kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

「与えること」「与えないこと」のリスク

2019-10-18 | 陸上競技

思うことを。これも私の考えなのでどうかと思いますが。

 

「知っている」と「知らない」では意味が大きく異なってきます。当然です。が、「知りすぎる」と「知らなすぎる」でも意味が違ってくる。ここは非常に難しい。

 

競技について。かなり勉強してきたつもりでいます。時間をかけて各地を渡り歩きながらどうすればいいのかを考える。やっている練習を見ながらその意味を考え、狙いを感じ取る。ある一定の知識が身についたところからは自分で練習方法を考えるようになる。「狙い」が分かればその方法論は数限りなくあるからです。「速く走るために」という視点からメニューの組み立てをするようになりました。

 

私の高校時代。学校で競技について教えてもらった子は一切ありません。大学も同様。ほとんど自分が思うがままに練習をしていました。陸上競技の雑誌を買いあさったり、トレーニングの本を読んでそれを「真似る」という形で実施。それが正しいかどうかは分かりません。正解を教えてくれる人が周囲にはいなったからです。だから自分の身体を「実験台」のようにしてやっていく。客観的な視点からのアドバイスはないので「正しい動きをしているのかどうか」さえ分からないままやっていました。

 

私の走り方はどちらかというと「膝が開く」「膝から下を振り出す」というような走りでした。今考えると恐ろしい話ですね。それを「強引な努力」によってそれなりのレベルに持っていった。ごり押しです。勉強していく中で「今の考え方で自分自身の走りが作れたら」と思うことは多々ありました。後悔しても遅いのですが。恵まれていなかったと嘆いていても仕方ない。その「遠回り」があったから今の自分があるなと思います。

 

そういう経験があったので「技術的な部分」に関しては指導を徹底している感じがあります。「型にはめる」というまでではないと思いますが「技術的な部分」は一定方向で進めています。「知っている」からその情報を提供する。知識の安売りとは思いませんが、これまで見てきた経験や感じたことをその場で極力伝えるようにしています。「知っている」から「与える」という形です。

 

「知らない」から「与えられない」というのが大半かもしれません。素人だから分からない。だから何も言わずに見守っている。それは一つの方法かなと思っています。が、選手のためにはならない。これも価値観なので押しつけはできません。が、せっかく選手が競技をやろうと思っているのであればそれに対して「最低限の情報」の提供はできるかなと。

 

人によっては「知らない」けど「与える」というのもあります。受け売りで「どこかがやっている」からそれを真似てやる。その本質的な部分が分かっていないのに「練習とはこうだ」と自信をもって伝える。メニューをやっていたら人によっては強くなるという感じだと思います。意味が分からないから動きが崩れたら戻すために何をすればいいかは分からない。「与えられない」からどうしたらいいのか見えてこない。それでも「これをやればいい」と押し切れる強さはすごいなと思っています。私にはできない。

 

更には「知っている」けど「与えない」というのもある。今自分自身に必要な要素はここなのかなと感じています。「近道」はある。しかし、何も考えずに「答え」だけを提供すると考えるという力は身につかない。もちろん、一定水準までは「与える」ことが必要になると思います。「考える」ための材料がないのに「考えてやりなさい」というのはあまりにも無謀。が、常に「与える」ことが本当の意味での成長を阻害するのではないか。「言われている通りにやれば結果が出る」という考え違いをする可能性がある。「言われたとおりにやったのに上手くいかない」とこちらに矛先が向くこともあります。

 

今までは「知っている」から「与える」という形が自分の中で「絶対的」でした。が、ここ最近感じているのは「与えられる」ことが「当たり前」になって少しでも「与えられない」とそこに対して不平不満が生じるのではないかという部分。前の記事にも書きましたが。「誰かが何とかしてくれる」という錯覚。そこから抜け出すための道が本当はあるのではないか。


技術的なことであれば「知っている」けどあえて「与えない」というのはあります。今その動きをすると狙いとしている動きから離れてしまう。だからそこは目をつぶっておく。将来的な修正は必要ですが今やるとかではないという判断をすることもある。


指導スタイルについて考えさせらる。本当の意味での「感覚作り」をするためには時間が必要になる。短期的に結果を出そうとするのではなく身体作りと含めて「感覚作り」をしていく必要があるのではないか。


中国新人の時にたまたま手にした本があった。「問題解決」についての本。これは高校生でも分かりやすいなという内容だった。が、今考えるのは「問題解決能力」の前に「問題発見能力」の方が大切ではないかなということ。問題解決について考える前に「今の問題は何か」を見つけなければいけない。そこができなければ「練習をやっているのに結果が出ない」という不平不満だけが生まれるのではないかと感じている。


「与えない」ことは伸びるチャンスを失う。「知らない」ことで「与えることができない」というのは、私の中では問題外。「知らない」のであれば「知っている」状態になるまで学べば良い。そこをせずに指導するというのは違うと思う。しかし、「与えすぎる」ことも成長を阻害するのではないか。そう思って師匠に相談をした。この年になっても未だに頼っている。こういう部分で私にとって唯一無二の存在。いつまで経っても学ばせてもらっている。


人によって関わり方が違う。「与える」方が良い場合もあるし「与えない」方が良い場合もある。選手を見ながら見極めていくことが必要になる。それを周りから見るとあの選手には「与えている」のに他の選手には「与えていない」と批判される部分はある。嫉妬とまではいかないが「あの人は言われているのに自分は言われない」という不満が生じる。ここにも大きなリスクがある。人それぞれの見方だから。


まとまらない。それでも考えさせられる。もうすぐ43歳になる。40歳で「不惑」と言われるがいまだに惑い続けている。10年前の自分が今の私を見たらどう思うだろうか。当時の私は今の私の考え方を「知らない」のだから想像することもできないだろう。


また書きます。多分。 

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教えることの意味

2019-10-18 | 陸上競技
色々と考えさせられています。教育そのものについても。今までの指導スタイルの見直しも含めて考えさせられています。「教育」は「教え育てる」ことです。何かを伝えていくことで変化が生まれる。変化を待つ間、かなりのストレスを感じることがあります。更には変化が感じられない部分が続くとこちらも「もういいや」という気持ちになる。

何度も書いていますが我々は聖人君主ではありません。普通の人間です。学校で全てを負担するのは間違っていると思います。このご時世、発言の一部分を切り取ってそこに対して「問題だ」と取り上げる。その前後の流れは一切関係なくなる。自由度や裁量などはほぼなくなりつつある。

教えること。話をする中で疑問が湧くようなことがあった。「教えて欲しい」と求められる。それに対して教える。それに対して「1人だけ教えるのは不平等だ」という流れになる。聞いてきたから教える。聞きに来なかった者には教えるチャンスがない。個別に聞かれて伝えたことに対して不平等だと言われたら「教える」ことは放棄せざるを得ない。

この話をある人にすると「ご飯お代わり無料」の話になった。ニュースになっていたらしい。あるお店が「ご飯お代わり無料」にしていたら利用客からクレームが付いたとのこと。自分はお代わりをしない。お代わりをしている人は自分たちよりもたくさん食べてサービスを受けている。不平等だ、と。お代わり無料はその食事の値段に「お代わり代」が含まれている。一杯しか食べない人と3杯食べる人では量が違うので不平等だと。

それによりお店は「ご飯お代わり無料」を辞めたとのこと。ここに対して「当然だ」と思う人もいれば「別にいいではないか」と感じる人もいる。この感覚の差なのだと思う。自分以外が幸福感を感じることを許容できない世の中になっている。それは強く感じる。自分がお代わりをしないのだから、他の人がお代わりをするなら有料にして高くしろ。一理あるかもしれないが全てを許容しない傾向が強くなっている。

教員は「サービスを提供する」という位置づけになっている。全員に平等に与えることが当然だと言われる。それが本当なのか。

かなり前。就職試験の面接練習をする約束をしていた。日時を指定していたが来ない。何度か時間指定をしていたが来ない。私の用事があって早く帰宅しなければいけない時に「明日試験だから面接練習して欲しい」と言いにくる。これまでの経緯を伝えて断ったら保護者から電話があった。「子どもが面接練習をして欲しいと申し出たのに断るとはどういうことか」と。これまでの経緯を伝えても「やってもらえない」ことに対して不平不満が生まれる。その前段階は全て考慮されず「サービスを受けられなかった」ことに対しての怒りをぶつけられる。

「教える」ということ。「与えられる」ことが「当たり前」になる。サービスを受けられるのが当たり前になっている。受けられないことに対しては怒りを示す。お代わり無料を許せない部分と根底で繋がっているのがはないか。

こうなると最初から「やらない方がいい」ということになる。やってクレームを付けられるのであれば必要最低限のことだけを提供してそれ以上のことをやらないようにする方が自分自身の身を守ることができる。本当に窮屈な世の中になっていく。ノイジーマイノリティ。声高に不平不満を掲げる人の意見が全てを代表しているかのような正義感があるのかもしれない。

今、職場に来たら生徒が外から入るための門を開けている。元々これは私の仕事ではない。7時前後に来るので早く来た生徒が入りやすいように「サービス」で開けているだけの話。別に開けなくても問題はない。善意でやっていることだがヘタをすると「来たのに開いていなかった」と不満を言われる可能性がある。「開いている」のが当たり前なのでそのサービスが受けられないことに対して「どうなっているんだ」という意見が出る。それなら最初から「やらない方がいい」という話になる。

教えること。何をもって「教える」ということになるのか。大きな疑問を抱きながらやっている。答えは今のところ見つからない。息苦しい世の中になりつつあるのだけは確か。考えさせられる。
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