお友達はいないことを知って、失望し、夢を抱く詩人であることをやめて、憂鬱な哲学者になって、地球に戻ってくるのでしょうか。
宇宙を心で透視して、肉の目には見えない神様を見つけた時、人は初めて満たされた思いと心の落ち着きを得ることができるのでしょうか。
これを書いている12月半ばから、あと数日でクリスマス。聖夜に生まれる幼子イエスが、目に見える姿をとった見えない神様であることを信じられる人は、深い慰めを見出すにちがいありません。
哲学史には有名な名を残した哲学者に、人間は一人ひとり球体の内面のような全方向のスクリーンを持っていて、その球体の中心に自分がいて、自分がスクリーンに投写した映像が存在世界のすべてだと言わんばかりの説を大真面目に説くケースもありました。みんなそれぞれお好みの世界をもっていて、それぞれの投写された世界はてんでんばらばらだと言いたいのでしょうか?
賢い人間のはずなのに、小鳥の小さな脳みそでも簡単にわかることも分からないのに、偉大な哲学者とされている。その説を信奉する人たちも含めて、ホイヴェルス師は「おやまあ!」という気持ちになられたのではないかと私は思います。
人間は、やはり真面目な存在論にしっかり思考の基礎をおかないと、わけが分からない蒙昧の闇におちるのもだ、という教訓ではないでしょうか?
谷口神父様の仰るように「ユーモアと皮肉をこめて、あるタイプの哲学者の物わかりの悪さを指摘された」のだとすると、私にはとても違和感があります。
哀れな哲学者諸君と違って、私(ホイヴェルス神父)は真理が分かっておるのだよ‥そのような事を言いたかったのでしょうか?
物の分からない哀れな人間どもに、私(ホイヴェルス神父)が同情を寄せてやるよと、思っていらしたのでしょうか??
ちょっと違うような気がします。
たまにコメントすれば、こんな事を書くのですから和気藹々とした雰囲気で指導を受けるということは、現時点でできそうもありません。
それでもこうして時々ブログを覗いております。
お身体に気をつけて、良いクリスマスと、良いお正月をお迎えくださいませ。