麻賀多神社(まかたじんじゃ)。
場所:千葉県成田市船形834。吾妻中学校の西、約800m。駐車場有り。
当神社の由緒については、前項の「麻賀多神社」(成田市台方)を参照。祭神は稚日霊命。
当神社は、式内社「麻賀多神社」のいわゆる論社ではなく、その元社であり、奥宮であるとされる。因みに、現・成田市、佐倉市、富里市などを含む印旛地区に「麻賀多神社」と称する神社が18社あるとされるが、論社ではなく、台方の式内社「麻賀多神社」及びその奥宮である当神社の分社で、特に争いはない。
当神社の特色は、何と言っても、古墳の隣にあることで、しかも、その被葬者が初代印波国造・伊都許利命(イツコリ)であるとの伝承である。イツコリは、神武天皇の皇子・神八井耳命の8世の孫といい、阿蘇国造や科野(信濃)国造など、多くの国造家を出した一族である「多(おお)氏」に連なる。一説には、「麻賀多神社」の「多」の字は「多氏」に因むという。
この古墳がイツコリの墳墓であるということは確認されてはいないが、現・成田ニュータウンを中心に広がる印旛沼東側の古墳群の規模から見て、この付近が印旛国造家の中心地であったとみて、間違いはないだろうと思われる。この古墳群は、地名をとって「公津ヶ原古墳群」というが、「こうづ」というのは元々「国府津」(国府の港)、あるいは「神津」であったともいわれている。
玄松子さんのHPから(麻賀多神社(船形))
写真1:「麻賀多神社」(船形)境内入口の石鳥居。傍らの社号標は「総社 麻賀多神社」となっている。
写真2:社殿前の両部鳥居
写真3:社殿。扁額は「麻賀多大神宮」
写真4:ご神木の大杉。台方社ほどの大きさではない。
写真5:境内に入って直ぐ右手にある「印波国造伊都許利命墳墓」(千葉県指定史跡)。石棺が露出している。
写真6:神社前の道路から見た古墳(公津ヶ原39号墳)。一辺35mの方墳とされる。
場所:千葉県成田市船形834。吾妻中学校の西、約800m。駐車場有り。
当神社の由緒については、前項の「麻賀多神社」(成田市台方)を参照。祭神は稚日霊命。
当神社は、式内社「麻賀多神社」のいわゆる論社ではなく、その元社であり、奥宮であるとされる。因みに、現・成田市、佐倉市、富里市などを含む印旛地区に「麻賀多神社」と称する神社が18社あるとされるが、論社ではなく、台方の式内社「麻賀多神社」及びその奥宮である当神社の分社で、特に争いはない。
当神社の特色は、何と言っても、古墳の隣にあることで、しかも、その被葬者が初代印波国造・伊都許利命(イツコリ)であるとの伝承である。イツコリは、神武天皇の皇子・神八井耳命の8世の孫といい、阿蘇国造や科野(信濃)国造など、多くの国造家を出した一族である「多(おお)氏」に連なる。一説には、「麻賀多神社」の「多」の字は「多氏」に因むという。
この古墳がイツコリの墳墓であるということは確認されてはいないが、現・成田ニュータウンを中心に広がる印旛沼東側の古墳群の規模から見て、この付近が印旛国造家の中心地であったとみて、間違いはないだろうと思われる。この古墳群は、地名をとって「公津ヶ原古墳群」というが、「こうづ」というのは元々「国府津」(国府の港)、あるいは「神津」であったともいわれている。
玄松子さんのHPから(麻賀多神社(船形))
写真1:「麻賀多神社」(船形)境内入口の石鳥居。傍らの社号標は「総社 麻賀多神社」となっている。
写真2:社殿前の両部鳥居
写真3:社殿。扁額は「麻賀多大神宮」
写真4:ご神木の大杉。台方社ほどの大きさではない。
写真5:境内に入って直ぐ右手にある「印波国造伊都許利命墳墓」(千葉県指定史跡)。石棺が露出している。
写真6:神社前の道路から見た古墳(公津ヶ原39号墳)。一辺35mの方墳とされる。
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