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《一部補足》
そこまで言ってしまって大丈夫なの?
フランシスコ様!
教皇の不謬権とは関係ないとしても・・・
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日本のカトリックメディアでは絶対に報道されない記事であるが、外の世界では公然と流布されている実に興味深い情報を入手したのでお披露目しよう。
《ドミニカ共和国の旅人責任者チームの手紙から》
6月23日の晩、ここで旅人の集いをしている最中に、突然、サント・ドミンゴ大司教区の名誉司教であるラモン・デラロサ・カルビオ司教の訪問がありました。彼はわざわざ大雨の中、サンチャゴ市から来られ、こう語られました。
「少し前(2015年5月28日)、わたしたちドミニカ共和国の司教たちは、アド・リミナ(教皇への5年毎の表敬訪問)を行いました。
従来は各司教と15分ずつお会いになり、最後に司教団全体に短いメッセージを与えられる習慣でしたが、今回は、形式を変えて、司教たち皆と一緒にお会いになり、1時間以上、父親のように親しく私たちと語り合われました。
私が今、この集いに来たのは、その謁見で語られたとても大切なことを詳しく皆さんに伝えたいと思ったからです。
ファウスト司教が、ドミニカ共和国には全教区のための大神学校が一つあることと、その他に二つの教区にレデンプトーリスマーテル神学院があることを話したのを受けて、教皇様は「新求道共同期間の道」に焦点を絞って話されました。
その話がとても重要に思えたので、私はノートを取り出し、教皇様が話されることをメモしました。その内容は以下の7つのポイントにまとめられます。
1. キコ・アルグエヨについてはいろんな事が言えますが、疑えないのは彼
が聖人であるということです。
2. 新求道共同期間の「道」は、教会における聖霊のみわざです。
3. ですから、このキリスト教入信の「道」を支え、励まし、見守るように
あなた方に勧めます。
4. 私は共同体の宣教の精神をとても評価しています。今年、私は教会の存
在しない、または教会の存在が危うくなっている国に100組以上の宣教
家族を派遣したところです。
5. レデンプトーリスマーテル神学院について次のことを言います。この神
学院なしにローマ教区はどうなることでしょう。ローマ教区の為に私は
16人の司祭を叙階したばかりですが、その中の13人は新求道期間の
「道」に属する人たちでした。あなたがたはこの結果から考えてみてく
ださい。
6. 新求道期間の「道」は教会にキリスト教生活の中心となる復活徹夜祭を
復興させました。(「これは私も証します。私自身1994年から共同体と
一晩かけてその徹夜祭を祝ってきました。」ラモン・デラロサ・カルピオ
司教)
7. 新求道期間の「道」はキリスト教入信について一番良く知っています。
ですから、彼らと話し合い、もし必要ならカテキスタや共同体を正して
下さい・・・(正すことは愛することですから)。ただし、あくまでその
「規約」を尊重しながらにしてください。
デラロサ司教はこの話を終えてから、わたしたちを祝福し、大雨の降り続く中、サンチャゴ市に帰って行かれました。同司教は、教皇様がわたしたちに対して持っておられる大きな愛を自分の声で私たちにただ伝えたくて、300キロの道のりを来て下さったのです。
神様が彼を祝福し、私たちに善をもたらしたその言葉の為に報いてくださいますように。
サント・ドミンゴから愛を込めて挨拶を送ります。
アロンソ神父
皆様は、このアロンソ神父のレポートから何を感じられましたか。
わたしはまず、上の第1点に度肝を抜かれました。聖教皇ヨハネパウロ2世は生前から聖人の誉れが高かった。私も身近にその人柄に接してその点に疑いを抱かなかった。マザーテレサについても同じことを感じた。この二人について世界中に異存のある人がいただろうか。
しかし、今生きているキコ、わたしと同い年のキコ、ある意味で日々きわめて近いところで親しく接しているキコが聖人か?彼の性格、限界、欠点も見てきた私は、個人的確信としては、彼はやはり聖人だろうと思うが、世の中にはそうは思わない人も決して少なくないだろう。特に、彼が提唱し、今世界に日の出の勢いで広がりつつある新求道期間の「道」を受け入れ難いと思っている少なくない数の人々にとって、キコを聖人と呼ぶことは強い抵抗があるし、世間が彼を聖人として持ち上げることを苦々しく思っているに違いない。さりとて、市井の一個人がそう思ってそう言って歩くのは勝手だし、誰もそれを止めさせることはできない。
しかし、カトリック教会の頂点に立つ教皇フランシスコその人がそう公言したとなると、話は全く違ってくる。教皇の口から出る言葉には計り知れない重みがあり、また責任もあるというものだ。
一人の信者が聖人の位に挙げられるためには、死後何十年もたって、教会の機関がその人物の生涯の言葉、行い、人となりの全てにわたって、恐ろしく厳密な調査と吟味を経なければならない。キコが今後どんな生き様、どんな人生の終わり方をするか、まだ全く未知数のうちに、こともあろうに教皇が彼を公然と聖人呼ばわりするのは穏やかではない。
1870年の第1バチカン公会議において、教皇の不可謬性が教義として正式に宣言された。それは、ローマ教皇が「信仰および道徳に関する事柄について教皇座から厳かに宣言する場合、その決定は聖霊の導きに基づき、常に正しく、決して誤りえない」という教義のことだ。
このブログを読み返しながら思い出したエピソードがある。それは、教皇フランシスコがキコに初めて与えた謁見の場面のできごとだ。キコは自己紹介として言った。「私は罪人です」と。すると教皇が答えた。「私も罪人だ。二人して罪人だね。」これが、初対面の聖人たちの会話というものだろうか。
教皇フンシスコがある国の司教たちの集まりで、まだ生きているキコを聖人だと言ったからといって、直ちに間違いなくキコが聖人と決まったわけではないし、まして、その発言が不可謬だというものではないが、実にきわどい発言だとハラハラする。これが逆効果を生んで、新求道期間の道やキコに対する風当たりが今まで以上に強くならなければ良いが、と思う。
2.の《「道」は教会における聖霊のわざだ》というのは歴代の教皇が繰り返し述べていることで、第3点とともに今さらどうということはない。4.の宣教家族の派遣は、聖教皇ヨハネパウロ2世が先鞭をつけたものだが、ベネディクト16世に引き継がれ、フランシスコ教皇の代に至って、もはや「道」の問題ではなく、全教会の公式行事として定着した感がある。5.の神学校の問題は、今や世界中どこでも、在来型の神学校がどちらかと言えば司牧者の養成機関だとすれば、レデンプトーリスマーテル神学院は宣教者の養成機関として車の両輪のごとく必須のものとなりつつある。母なる教会の原型のような教皇のお膝元のローマ教区が既にそれを不可欠の重要な要素として教皇が認めるのであれば、それが全世界に及んで定着する日は近いに違いない。現に、すでに5大陸に103のレデンプトーリスマーテル神学院の姉妹校が展開し、主な国には少なくとも一つ存在している。日本のためにはベネディクト16世教皇の手によって、ローマに「日本のためのレデンプトーリスマーテル神学院」というのが設立されている。
日本の教会だけが、世界の趨勢から取り残されることのないようにと祈る。
教皇さん,そんな事を言ってましたか!
(出典のリンクを貼っていただけると嬉しいです。読んでみたいです。)
キコ氏は、
見た目からしてもう胡散臭いんですよね。
しゃべりっぷりもそうです。
それでもって高位聖職者らを前にして
堂々と、かつとうとうと語ってしまいますから、
見方を変えれば不遜といいますか、
まあ、日本人には受け入れ難いタイプです。
私なども見ていて、
教皇の前ではマフラーぐらい外しましょうとか、
せめて髭ぐらい剃ったらとか思ってしまいます。笑
でも、
一代で何かを築き上げた人というのは、
みんなあんな感じではないでしょうか。
何よりイエスその人が、
当時はそうとう胡散臭い人だったと思います。
レビだかラビだかを向こうにまわして、
愛だの何だのって説教するわけですから、
胡散臭さプンプンです。
口も達者だったはずですし、
キコ氏みたいなものですよ。
いずれにしても、日本だとあのタイプは、
詐欺師に多いです。
おそらく日本の司教団は、
実際そう思っているのではないでしょうか。
今の日本の教会では、
キコ氏にしてもその共同体にしても、
批判も含め語ること自体はばかれるという感じです。
「道」なんて言葉を口に出そうものなら、
何バカなこと言ってるんだ、
と白い目で見られそうな雰囲気さえあります。
つまり、今や日本の教会では、キコ氏は、
アンタッチャブルな存在になってしまった、
ということです。
そのようなわけで、
今のこのような日本に、
キコ氏のシンフォニーを引っ張ってきてもどうかなあ、
という思いは正直なところありましたので、
確かに残念ではありますが、
今回中止になって、私はある種の安堵感も抱いているところです。
(すみません、神父様。)
それにしても、
教皇もキコ氏も見事なまでに日本をスルーしてくれたものです。
でも、仕方がないですよね。
今の韓国と日本では差がありすぎます。
もはや、日本は重要な宣教地とはみなされていないのでしょう。
ヨハネパウロ教皇が来た頃が、
日本の教会の頂点だったと思います。
魅力的な神父さんやシスターがきら星のごとくいました。
皆この方たちに導かれて洗礼を受けました。
今、そういう魅力的な方はほとんどいません。
いたとしても、
日本を追われローマにいたりします。笑
とはいえ、司教さんたちも、
外国語の1つぐらいはできるのでしょうから、
キコ氏とその共同体が日本以外でどのように評価されているかはよくご存知と思います。
そして、日本の教会を立て直すためには、
キコ氏の力が必要なことも、
本当は理解されていることと思います。
今どき、みんな違ってみんないい、
なんてことは子供でも知っています。
意地張らないで、
日本の教会の未来のために、
歩み寄ってほしいものです。
聖人どうしだったら「私は聖人です」「私もです」と話すのでしょうか?
逆だと思いますが・・・へりくだりの徳のよって。本当に聖なる人たちは 決して思いあがったりはしないものですし。
「疑いえないのは、彼が聖人だということです」
こう訳すると 決めつけの感がありますが
「彼が聖なる人ということです」だと
和らぐでしょう?ラテン系の言葉ではよくこういう言い回しをします。どなたが訳したのか存じませんが、「教会が列聖した聖人」という意味で話されたものではないはずですよ。
キコ師のことを「うさんくさい、ひげくらいそればいいのに」と前のコメントにありますが 「ひげがないほうがいい」というのは日本人の感覚で 欧州系の人々は きちんと手入れしてある髭は 髪と同じように見ますから すこしもおかしくありません。
私は NEO CATECUMENA のメンバーではありませんが
イタリアに23年在住している カトリッククリスチャンです。
アシジのフランシスコは間違いなく中世の大聖人ですが、生前から聖人の誉れ高く、キリストの再臨と思った人もいたと言います。その彼は、自分が聖人だなって夢にも思わず、自分が世界一の大悪人、大罪人と確信して疑わなかったでしょう。
キコが自分は罪人です、と自己紹介した時、それは修辞学的謙遜でも、逆説でもなく、ぶっきらぼうに文字通りそう信じて疑っていないところが問題なのです。教皇フランシスコも全く同じです。
P.S. We have just received news from Alonso, the itinerant of Santo Domingo of something which I think is very important for all brothers and sisters: on June 23, in the afternoon, in the middle of the Itinerant’s Convivence, His Excellency Ramón de la Rosa y Carpio, Archbishop Emeritus of Santiago, Dominican Republic, showed up unexpectedly. He came directly from Santiago, in the middle of a powerful rain storm, in order to personally tell us: "A short time ago, we had the AD LIMINA visit of all bishops from Santo Domingo. The Holy Father received us breaking protocol. Before, he would receive us one by one for fifteen minutes each and he would conclude with a brief common message. This time he changed the protocol and received us all together, paternally dialoguing with all of us for more than one hour and a half. The reason for my presence here is because I want to tell you with details something very important which was said during that audience. The Holy Father, when Bishop Fausto spoke about the existence in the Dominican Republic of an Inter-diocesan Seminary and of two Redemptoris Mater Seminaries, focused his dialogue on speaking about the Neocatechumenal Way. I realized that what he was saying was so important, that in that moment I took out my notebook and started taking notes of everything he said. The pope centered his speech on 7 points:
FIRST: Many things have been said about Kiko Argüello and many other can be said. However one thing is sure: HE IS A SAINT.
SECOND: The Neocatechumenal Way is of the Holy Spirit for his Church.
THIRD: Therefore, I strongly exhort you to support, encourage and follow this Christian Initiation.
FOURTH: I value very positively the missionary dimension of these communities. This year I’ve just sent out more than one hundred families to where there is not a presence of the Church or it’s very small.
FIFTH: Regarding the Redemptoris Mater Seminaries, I say the following: what would it be of the Diocese of Rome without it? I’ve just ordained 16 priests and 13 were from the Neocatechumenal Way. You draw the conclusions.
SIXTH: The Neocatechumenal Way has restored in the church the EASTER VIGIL, which is the center of Christian life.
SEVENTH: The Neocatechumenal Way is the one that knows the most about the Christian Initiation. Consult them and, if necessary, correct the catechists, the communities…(because to correct is to love)…but correct with the Statutes in your hands.
Posted by Diana at 12:46 AM 1