「主役を疑え」
ミステリーの醍醐味は最後のどんでん返しにあると考える人も多い。ほとんどの場合、それは実に意外な人物である。犯人面の人がそのまま犯人であることは少ない。また、最終章になっていきなり現れた人が真犯人であるというケースも希だろう。それでは「誰やねん」という読者の反感を買ってしまう。結末へ向かって読んできた時間を、無駄に感じさせてはならない。最初の方から登場し、主人公にとって身近な存在でありながら、実は顔に表裏がある。そのような人物が怪しい。「あなただったのか……」仮面を取ってみれば実は父であったというようなことがある。いい人はわるいことはしない。好きな人は優しい。そうした読みの先入観がトリックに利用される。
多くの読者は角より飛車が好きなのではないだろうか。
「あなたの好きは利用されている」
飛車を取ればうれしい。飛車を取られるのはかなしい。できれば飛車は大事にしたい。もしも、飛車を失うという時は、相当な見返りがなければ納得できない。
但し、詰将棋の世界では飛車も歩も玉を詰ますために配置された同等の駒である。躊躇なく飛車を切り、頭金で詰ますことが、詰将棋の醍醐味と言える。
それでも飛車を切りにくいという場面は存在する。どうみてもそれが重要なキープレイヤーに見える、という局面である。そういうケースでは、普段の飛車好きが復活し、先入観となり読みを邪魔してしまう。局面が冷静に見れなくなった瞬間、作者の術中にはまって抜け出せなくなる。
途中局面を例に挙げてみよう。
(玉方…4二玉他。攻め方…4四桂、5一飛車他。持ち駒…金、角)
さて、大好きな飛車の5一飛車を大事に思うと迷宮入りする。
(正解手順…3一飛成、同飛、5一角!、同飛、3二金まで)
3一飛車成!が英断の焦点の捨て駒である。そして5一に角を打つスペースを作ることに成功した。邪魔駒消去の詰将棋手筋、実は主役は飛車ではなく、角であるというのが作者の用意したトリックである。
この飛車の裏切りに気づかなければ、犯人逮捕は永遠に実現しない。好きや先入観はトリックに利用される。
「学んだことが逆用される」
将棋には多くの格言が存在する。実戦の多くの局面で、それらは割と正しい。格言の類を多く知ることで、直感の精度を上げたり、読みを省略したりできるようになる。
例えば、金は斜めに誘え、金はとどめに残せ、下段の香に力あり、遠山の角に名手あり、二枚飛車に追われた夢を見た、三枚堂の攻め切れにくし、風邪を引いても後手を引くな。など役に立つ格言は山ほどある。
しかし、「実戦は生き物」。全部が全部いつでも当てはまるわけもないのである。
ごく希に格言の逆を行くような手が最善手になるといった局面が現れる。ハイレベルの戦いになるほど一手が勝敗を左右する。格言を正しく守るだけでもある程度の強さまでは達するが、その先へ進むことは難しい。先入観となって邪魔をし、その局面だけの好手を発見しにくくなるからである。
下手に風邪を引いては精彩を欠きミスが多くなるのではないか。同時に後手も引くことにもなれば、踏んだり蹴ったりである。また、病院に行けばその分だけ診療代もかさむ。事前にケアしておくことが最善で、対局中はマスクをつけ、また、マスクを外してこまめに水分を補給することが大事である。そして、季節に相応しいマスクを探すなど新手の研究を怠ってはならない。
「金はとどめに……」これは実戦の多くに、また詰将棋においても当てはまることは、多い。しかしこうした「金言」も、逆用される恐れがある。読者の頭に深く刻まれた知識/感覚が作者のミスディレクションに使われることを、頭の片隅にでも置いておくことが望ましい。
「玉は下段に落とせ」そうした格言のすべて逆を行って、早々に金を捨て、玉を上に追っていく。そして、最後は大駒の脚の長さで詰め上げるといった図式もあることを知っておきたい。
信じるものと疑うもの。そのバランスの中で詰将棋は上達していくものかもしれない。