神が宿るところ

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高野八幡宮(茨城県古河市)

2021-07-03 23:21:40 | 神社
高野八幡宮(こうやはちまんぐう)。通称:北向八幡。茨城県神社庁のHPでは、単に「八幡神社」となっている。
場所:茨城県古河市高野1473。新4号国道「高野」交差点から茨城県道190号線(境間々田線)を南へ、約800mのところ(ガソリンスタンド「キグナス石油 サムスイング高野」がある。)を左折(東へ)、約230m進んで突き当りを左折(北~東へ)、約120mで参道入口。ただし、自動車の場合は、突き当りを逆に右折して(南へ)約70m進み、「高野集落センター」入口付近で左折(東へ)、約90mで社殿横に着く。駐車スペースはあるが、「高野集落センター」に駐車させていただくことも可能かと思う。
「高野八幡宮」の創建時期は不明。明治6年に村社に列した。現在の祭神は、誉田別命。伝承によれば、天慶3年(940年)、平将門の首が当地の大ケヤキ(欅)の枝に掛かり、七日七晩の間、光を放っていた。金剛坊という僧が、この首を石棺に納めて大ケヤキの後ろの竹薮に埋めたという。この竹藪に入っていくと、出て来れないといわれていた。この大ケヤキの下に「将門神社」という小祠があったとされるが、大ケヤキは今は無く(現在の神楽殿辺りにあったらしい。)、竹藪も残っていない。「将門神社」も不明。また、将門の首の供養のため、社殿を南に向けて建立したが、一夜で北向きに変わってしまったいい、「北向八幡」という別名は、この伝説による。北を向いたのは、将門を討った俵藤太こと藤原秀郷の本拠地である下野国(現・栃木県)の方角、北を向いて睨みつけるため、とされる。
一方、当神社の北、約1.3km(直線距離)の現・茨城県境町横塚に「医王山 善福院 法蔵寺」という寺院があり、ここに居た有徳の僧が、下野国に向かって飛ぶ途中の将門の首を祈り落とした、という伝承がある。また、太郎坊という僧は、位を得るため都に上り、将門の謀反を告げ口したといわれ、怒った将門が太郎坊の本尊である不動尊像を六尺(約180cm)の地下に蹴り入れてしまい、掘り出せずに、太郎坊は退転したという話もある(なお、太郎坊が将門の首を祈り落とした、としている資料もある。)。こうしたことから、かつて高野と横塚の人々は、互いに敵対しあい、決して婚姻をしなかったという。高野と横塚は隣接しているが、古河市(旧・総和町)と境町で、行政界は分かれているところから、何か境界争いとか何か反目しあうようなことがあったのかもしれない。

医王山 善福院 法蔵寺(いおうさん ぜんぷくいん ほうぞうじ)。
場所:茨城県猿島郡境町横塚319。茨城県道190号線(境間々田線)、「積水ハウス 関東工場」の南東角の交差点から東へ、約850m。宮戸川に架かる橋の袂。駐車場スペース有り。
寺伝によれば、開山は承平年間(931~938年)という。元は長井戸沼の近くにあったが、その干拓により現在地に移転。現在は真言宗豊山派に属し、本尊は薬師如来。今は本堂のみとなっているが、本尊の薬師如来像と並んで聖観音菩薩像が安置されており、「猿島坂東観音霊場」第5番札所となっている。上記のような伝説ができるくらい、往時は大寺であり、多くの僧が出入りしていたのだろう。


写真1:「高野八幡宮」鳥居


写真2:同上、境内入口


写真3:同上、社殿


写真4:同上、社殿前。向かって右から神楽殿、御神木、境内社(将門神社?)


写真5:「高野地蔵尊」堂。「高野八幡宮」西口から直ぐ。


写真6:同上、通称「高野ろうそく地蔵尊」。毎年8月23~24日、病気やケガの治癒を願い、身体の悪い部位に合わせて地蔵尊像にロウソクを立てて、火をつける。2日間で、約3千本も立てられるので、地蔵尊像は全身真っ黒。これは2代目で、隣の小堂に初代の菩薩像があるが、完全に壊れて足元だけしか残っていない。この奇祭は、約300年続いているという。


写真7:「善福院」


写真8:同上、宝篋印塔、薬師如来開帳記念碑など。本尊の薬師如来像は秘仏で、60年毎、寅年4月の初寅の日に開帳するという(前回は昭和61年4月4日)。

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