神が宿るところ

古社寺、磐座、不思議・パワースポット、古代史など極私的な興味の対象を見に行く

高福山 法明寺(駿河七観音・その1)

2011-01-11 21:01:35 | 寺院
高福山 法明寺(こうふくさん ほうみょうじ)。本尊:千手観音。
場所:静岡市葵区足久保奥組1043。県道29号線(梅ケ島温泉昭和線)「美和中学校北」交差点から県道205号線(大川静岡線)に入り、約3kmで「法明寺」の案内板が出ているところを右折(東へ)、そこから狭い道を約1km。駐車場あり。
寺伝によれば、養老7年(723年)、行基菩薩の開創。元は密教寺院だった(天台宗説と真言宗説がある。)が、次第に寺勢が衰え、貞享4年(1687年)に曹洞宗の「増善寺」18世の雪厳薫積和尚によって再興され、「増善寺」の末寺となった。
伝説によれば、天平年間(729~49年)、聖武天皇が病気となり、その病因を陰陽博士に占わせたところ、東国に千歳の楠(クスノキ)があり、寿命を迎えている。仏像として刻まれて永くこの世に止まりたいとの希望があり、天皇を悩ませているのだという。折から、駿河国の国司から、足窪村の山中に高さ約50m・直径約20mもの大楠があるとの報告があった。そこで、行基に命じて、7体の観音像を刻ませ、7ヵ寺に安置して修法勤行させたところ、天皇の病気は快癒したという。この大楠は、毎夜光を放っていたとか、伐られる際に血を流したともいうが、そこに一寺を建立したのが現在の「法明寺」であるという。「法明寺」など7体の観音像を安置した寺を「駿河七観音」と称する(以前は「安倍七観音」ということが多かったが、旧安倍郡だけでなく、旧有度郡、旧庵原郡の寺院も含むため、最近は「駿河七観音」ということが多いようだ。)。
当寺の観音像は、当寺が火災に遭ったとき、自ら堂を脱け出し、草むらに逃れたという伝説がある。


写真1:「法明寺」山門


写真2:観音堂


写真3:観音堂下に、伝説の楠があったという。ちょっとわかりにくいが、中央の石像は「シャクシ婆」といい、行基が観音像を彫っているとき、老婆が現れ、香りのよい飲み物を供して励ました。この飲み物が「茶」だったという。
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足坏神社(駿河国式内社・その17)

2011-01-07 21:36:34 | 神社
足坏神社(あしつぎじんじゃ)。祭神:蛭子大神。
場所:静岡市葵区足久保奥組2007。安倍川右岸(西岸)を通る県道29号線(梅ヶ島温泉昭和線)を北上し、「美和中学校北」交差点を左折(西へ)、県道205号線(大川静岡線)に入り、交差点から約5km。通称「美和街道」を足久保川に沿って遡ることになるが、足久保川に架かる「相沢橋」を渡ってすぐ左の狭い道に入って、約500m。駐車スペースあり。
社伝によれば、創建時期は霊亀元年(715年)。神社名の由来は不明で、「美和郷土誌」(昭和60年3月)によれば、「坏」という字は「くぼ」とも訓む、として、鎮座地名の「足久保」の由来になった、という説も紹介している。その当否は不明だが、周囲の状況からすれば、昔から「葦の生える谷(窪地)」にあったのだろうとは思われる。なお、当神社は、かつては「白髭神社」と称し、現在地の東、約500mのところに東向きに社殿があったが、いつの頃か現在地に移されたという。祭神の蛭子大神は、いわゆる恵比寿=事代主神ではなく、伊耶那岐命(イザナギ)と伊耶那美命(イザナミ)の最初の子であるヒルコであるらしい。「古事記」では、ヒルコは不具であったため、葦舟で海に流されてしまう。一方、「日本書紀」では、イザナミが黄泉の国から帰ってきて穢れを落としたときに三貴子(天照大神・月読命・素戔嗚尊)とともに生まれたともしており、天照大神のことを大日孁貴神(オオヒルメムチ)と記していることから、ヒルコは「日児」であって、男性の太陽神であるという説もある(太陽が2つあると困るので、結局ヒルコは流されてしまうのだが。)。もともと謎の多い神だが、なぜ当神社の祭神なのかは、全く不明。「美和郷土誌」では、池沼や谷川に棲む環形動物の蛭(ヒル)を祀ったという説もあるという。また、一説によれば、元は、四道将軍の1人で、阿倍(安倍)氏の始祖、大彦命(オオビコ)を祀ったのではないか、ともいう。ただし、その根拠はよくわからない。安倍川の奥にあり、安倍氏の本拠と考えられたのかもしれない。時代は下るが(鎌倉時代中期以降)、駿河国守護の今川氏に仕えた安倍一族は信濃国諏訪の出身で、諏訪明神の社人を起源とすると称して「神(シン、またはミワ)」姓を本姓とした。賤機山の西側を広く「美和」地区ということを考えると、何か関係があるかもしれない。
因みに、当神社はかつて「白髭神社」と呼ばれていたというが、安倍川流域周辺に「白髭神社」はとても多い。静岡県神社庁加盟の神社のうち「白髭神社」は61社あるが、静岡市内に56社ある(残りは藤枝市に2社、富士市・沼津市に各1社、遠江国森町に1社あるだけ。)。ただし、祭神は猿田彦命が多いが、武内宿禰、塩土老翁、宇迦之御魂神というところもある。一説に、「白髭」は「新羅(しらぎ)」と関連があり、朝鮮からの渡来人、特に秦氏との関係が深いともいう。
なお、当地の佐藤家の先祖は、「弥六太夫」という名で神主あるいは禰宜となり、神社の扉の鍵を管理する「鍵取」と呼ばれて、神事を司っていたらしい。しかし、少なくとも江戸時代には、「弥六太夫」も普段は農業に従事し、「増善寺」の檀越として仏事にも関与していたといい、神仏混淆が進んでいたらしいという。


玄松子さんのHPから(足坏神社):http://www.genbu.net/data/suruga/asitugi_title.htm


写真1:茶畑の奥に、杉の木に囲まれた「足坏神社」の赤い社殿が見える。


写真2:正面鳥居


写真3:社殿正面。社殿の裏に沢があるらしく、水音がしていた。そのせいか、(実は初夏に訪問したのだが、)社殿のほうから清涼な冷気が流れてきた。
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道白堂

2011-01-04 23:47:08 | 寺院
道白堂(どうはくどう)。
場所:静岡市葵区北沼上。県道201号線(平山草薙停車場線、通称:竜爪街道)を北上、「平山火の見やぐら公園」のところで左折(西へ)して、則沢(そくさわ)方面へ。則沢林道を約2km登る。駐車場なし。
この「道白堂」がある辺りを「道白平」というが、天文(1532~1555年)の頃、道白笑山(どうはくしょうざん)という曹洞宗の僧が修業・説法していた。高徳の道白禅師の名は広く知れ渡り、後に武田勝頼の二十四将の一人である土屋豊前守貞綱(当時、清水港宰領)の招請により「補陀山 楞厳院(ほださん りょうごんいん)」(現・静岡市清水区有泉)の開山となったという。道白禅師には不思議な話が多く、例えば、来客があると、どこからか小法師たちが大勢現れて、客をもてなした。道白禅師は山神や天狗を使役するといわれたというが、この小法師たちはいわゆる式神だったのだろうか。
この道白禅師には、式内社「白澤神社」の鎮座地である「牛妻」の地名の由来となった伝説もある。道白禅師は一頭の黒い牡牛を飼っていたが、この牛は商家を回って買い物の使いをするなど、禅師の用事をして仕えた。夜になると、龍爪山の西麓にある田野という里にある、小萩という女の家の軒下へ行って寝た。ある人が不思議に思って禅師に問うと、禅師は、「この牛は、元は祖益(そえき)という名の将来有望な弟子だった。しかし、ある時、今川館の近くで托鉢していた折り、今川家の奥女中を見染め、恋焦がれて死んでしまった。僧侶の身でありながら女に焦がれ死にしたとあって、死後には畜生道に落ちて、この牛に生まれ変わった。牛となっても師の用を足しているのだが、夜になると田野の実家に戻った小萩の家に通っているのだ。」と語った。その後、道白禅師は陀羅尼を唱えて、この牛を懺悔させた。牛は、大きな石の上に登り、3日後に人間に生まれ変わって仏教徒になる、と人語で誓い、死んだ。村人は、この牛を悼み、田野を改めて「牛妻」と呼ぶようになった、という。
なお、「道白堂」の近くにある「牛見石」というのは、使いに出した牛が戻ってくるのを見るために禅師が上った石であるという説と、牛が悔悟して死んだときに上った石であるという説がある。


写真1:「道白堂」


写真2:堂の傍らの巨岩。案内板には、道白堂の回りには「牛見石」「座禅石」がある、と書いてあるが、どれに当たるのか分からない。


写真3:巨岩に並ぶ大きなイチョウの株。静岡市の天然記念物だったが、平成5年の台風により倒れてしまい、今では株を残すだけになっている。その脇には清水が湧き出している。
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