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創造と進化 ⑥
時計職人のたとえ話
ヘルマン・ホイヴェルス
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私がまだ20歳台の上智哲学科の学生だった頃、ホイヴェルス神父様は「時計職人」の話をして下さいました。
インドのムンバイで ホイヴェルス神父と私(25才) 東京オリンピックの年(1964)
それは大体次のような話でした。
或る時、一人の時計作りの職人がいました。
彼は、紙の上に懐中時計の設計図を書きました。精密な複雑な図面は何枚にもわたりました。
設計が終わると材料の調達です。
大小の歯車のためには薄い真鍮の板を。歯車の軸のために硬い鋼の細い棒を。ゼンマイのためには弾性の強いハガネの帯を。文字盤の材料、針の材料、銀の側と蓋の材料、そして、時計の進み方を一定にするテンプの髭ゼンマイにいたるまで、つぎつぎと必要な諸々の材料を集めます。
仕事部屋に籠って、何日もかけて、設計図通り薄い真鍮の板から大小の歯車を切り出し、中心に鋼の軸を付け、それらを枠の中に組み立て、銀の胴体に納め文字盤を入れ、針を付け、ガラスを嵌め、銀の蓋を付け、・・・
組み立てが完了すると、試しにゼンマイをしっかりと巻き、コチコチと正確に時を刻み始めるのを確かめて、目を細めて満足げにそれを眺め、仕事机の上にそれを残し、近くのカフェーに行ってコーヒーを一杯注文し、それを飲みながらカフェの主人とお天気の話しや、スポーツの話しや、政治の話しに花を咲かせ、さっきまで根気を詰めて作り上げた懐中時計のことをしばし忘れて、ほっとくつろぎます。時計は時計で、作業机の上で時を刻み続けます。
ダリの懐中けいの時計の絵
では、神様も時計職人と同じように7日目に創造の業を休み、宇宙のことや被造物のことを忘れて、天国のカフェーで天使たちとおしゃべりに夢中になられたでしょうか。
答えは ノー です。
それは何故でしょう?
何故なら、時計職人は彼が設計した懐中時計を作る素材を全て外から調達し、それを加工して時計を完成させたのに対して、神様は天地万物を既存の素材に手を加えて造ったのではなく、素材も含めて一切合切を無から創造されたからです。
つまり、職人が作った時計は、職人がその場から姿を消し、時計のことを忘れても、仕事机の上で時を刻み続けることが出来たのに対して、神様が創造し、進化の過程を導かれた被造物の世界は、その素材を含む全てを神様の持続的創造の御業に依存しているのであって、一瞬、一瞬、その存在を全面的に神様の創造の意思に支えられているからです。
だから、神様が集中力を切らして時計のことを忘れ、その結果、創造の持続的意思が一瞬でも途切れると、天地万物はその瞬間に、元の素材である「無」に還ってしまうことになるのです。
つまり、神の被造物は、自分で自分の存在を支えていないので、神の持続的創造の意思を離れては、一瞬も自律的に存続し得ないのです。
上の懐中時計の絵を描いたサルバドール・ダリ
ここまで、ホイヴェルス師は、
質量(materia)と 形相 (forma)
創造(creation)と 形成(formation)
実存(existence)と 虚無(nothing, emptiness)
造物主(creator) と 被造物(creature)
などの哲学的基本概念を、このたとえ話を通じて、わかりやすく私に説明してくださいました。
この一見素朴な「時計作りの職人」の話は、宇宙はどうしてあるのか、世界は、そうして私はどうして存在するのか、という哲学的問いに対して、バランスの取れた、精神的に健全で円満な回答を示唆しています。
それ以外の「解」を求めて、無理に理性を酷使して別の答えを人間の知恵で捏ね上げようとしても、最後には疲れ果てて「ああ、人生不可解なり」と言って藤村操のように自殺するか、ニーチェのように了解不明のたわごとを言いはじめて精神病院に入るかのどちらかが落ちです。
(づづく)