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友への手紙
ーインドの旅からー
第10信 賞品授与式
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第10信 賞品授与式
マドラスにて。
小さなフェリーボートに乗り、ラーマ ヤーナの伝説出名高い多島の海峡を渡り、ダヌスコティという港に着いた。ついにインド上陸!
汽車に乗り、細長い半砂漠の陸峡を渡り、ようやく大陸部の高原にかかろうとするころには、もう陽もすっかり傾いていた。ハッとさせられるような美しい夕焼け。これだけでもインドに来た甲斐があったような気がした。
次の日。汽車が3時間も延着して(こんなことは毎日のことらしく、乗客は平然として誰も動じないのには驚いた)、ほとんど丸一日がかりの汽車の旅が終わった。その夜はロヨラハウスの一隅に宿を取りました。
翌朝、お目当てのイエズス会経営のカレッジはすぐに見付かった。門を入っていくと、校内の並木通りの両側には、ベレー帽を横にかぶった制服の学生さんがズラリと並んでいた。訪ねたらカレッジデーだということだった。
「カレッジデーとは?」
「カレッジデーとは、つまり・・・」固いインド訛の早口でペラペラやられると聞き取りにくい。要するに、父兄を呼んでその前で優等生らに賞品を授与し、併せてカレッジの学勢を発表する日のことらしい。
案内されて、講堂の前のほうの席に着いてじっと見ていると、各学科の今年の優等生が次々と壇上に呼び上げられて、来賓のマドラス州知事夫人の手から、銀色のカップや、盾や、メダルを頂戴する。みんなはそれを拍手喝采して讃える。
やがて学長の長い学勢報告が始まる。つまり、今年は国家試験に何人がパスし、その成績は如何ほどであったとか、どんなコンペティションに誰がどんな成績を収めた、とか言うことである。すべては英語で進んでいく。
続いてインドの古典音楽が奏される。楽器はドラムや陶器の壺、それにバイオリンとハーモニーが加わる。突然始まり、リズムもなく、主旋律もさだかならず、思いがけぬ時にまるで話を中断するようにして終わるインドの音楽。
それからベニスの商人とジュリアス・シーザーが上演されて、最後はラビントナー・タゴールによる国歌が講堂に響いて、全員起立して粛然たる中に式典は幕となる。
ぼくはこれを見ながら、ふと岩下壮一神父の伝記を思い出した。少年壮一の暁星時代が今まさに目の前で展開しているのだ。秀才壮一も、学年末の賞品授与式には、校長のエック師から、賞品をもらっていたに相違ない。そして、東京帝国大学に入っては、哲学を研究して、恩賜の銀時計をちゃんとさらっている。明治末期の物語だ。
つまり、インドは今ようやく明治時代を迎えているということか。
インドの学生と日本の学生との間にある大きな相違を、ぼくは今日ハッキリと知った。インドはいろんな意味で確かに遅れている。教育においても、その実質的年限は日本より2~4年も短い。すなわち、20歳の学士さんや修士さまもまかり通っていると言う寸法だ。
自然科学の研究も平均して言えばまだまだ低い。インドの学生たちが外国語に強いということさえ、自国語の教科書や文献の不足から来る、いわば学問の植民地性の名残りでしかない。その点、日本は確かに進んでいると言える。まずすべては日本語で学べる。教育年限は長いし、科学技術は世界の先端を行っており、哲学的にも「現代」に対する自覚をそれとなく感じさせる。
しかし、よくよく考えてみると、一体何が進歩で何が後退であるのかということは、そう簡単に言えないのが分かる。
と言うのは、インドの学生生活を見て、ぼくに大きなショックを与えたものは、実は彼らの外面的な貧しさではなくて、彼らの意識の新鮮さ、彼らの夢の大きさ、そして彼らの理想の高さであったからだ。
彼らには「世界のインドは俺で立つ!」の気概がある。彼らの大学における研究は、彼らが社会に出て為そうとしていることと有機的に繋がっている。彼らは、自分の祖国が明日の世界をリードするものであると信じて、長年植民地支配者の圧政と搾取に打ちひしがれてきた同胞たちの救済に心をくだき、また、対中国のライバル意識に燃え立っている。「中国が核兵器を持った以上、我々も持たざるべからず」と、断固主張するインドの学生に、日本の「核兵器反対」派の学生は何を言うことができるだろう。
「今に見ていろ、我々の国の地下にはあらゆる資源が豊かに眠っているぞ!」床は土のままのきたない寮と蚤の這う硬いベッドに嬉々として甘んずるインドの学生と日本の学生たちとは、まさに正反対だ。
日本では幼稚園予備校にはじまり、親、子、先生三つどもえで、一切が一流大学に向けられる。彼らにとって、人生のピークは入学試験で、その後は惰性で下り坂を滑り降りるだけだ。
「金と暇と特権のあるうちに、遊べ、楽しめ。蛍の光は青春のレクイエムだ!」と言うのが彼らのモットーか。そこには将来に対する夢も、理想も、矛盾だらけの社会を変革しようとする情熱もない。彼らの大学での学問は、現実に対して何のかかわりもになく宙に浮いている。
近代化が進み、高度に成長した社会は、社会の現状維持に全面的に奉仕する人間のみを求めている。それ以外の野心を持つものに対しては、過酷な制裁が加えられ、その弾圧の徹底さは、葬り去った理想主義者、改革者に関する記憶の一切までも社会から抹殺してしまうほどだ。だから学生たちは、出口なしのガス室に入れられた人の群れのように、左翼運動に、クラブ活動に、甘い恋愛沙汰に身をやつし、しばらくはもがいても、やがて静かになる。
こんなことでいいのだろうか。せめてカトリック大学だけは・・・と虚しい期待を寄せた僕は考えが甘かったのだろうか。
現在のインドは1964年ごろのインドとは全く違います。
中国に次ぐ大国。IT 時代の到来とともに、多言語国家の補完言語として、またイギリスの植民地時代からの遺産として英語を流暢に話す若者たちのおかげで、インドはアフターサービスのや技術サポートの世界的なアウトソーシングのバックオフィスとなりつつあります。
東京メトロの東西線に乗って西葛西で降りると、スーパーマーケットのお客の中にはインド人の男女の姿が非常に目立つ。横浜・神戸のチャイナタウンではないが、東京なら新大久保のあたりに韓国人のコロニーがあるように、西葛西には大きなインド人のコロニーがあって、市民権を得ている。
このインド人たちの中には、東京においてインターネット時代の最先端の技術者として働いている人たちが多い。
日本の教育熱心な母親、父兄の中に、小供たちを西葛西のインド人学校に国内留学させる希望者が多いと言われている。小学校の頃から英語で勉強し、数学に強い国際人の若者に育っていくからだ。
私が50年以上前にインドで予感したことがまさに現実になっている。