無人島に何か一つだけ持っていくとしたら歎異抄だ、ネットで検索すると、これ作家の司馬遼太郎が言った言葉のようだ。その歎異抄を読む。歎異抄は解釈本が多く、今回は、五木寛之本だ。五木寛之、いつ以来だろう、学生の頃、五木寛之集や青春の門を読んだ記憶がある。この人の本を読むのは、たぶんそれ以来だ。
歴史で親鸞を習ったときのことのおさらい。「善人ですら救われるのだから、悪人は救われないわけがない。」普通の日本語とは逆だ。これ、歴史の時間で習った。ただしその解釈までは習わなかったと思う。
この本にはこう書いてある。親鸞の言う「善人」とは、「自分の力を信じ、自分の善い行いの見返りを疑わないような傲慢な人」だ。そのような人は阿弥陀仏の救済の対象ではない。必死の信心に欠けるからだ。そんな善人でも自力に溺れる心をあらためて、他力の本願に立ち返るのなら必ず真の救いをうることができる。
私たちは、業が深い、この世を生きるものは、ことごとく業を背負っている。すなわち「悪人」だ。おのれの悪に気がつかず傲慢な善人でも救われるのだら、まして悪人は・・というのはそういった意味だ、普通の日本語とは意味が違う。
これは、今の法律で言う「善意」のことと同じだ。法律の「善意」とは、良いことではなく「知らないこと」だ。「善意の第三者」とはそのことを知らない第三者だ。これに対して法律で「悪意」とは、知っていることを言う。その行為を知っていてやる「悪意」と知らないでやる「善意」の違いだ。親鸞と近代の法学とは、時代が違うが、偶然だろうね。
さて、一読した感想。全部で70頁ほど、そんなに我慢しないでも読めてしまう。いろいろ書いてあるが、とにかく念仏を唱えよ、というのが多い。
文庫本の帯に「生きるのがこわい、死ぬのがこわいーそんなあなたへ」となっているが。私は、まだ別に怖くもない。登山やお城、仕事など残りの人生を楽しく暮らしている、そんな人間には、この本、歎異抄は、今のところ、まだ合わないようだ。
一応本棚に置いといて、時期が来たらまた読もう、と思った読後感想でした。