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日本の教会の基本方針と優先課題
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昨日、表記のタイトルでペンネーム「新米信徒」さんから、以下のようなコメントが私のブログに寄せられました。ここに再録します。
2023/03/01 22:54:23
「日本の教会の基本方針と優先課題」
谷口神父様
JP 通信の流れを見て、1981 年から1985 年の間は、第二バチカン公会議を経た日本のカトリック教会にとってとくに大切なときであったように感じます。
カトリック中央協議会の site に、「日本の教会の基本方針と優先課題」があることを知りました。司教団・司教協議会 諸文書 日本司教団関連文書、で、日付は、1984/06/22 です。前文は 8 つの項目からなります。この項目の 2 に関わることですが、この基本方針にある「社会の福音化」と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか? それから、無知な者の感想ですが、上記の文書にある「福音」は、何を指しているのでしょうか?
さっそく、カトリック中央協議会のsite に入って1984年の「日本の教会の基本方針と優先課題」の一文に難なく辿り着きました。
新米信徒さんの私への最初のご質問は、「前文は 8 つの項目からなります。この項目の 2 に関わることですが、この基本方針にある「社会の福音化」と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか?」ですが、まず、「日本の教会の基本方針と優先課題」の大まかな構成を見ますと、それは8項目の「前文」と2項目の「基本方針」から成っています。
さて、問題の「前文」の項目の2は、その前の項目1にある「『全世界に行き、全ての者に福音を宣べ伝えなさい』(マルコ16・15)これこそ主イエスが教会すなわち、神の民全員に与えた使命である。」を受けて、「この使命を積極的に果たすためには、神の民全員が福音の力によって刷新され、また、その同じ福音の力によって日本の社会のすべての営みを、内部から新たにしていくことが必要である。これこそ、われわれが目指す日本における福音宣教である。」と述べています。
つまり、新米信徒さんの第1番目の質問は「福音の力によって日本の社会のすべての営みを、内部から新たにしていくことこそ、日本における福音宣教である。」というのと、谷口神父の記事は全く相反しているのでしょうか、と言い換えることができます。
このご質問は多くのニュアンスを含んでおり、一言で、相反している、ともいないとも断定しかねます。正しい答えを出すためには、まず問題の司教協議会の文書の時代的背景を見なければなりません。
それにしても、「基本方針と優先課題」はずいぶんと偉そうな大ぶろしきを広げたものだと感心します。項目1のマルコの福音の個所をそんな風に解釈するのですかね。「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」(マルコ1・15)という呼びかけは、社会改革の呼びかけなんでしょうかね?
同文書が書かれた1984年と言えば、大2バチカン公会議から20年、私が上智大学文学部中世哲学科博士課程の象牙の塔から足を洗って、国際金融業に鞍替えし、昼間は金の亡者たちに仕え、夜はカトリック正義と平和協議会の国内委員長として活動していた二足の草鞋(わらじ)の一方を脱いで、ただひたすらお「金の神様」(マンモン)の奴隷として、世界のひと握りの超金持ちをさらに富ませ、世界の貧しい人々を貧困と飢餓と内戦の地獄に放置する資本主義のカラクリに奉仕しながら、ちゃっかり高級を食む快適な生活に溺れていた時代で、その間に起こった日本の教会の変質には全く気付いていませんでした。
その後、2足目の草鞋も脱いで、回心して裸足の浮浪者として父の家「教会」に帰り、高松の深堀司教様に拾われてローマに送られ、神父になってしばらくは高松で小教区の主任司祭や司教館で教区会計の仕事をしたり、教区立神学校の建設資金調達に走ったり、神学校が日本では閉鎖に追い込まれ、ローマに亡命して元大分の平山司教様がローマに避難した「日本のための神学院」の院長になられると、老司教様の通訳、兼運転手、兼雑用係でお側にいる間、日本の教会の変質について、司教様の口からしっかりと内情を聞かせていただきました。
ヌメリ派の司教たち 在りし日の深堀司教(左)と、まだお元気だった平山司教(右)
深堀司教様はすでに天国に旅立たれ、平山司教様も97歳(?)で、この復活祭まで大丈夫かとあやぶまれる状態だが、お二人から聞いた話を要約すれば、おのずと新米信徒さんの1番目の質問にお答えすることになるだろうと思います。
第2バチカン公会議が開かれた当時すでに司教であった深堀、平山両司教様と同世代の司教たちは、みなそれなりに公会議から刺激を受け、日本のカトリック教会をどうにかしようと真面目に考えただろうと思います。
今の常設司教委員会の名称と役割分担は分からないが、深堀、平山両司教様の時代には主な司教委員会には「宣教司牧委員会」と「社会問題委員会」があったらしいです。前者は現有信者の信仰を深め、子供の世代に信仰を受け渡し、未信者(私はこの言葉が好きではないが)と求道者を洗礼まで導き、信徒の数を増やし、ひたすら教勢拡大に努める委員会であり、後者は84年の「基本方針」の2にあるように、信者は増えても減っても別に構わないが、弱者の側に立ち、抑圧、差別に反対し、「社会と文化を変革する『福音』」の担い手となる委員会でした。
前者はやや軽蔑をこめて「ヌメリ派」と呼ばれ、「社会派」の司教たちからはあまり尊重されていなかったようです。この「ヌメリ派」の名称は、ラテン語で「数」を意味する「ヌメルス/ヌメリ」という単語から来ていて、いっぱい洗礼を授けて、信者の数を増やすことに情熱を傾ける古いやぼったい司教と目され、弱者を助け差別と闘い社会の変革の旗手となる恰好のいい社会派の司教たちはすでに優勢だったようです。
実際問題として、高度成長期の日本社会では人々の目は物質的価値の方に向いていて、見えない神を説き魂の救済を告げる「福音宣教」の成果は一向に上がりませんでした。それに反して、社会問題に目を向け、正義と平和を高らかにうたう社会派司教たちは、諸宗教と宗派を超えて連携し時流に乗っていきました。
平山司教様が「ヌメリ派」の代表格だった頃には、日本のカトリック教会の16人の司教のうち約3分の1、5~6人の司教たちがどちらかと言えばヌメリ派を支持し、多数派の20人ぐらいが社会派だったようです。
だから、高松の深堀司教が新しい「国際宣教神学院」を設立したころには、その5~6人の司教様たちは神学院を支持し協力的でした。しかし、その後、古手のヌメリ派の司教たちが75歳の定年を迎え相次いて退職した後に誕生した若い司教たちにとっては、第二バチカン公会議はすでに過去の出来事で、しかも現役の先輩司教はみな社会派だったのでその流れにのみこまれていきました。
それでも私がまだ二足の草鞋を履いて、名古屋の相馬司教のもとでカトリック正義と平和協議会で活躍していた頃は、第二バチカン公会議の精神はまだ機能していました。その後いつ「正平協」の変質、変節が起きたのかはっきりわからないが、第1回福音宣教推進全国会議(NICE-1;1986年)かNICE-2(1993年)のあとあたりではなかったでしょうか。平山司教様は私に、ある時、司教協議会の中のヌメリ派の「宣教司牧委員会」が消滅し、社会派が占める「社会問題委員会」だけが生き延びた、と言われました。不思議と、新米信徒さんが引き合いに出した1984年の「日本の教会の基本方針と優先課題」の基本方針1,の「教会の一人ひとりが、宣教者として、より多くの人を洗礼に導き救いのみ業の協力者となる。」という言葉と符合します。
つまり、より多くの人を洗礼に導くのは、一人ひとりの信者の(当然の)仕事であり、司教委員会レベルで取り扱うほどの重大事ではない、と言っているようにも聞こえます。
こうして、司教レベルで取り上げるべき重要課題は、もっぱら社会問題であり、信仰の土着化(インカルチュレーションのイデオロギー)であり、諸宗教対話であり、1984年の「基本方針-2」の「反差別、反抑圧、全ての人を大切にする社会と文化に変革する福音の担い手になる」こととつながっています。
それで、新米信徒さんの1番目の質問の「『日本の教会の基本方針と優先課題』(1984)の『基本方針』にある『社会の福音化』と谷口神父様の記事は全く相反しているのでしょうか?」に対しては「宣教と司牧」を放棄した形での「社会の福音化」とは相反する面もあるが、本来の意味での「マイノリティーの人々に寄り添い、差別に反対し、平等な社会的地位を確保するという点では、「社会の福音化」に全く反しないのだが、その反面、今の正平協が相いれないものとして私を叩いてくるところを見ると、正平協の方が変質し変節していることを自ら告白しているのだと思います。お判りいただけたでしょうか。何とも折れ曲がったややこしいお返事になってしまいましたが・・・。
ところで、新米信徒さんの2つ目の質問、「上記の文書にある「福音」は何を指しているのでしょうか?」については、私は正直なところ「全く分かりません」と答えるほかはありません。
「上記の文書にある」という限定を取り除いて、ストレートに「福音」とは何かと問われれば、その答えは新米信徒さんもすでに持っておられる通り、「福音とはイエスの、そして教会の告げるケリグマ(良い報せ、喜ばしい救いの言葉)と答えます。それが教会の答えです。
生きた信仰をもった人の口から「福音」(ケリグマ)が告知されると、その福音が人の心に届いたとき、神の聖霊が働き、その人の心に信仰に火が灯り、人は洗礼まで導かれて教会の一員になります。その結果教会の信者の数は増え、教勢は盛んになります。
キリスト教社会派のイデオロギーによって狭められ歪(ひずみ)を与えられた「福音」が具体的に何を指すかは、そのイデオロギーの信奉者に聞いてみないとわかりませんが、その「福音」が人の心に信仰の火をともすことになるかどうか、私にはわかりません。
「福音宣教」を放棄し、あるいは二の次にして、社会問題にのめり込んでいく教会は、キリスト教の名に値しないと思います。『全世界に行き、全ての者に福音を宣べ伝えなさい』 (マルコ16・15)は、第一義的には「福音宣教」への促しであって、それは人の魂を神に気づかせ神へ方向付けることです。地上的、社会的問題に埋没することではありません。
それは、「あなた方は地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味がつけられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなた方は世の光である。ともし火をともして桝の下に置く者はいない。」(マタイ5・13-15)とあるように、味を失った塩、覆われたともし火として無益なものとなり、捨てられるものとなることです。ケリグマとしての「福音」を時なるも時ならざるも叫び続け、人々を神の国に招く第一の責務を放棄して、無神論者、自然宗教者と手を携えて社会の福祉と正義のために没頭する教会はキリスト教の教会ではない。
ブログのコメント欄にはたくさんの貴重なコメントが寄せられていて、きわめて示唆に富んでいます。新米信徒さんも常連です。ブログのコメント欄では、ほとんどリアルタイムで意見の交換が可能です。それに読む人の数は圧倒的に多いです。どうか覗いてみてください。
極めて限られた発行部数の、しかも「福音と社会」のように隔月発行では、その投書欄で議論を戦わせようにも間延びがしてお話になりません。カトリック新聞のように週刊新聞でさえも、意見の広場としてはスピード感が今一つです。その意味で、ブログのコメント欄は読みに来る人の数においてもスピードにおいても、申し分ありません。その意味で、私のブログのコメント欄を、話し合いの広場として開放したいと思います。どうぞ自由にご利用ください。
詳しくかつ貴重な証言をありがとうございます。以前は他人事として読んでいた森司教様の本にある証言をもう一度読みたいと思います。
「教会の祈り」を唱えていて、次の書き込みがありました。四旬節金曜日の朝の「共同祈願」がある項に、27/03/2020 イタリアの司祭に、と。全く忘れていましたが、このときは、フランシスコ教皇様がイタリアの多くの司祭の方を派遣されて、多くの司祭の方が新型コロナウイルスに感染して帰天されました。 司祭の方が、多くの亡くなられた方のご遺体に聖水をかけている姿を映像で見たことは覚えています。フランシスコ教皇様は社会のことだけではなく、魂の救済のことも徹底して行われる厳しい方だと感じたことを思い出しました。
教会にっても福音を実感できないなら福音そのものを投下とかね。
つまりセンス。
今回もそうなればいい思う。