神が宿るところ

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日先神社(茨城県土浦市)

2022-03-05 23:36:01 | 神社
日先神社(ひのさきじんじゃ)。
場所:茨城県茨城県土浦市右籾2202。茨城県道48号線(土浦竜ケ崎線)「阿見住吉」交差点から北東へ約850m、スーパーマーケット「スーパーまるも まりやま店」角の交差点を左折(北へ)、約180m。駐車場有り。(「スーパーまるも」は、2021年4月に「クスリのアオキ」に事業承継されたので、業態・店名等が変更になっている可能性があります。)
社伝によれば、天喜5年(1057年)、源頼義・義家父子が奥州の安倍貞任征伐のため軍勢を引き連れて向かう途中、当地で父子が同じ霊夢を見て、賊徒征伐の祈願を行ったのが始まりという。即ち、父・頼義は「西峰山 高野寺」に、子・義家は志太(信太)長者宅を陣所としたが、その夜、それぞれの枕頭に神が現れて「我汝を待つこと久し、今汝に力を添へん、必ず賊を平らげ名を天下に輝かさん。」という御告があった。翌朝、父子が同じ夢を見たことを不思議に思い、「高野寺」長老や志太長者に尋ねたが分からず、「鹿島神社」の宮仕・宮本権太夫に聞くと、「それこそ鹿島・香取・息栖の三神なり」と言うので、「日先峯(ひのさきのみね)」に丸太4本を並べ、四方に青竹注連を張って、賊徒平定の祈願祭を厳修した。翌年の康平元年(1058年)、社殿を建立し、「丸四天権現宮」として武甕槌命(タケミカヅチ)、経津主命(フツヌシ)、衝立船戸大神(ツキタテフナト)の3神を祀った(それぞれ「鹿島神宮」(2017年10月7日記事)、「香取神宮」(2012年3月3日記事)、「息栖神社」(2017年12月2日記事)の主祭神)。康平6年(1063年)には、頼義・義家父子が征奥からの帰途、甲冑・県・弓等を奉納した。中家郷信太庄の鎮守として崇敬され、近世には「摩利支天権現」と称していたが、明治4年に「日光神社」、明治5年に「日先神社」と改めた。また、同年、右籾・摩利山新田・中村・中村西根・乙戸・荒川沖・荒川本郷・沖新田の8ヶ村の村社に列格した。因みに、「摩利支天」は、元はインドの神で、仏教の守護神として取り入れられて日天の眷属となったものである。梵語で「マリチー」、意味は陽炎(かげろう)とされる。「摩利支天」は常に太陽の前を進み、実体がないため傷つけられることがない。こうしたことから、中世以降、楠木正成、毛利元就、前田利家などといった武将らが信仰した。なお、当神社は茨城県阿見町にあった霞ケ浦海軍航空隊基地に近かったので、戦時中は戦勝祈願・生還祈願などが盛んであったという。
さて、当神社で注目されるのは、源義家及び信太長者に絡む創建伝承である。常陸国では、源義家が奥州征伐の折に長者宅に泊まり、盛大なもてなしを受けたが、これを却って脅威に感じて焼き討ちにしてしまうという伝承が多いのだが、このような伝承のあるところに古代官道の駅家比定地が多く、長者というのが駅長の後身ではないかという説に繋がっている(例:「一盛長者」など。「台渡里官衙遺跡群」(2019年3月16日記事)参照)。当地の長者は焼き討ちに遭っていないが、仮に古代東海道が現・阿見町飯倉字向坪辺りから方向転換して西へ向かうと、ちょうど旧・霞ケ浦海軍航空隊基地=現・陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地の南側を通る(直線的な行政界がある。)。「右籾(みぎもみ)」という地名は珍しいと思うが、一説には、昔、日本武尊が当地を訪れた際、黄色に光る塚を見て、何かと問われたとき、稲の籾を積み上げた「籾塚」であると村人が答えたので、「籾塚」という地名になったという。現在も、右籾の北端、花室川右岸に「籾塚」という小字が残っているようであり、「籾塚橋」という名の橋が架かっている。「籾塚」というのは、籾を塚のように積み上げることができるような(裕福な)長者の存在を示すものであり、この辺りも古代東海道の「曾禰」駅家の候補地かもしれない。因みに、当地から「土浦城」を越えてかなり先になるが、現・土浦市中貫には「龍開長者」の伝説がある。龍開長者は、元は修験者だったが還俗して長者になったという。前身は駅長だったともされており、旧・日立電線東山アパートの場所(現・土浦市板谷7丁目)に館があり、元は土塁や堀が巡らせてあったとされる。龍開長者の方は、他所の伝承のように、源義家に焼き討ちにあったといわれている(なお、「中根長者の屋敷跡」(2020年7月11日)も参照。)。


写真1:「日先神社」境内入口。向かって左手に駐車場がある。


写真2:大きな社号標


写真3:鳥居


写真4:狛犬と拝殿。桜の木などが覆いかぶさってきている。


写真5:拝殿正面


写真6:拝殿前に御神木の杉(南西側から見る。)


写真7:拝殿・本殿(南東側から見る。)


写真8:裏参道の鳥居。台地の下の谷に下りる。


写真9:裏参道前にある「日先神社 御手洗池の跡」石碑。台地下に泉が湧いていたのだろう。

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