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カトリック正義と平和協議会と私
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私は1970年代の後半、「日本カトリック正義と平和協議会」のメンバーで、国内委員会の委員長をしていた。そのころのエピソードを私の一冊目の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房2009.5.8.第3刷)に書いた。ここにその部分の抜粋を転載する。
突然の解雇
ある日の午後3時ごろ、所長のシュナイダーが私を部屋に呼んだ。彼の机の上には横長の角封筒が一つ置いてあった。中身をこの場で読めと言うから出してみると、一枚の紙に、「貴殿と我が社の信頼関係が修復不可能なまでに破壊された故に解雇する。本日5時までに私物を纏めて事務所を去るように。」と英語で書いてあった。理由も何も、具体的なことは一切記されていなかった。人の生活の土台を奪う解雇って、意外に簡単なセレモニーで完了するものだと感心している場合ではなかった。
しかし、その私には、胸に思い当たる事が一つあった。それは、数日前の新聞に載った小さな記事が原因のはずであった。私の側からすれば、何も首になるような重大事件ではないと言いたいのだが、新聞沙汰になってばれてしまった以上、企業がそう判断するのも致し方が無いことか、とも思った。
地下アーケードまでエレベーターで下りて行って、通い慣れた文房具屋から特大の紙袋を二つ買ってきた。それに机の中の私物を黙黙と詰め込み、皆には「じゃ、さようなら」と言って、タクシーでさっさと家に帰ってしまった。一人になって、ベッドの上にひっくり返って天井を見つめながら、起きたばかりの出来事を心の中で反芻した。そうしているうちに、一旦はしょうがないか、とあっさり受け入れたこの解雇、やはりどこか承服し難い一面があるぞ、という思いが次第に膨らんできた。そこで、キ政連を通じて知っていた中平健吉弁護士を、銀座の事務所に訪れて相談してみることにした。
キ政連とは、正しくは「キリスト者政治連盟」と言い、国政レベル、地方レベルを問わず、選挙に立候補して政治家になろうとするキリスト者を、宗派を超えて支援する政治団体で、よく知られた名前では、後に社民党の党首になったプロテスタントの土井たかこ氏や、自民党で郵政大臣になったカトリックの白浜仁吉氏などを応援していた。
先生は、「人権の中平」と呼ばれ、敬虔なプロテスタント信者で、元東京高裁判事、当時はアムネスティーインターナショナル日本支部長を務める傍ら、社会の様々な人権問題に、採算抜きの弁護活動を展開してきたことで有名だった。
先生は、私の話にじっと耳を傾けられた。私がコメルツバンクの社員であること。個人としては、クリスチャンであり、カトリック正義と平和協議会の活動的メンバーであること。同委員会の国内問題小委員会の委員長として、国内の公害問題に取り組んでいたこと。具体例としては、千葉川鉄公害訴訟として有名になった、川崎製鉄の千葉焼結工場から排出された公害物質による環境汚染の責任追及のため、夜な夜な川鉄の社長宛にカトリック正平協の名(カトリック正義と平和協議会会長相馬信夫名古屋司教)による公開質問状の原稿などを書いていたこと。
その同じ私が、昼間は川崎製鉄の4000万マルクの外債発行幹事銀行の担当者として、同社の資金部と毎日のように接触していたこと。なお、この4000万マルク(約50億円)の資金は、千葉の古いプラントを、フィリッピンのミンダナオ島に移設して稼動を続けるための資金として使われるらしいこと。このプラントを何年稼動させると、どの程度の環境汚染が広がり、どの程度の公害病患者を生むか、すでに千葉の被害状況で実証済みであったが、新たな設備投資を必要とする公害対策を施すより、そのまま第三世界に移転する方が安上がりと言う判断が背後にあるらしい事などを、東大の有名な万年助手、宇井純氏の「公害原論講座」に顔を出して学んでいたこと。私のしていた反公害活動が、「活動するキリスト者」シリーズの記事として新聞に取り上げられ、実名と顔写真が出てしまったこと。解雇のタイミングから見て、その新聞記事が直接の解雇理由だと思われること、などであった。
話を聞き終わった中平弁護士は、もし本当に私の言う通りなら、不当解雇で訴えれば勝てるかもしれない、と言われた。私も、一人の人間がどういう哲学を持ち、個人の自由な時間にどのような活動をするかまで、企業が干渉するのはおかしい、と考えていた。今回は、仕事上の関係先と、個人の社会的活動の対象がたまたま重なってしまった、いわば全くの偶然に過ぎず、私の意識の中では公私整然と分けられるものと考えていた。
私は、裁判と平行して、自分で出来ることは何でもやってみようと思った。手始めに、普段から仕事の上で親しくしていた証券会社の国際金融担当者らに手紙を書いた。自分は解雇されたが、この解雇には承服しがたいものがあるから、裁判で戦うことにした。支援してほしい、という趣旨であった。できれば、コメルツバンクのトップに、解雇を撤回するよう圧力をかけてほしいとも頼んだ。
これが意外と効を奏した。実に沢山の人から、コメルツバンクのフランクフルトやデュッセルドルフの役員に、この解雇には疑義がある、という趣旨のテレックスや手紙が送られたのである。中には、私の依頼を受けて社内で検討したが、他企業の内政干渉になるので、社名を出しての直接介入は出来ないが、負けるな、頑張れ、という個人的な励ましが届いたりもした。
このような展開になった背景には、実は、当時の駐在代表のシュナイダーという男の評判の問題がひとつあった。彼は決して悪い人間ではなかったが、できる人間でもなかった。
一般論として、私は自分の信じるところは簡単に妥協しないため、すぐ上の小物の人間とはギクシャクすることが多かったが、遠くにいる大物のボスたちからは受けが良かった。シュナイダーは私よりいくつか年若かったが、何かにつけて地位を傘に見栄を張り、仕事は人に任せて、パーティーを好むタイプだった。本店でもその辺はわかっていたのだろうと思う。だから、彼が私を首にしたいと申し入れたとき、一旦はOKを出したものの、その後の取引先からの抗議の殺到など予想だにしなかった本店は、この新しい事態を前に、シュナイダー!一体お前は何をしておる?と言う雰囲気になったとしても不思議ではなかった。
急遽、フランクフルト本部から役員が東京入りして、事態の掌握と収拾に乗り出すことになった。私を自宅から呼び出した役員は、二人だけの席で、「とにかくすぐに戻ってくれ。頼む!ついては、いくら欲しいか?」と切り出した。私は金が欲しくて裁判しているわけではなかったので、それには答えなかった。中平先生のところに行って、こうこう言っていますがどうしたものでしょうかと訊ねると、「このようなケースは極めて稀だが、法廷の外で問題の解決が図れるのなら、それに越したことは無い」と言われ、タイミングを失することなく速やかに復職に応じるよう助言された。私は、解雇が不当であったことをはっきりと公に認めて、従前どおり働けるようにしてくれさえすれば、金は要らないと言った。ただし、私の側に生じた費用は全て会社が支払うよう要求した。
中平先生は笑いながら、自分は依頼を受ける案件の性格上、今まで弁護士報酬規定通りの弁護料を受け取ったことが無かったと言われた。そこで、今回はひとつ、規定が許す目一杯の弁護料を計算して、それを全額請求しようではないかと言うことになった。
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以上が私の著書からの引用だが、私は若いころから曲がったことが許せなかった。それが災いして、83年間の人生で、何度か窮地に立つことがあった。
今回のLGBTの問題でも、「福音と社会」誌からの依頼に応じて真面目に書いた「書評」が原因で、あらぬ迫害を受けることになったが、恐れない。戦いの相手はLGBTのマイノリティーの人たちではない。シンパの活動家たちでもない。本当の相手はその背後で彼らを操っている闇の勢力、悪魔(サタン)であることを自覚している。彼は人間よりも賢(かしこ)い。ルチフェル(光を運ぶ者)と呼ばれた最高の天使として神に愛され創造されながら、神よりも偉くなろうとして傲慢の罪を犯し、天から追放されて地獄の闇に落ち、今や暗闇の帝王となった。以来その闇の底から神の寵愛を受ける人類に対する妬(ねた)みに燃え、神に愛された人間を滅ぼそうと執念を燃やしている恐ろしくも侮りがたい霊的存在だ。
神の子、救い主イエス・キリストを滅ぼそうとして、罪のない聖者イエスを十字架の上で殺すことに成功した彼だから、この罪にまみれた老いぼれ神父を、交通事故を装って消すことも、暴漢を差し向けてブスリとやることも朝飯前だろう。現にハリーポッターの作者ローリング女史のちょっとした発言に逆上して、たくさんの殺害予告の恫喝をかけ彼女を黙らせようとしたほどだから、無名の私をどうにかする気になればたやすいことだろう。
今ロシアでプーチンを批判すれば、何年も牢獄に繋がれることになる。それでも勇気ある人はそれに甘んじて声を上げている。いま、LGBT問題で不当な汚名を着せられることを恐れて尻込みをして言うべきことを言わなくなったら、カトリックの神父の名が廃(すた)る。
聖書のルカの福音書5章「イエスの山上の垂訓」10節には「義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」と記されている。今その聖句が私に当てはまるとすれば、信仰者冥利に尽きるというものだ。キリストは十字架上の死を通して復活の命に甦った。私もその復活に与って天の国で永遠の命を得たいものだと願っている。
それにしても、ノマド28号 というペンネームの読者のから頂いた「スーパーマイノリティ」(2023-02-22 18:22:49)というコメントには興味深いものがある。
〔スーパーマイノリティ〕
久しぶりにじっくり読みました。LGTPは人間性に深くかかわる課題だけに議論をしないといけないはずなのに、マスコミは一方的な擁護論だけで終始し、自由な発言を阻止しています。発言すれば魔女狩りの餌食になります。今回の評論の一番愉快だったのは、「スーパーマイノリティ」という発言です。
今はともかく、若いころの私はその一人で子供を5人授かりましたが孫も次々生まれ人生になんの悔いもありません。
10年以上前に仕事の関係でカトリック正義と平和評議会を知りましたが、この協議会は伏魔殿というか、はっきり言ってカトリックの仮面をかぶった日本破壊集団です。信者として恥ずかしい限りです。いつも司教たちを裏で操作して自分たちの主張を通そうとします。師の評論に全面的に賛成することはできませんが、協議会ととことん戦ってください。応援します。
私はこの応援に意を強くして調子に乗るわけではないが、ノマド28号 さんの描いた正義と平和協議会の姿が正しいかどうか、かつての正平協しか知らない私には信じがたい話だが、もしそれが正しいとすれば、私が正平協の国内委員長をしていた時のそれと名前は同じでも、中身は180度真逆のいかがわしい存在になり下がったことになる。
相馬信夫名古屋司教様が正平協の会長だった頃の同協議会は、誠実に世の中の正義と平和の促進・維持のために日常的に積極的に献身する大勢のボランティア活動家を擁していた。私も上記のように職を賭して働いた。
今の正平協はどんなテーマと取り組んで対社会的活動に何人のボランティアーが活動しているのだろうか。それとも名前だけになって、ボランティアー活動家はいなくなり、具体的テーマのもとに内実を伴った地道な日常活動をすることも、意見・声明を積極的に発信することもやめてしまって、死に体になり下がったのだろうか。
当時は相馬司教は毎月少なくとも一回、月によってはそれ以上も名古屋から東京四谷の中央協議会まで通われて、自ら若い活動家らの陣頭指揮をし、熱い議論に参加されていた。今のお二人の司教様はどうしておられるのか。ご自分の傘下にそういう活発な若い活動家集団を今も養っておられるのだろうか。LGBT問題についても、カトリックの性に関する正しいモラルの教えを世に広めるためにどんな啓蒙活動・発言を日常的にしておられるのだろうか。具体的には岡山の女子大の「性自認女性」である「男子学生」の入学問題について正平協の正しい見解を発表されたのであろうか。まさか、賛成・同調・賞賛のお墨付きをすでに与えておられないことを祈りたい。
もし、正平協が一方ではLGBTの様々な問題点を黙認し、賛同し、推進し、他方では信仰と良心と信徒を正しく牧する責任感から、勇気を出して迫害と危害を受けるリスクを顧みず、世の風潮の流れに竿さして孤軍奮闘している弱い老司祭を擁護することをせず、見殺しにするばかりか、正当な理由・証拠も示さず、圧殺し沈黙を強いるために不当な圧力を行使することが正平協の唯一の行動だというのであれば、ノマド28号 さんの発言は真実を突いていることにならないだろうか。
私は、先日正平協の両司教方に手紙を書いて率直に二つの質問をした。
① 司教様はあの声明文を出す前に、私の「書評」全文を原文ですべてお読みになりましたか。
② あの声明文はご自分で文案を作成されたのですか。
バーント司教様(正平協会長)からはいまだにお返事がないが、担当司教のガクタン司教様からはメールでお返事があった。
そこには直接私の書評になんの関係もない抽象的なお説はいろいろ書かれていたが、肝心の ① に対しても ② に対しても明快な「イエス」というお答えはなく、言い訳じみた文言が並んでいた。
それはそうだろう、「イエス」と答えたら、神様の前に良心が痛む。しかし、正直に「ノー」と答えたら、私から「ではなぜ読みもしないで判断できたのか。他人の書いた声明文になぜめくら判のサインをしたのか」、という次の問いが飛んでくることが予想できる。だから答えられないのだ。
公正な読者の皆さん。あの声明文は不当なものだとは思われませんか。もし、今の正平協が常設の活動を推進し発信を続けることを辞めて、開店休業の空疎で実体のないものになり下がり、誰かからつつかれた時だけ事案の内容を自分の責任で精査し判断することもなく、誰かが作文した声明文の内容を正確に理解しその責任の重さと社会的影響に思いをはせることもなく、めくら判を押すだけの案山子のような存在になり下がっているのなら、私を非難する資格はないと思うがいかがなものでしょうか。
ウクライナ戦争が始まって一年の節目に当たり、もし天国の相馬司教さまならどうなさるか、聞いてみたいものだ。私の知っている司教様なら、配下の活動家を叱咤激励して、ウクライナの戦争被災者の救援のために活動するように、プーチンに対しては直ちにウクライナから兵を引くように、声明文を出されたのではないだろうか。それが、正平協の今なすべき急務とだと思うのに、なぜ手をこまねいて何もせず、正しい声を上げた神父を護らず、かえってつぶそうとするのか。
私の書いた書評のどこがどう間違っているのか。もう一度ゆっくり、分かるまで繰り返し読んで、具体的に答えていただきたいものだ。
レインボーパレード
それにしても、何かがおかしい。当時私は正平協の国内委員長として公害問題に取り組み、大企業の資本の巨悪と戦って、公害被災者の弱者の擁護のために戦った。同じ国内委員会の同和問題(被差別部落問題)部会で活躍していた京都教区の越智神父さんは、部落解放運動の「水平社」の理念に共鳴し、社会の部落差別と闘ったものだ。しかし、越智神父は同和問題に名を借りて、一連の「差別用語」のリストを作って、それを使った有名作家に「差別的」のレッテルを貼って、脅しをかけ、恐喝し金をむしり取るようなヤクザまがりのやからとは厳しく対決した。曽野綾子さんなどは肝が据わっているから、あの言葉この言葉は差別用語だと言い立てて、作家を脅すような輩に気を使っていては、文学は豊かさを失ってしまう、と一蹴していた。そういえば、新共同訳聖書は同じ理由で聖書から「癩」、「癩病」という言葉を削除し「重い皮膚病を患った人たち」と訳し直したが、これなど聖書の教えをわかりにくくする悪しき翻訳だと言いたい。「レプラー」は癩病という特定の病気であり、皮膚病一般の程度のきつい部分に抽象化するのは明らかに誤りではないか。
LGBTであれ、部落問題であれ、どのマイノリティー問題にも、擁護され保護され差別を撤廃し人権と平等を確保されるべき面、光を当てるべき面と、その陰に忍び寄り執拗にくっついてきて邪悪な意図を実現しようとする陰の部分が付きまとう。そして、その陰の部分に悪(悪魔=サタン)が住み着き、思いを遂げようとする部分がある。この闇の部分を見破ってそれとは戦おうとする者には事実に反して「差別者」のレッテルを貼って排除し、黙らせ、闇の領域を拡大しようとする。人間より賢い邪悪な霊の常套手段で、善意だけの普通の人はコロッと騙されてそちらに流される。
今、LGBTの陰で暗躍しているその霊は、そのからくりを見抜いて警鐘を鳴らす人たちを、ヒステリックにたたきまわっている。
私は、性的マイノリティーは手厚く擁護され、同伴され、平等に人としての尊厳を認められなければならないという原則に忠実に声を大にして叫んでも、私のその面は見て見ぬふりをして隠し、ジェンダーのイデオロギーの陰に潜む危険な要素を指摘すると、突如「差別的」のレッテルを貼って大キャンペーンを張って私を葬り去ろうとする。
相馬司教様も、そのもとで正平協の名で戦った越智神父や当時サラリーマンだった私などが共有していた「正義と平和」の高い理念に基づけば、当然擁護され顕彰されるべきハリーポッターの作者ローリング女史や ”Sex Change Regret” (性転換悔悟)のウオルト・ハイヤー氏や私のような人間を、今の正平協は非難し切り捨て、その対極にいるジェンダーイデオロギーの側につくというのだろうか。この正平協の変節ぶりを天国の相馬司教様は悲しんではおられないだろうか。
第2バチカン公会議の新しい教会の理想から「カトリック正義と平和協議会」はまずバチカンに生まれ、世界でフォローされ、この闇の巨悪と戦って、成果を上げた。相馬司教のころは、そして私が相馬司教のもとで働いていた頃は確かにそうだった。しかし、あれから60年、その巨悪はマイノリティー問題の光の部分が不可分に、また必然的に伴う闇の部分に忍び入り潜んでいつの間にか正平協にも浸透し乗っ取り羊の皮を着たオオカミとして住み着いたのかもしれない。教会の権威と教会人の善良さを羊の皮としてかぶったオオカミを見抜かなければならない。
私が指弾しているのは利用されている正平協の機関でもそれを代表する尊敬すべき善良な高位聖職者個人でもない。彼らを知らないうちに利用してしまっている悪しき霊そのものだ。しかしその悪しき霊は私があたかも教会の権威ある組織を攻撃し、聖職者を貶めているかのごとくに宣伝し、自分は無傷で勢力をのばし、ますます悪をばらまこうとしている。彼は人間より賢い。堕落した天使だから。
「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。」(ヨハネ15:20)とイエスは言った。イエスに似たものになれれば幸いだ。
キリストを十字架の上で処刑することにさえ成功した邪悪な知恵者だ、私を完膚なきまでに打ちのめして消してしまうことぐらい朝飯前ではないか。
では本当に正平協は ノマド28号 さんのご指摘どおり、変節し、羊の皮をかぶったオオカミに乗っ取られてしまったのだろうか。私の皮膚感覚では、60年前の正平協と今のそれとははっきり空気が違うのは確かだ。
見てもいけない、とは。
言論統制のような。
書評のすべてに同意するというわけではありませんが、こういう視点がある、聖書をこう解釈している、と新しく知ったり、外国の動向を知ったり、と読んだからこそわかることも多かったです。