思うことを。これも私の考えなのでどうかと思いますが。
「知っている」と「知らない」では意味が大きく異なってきます。当然です。が、「知りすぎる」と「知らなすぎる」でも意味が違ってくる。ここは非常に難しい。
競技について。かなり勉強してきたつもりでいます。時間をかけて各地を渡り歩きながらどうすればいいのかを考える。やっている練習を見ながらその意味を考え、狙いを感じ取る。ある一定の知識が身についたところからは自分で練習方法を考えるようになる。「狙い」が分かればその方法論は数限りなくあるからです。「速く走るために」という視点からメニューの組み立てをするようになりました。
私の高校時代。学校で競技について教えてもらった子は一切ありません。大学も同様。ほとんど自分が思うがままに練習をしていました。陸上競技の雑誌を買いあさったり、トレーニングの本を読んでそれを「真似る」という形で実施。それが正しいかどうかは分かりません。正解を教えてくれる人が周囲にはいなったからです。だから自分の身体を「実験台」のようにしてやっていく。客観的な視点からのアドバイスはないので「正しい動きをしているのかどうか」さえ分からないままやっていました。
私の走り方はどちらかというと「膝が開く」「膝から下を振り出す」というような走りでした。今考えると恐ろしい話ですね。それを「強引な努力」によってそれなりのレベルに持っていった。ごり押しです。勉強していく中で「今の考え方で自分自身の走りが作れたら」と思うことは多々ありました。後悔しても遅いのですが。恵まれていなかったと嘆いていても仕方ない。その「遠回り」があったから今の自分があるなと思います。
そういう経験があったので「技術的な部分」に関しては指導を徹底している感じがあります。「型にはめる」というまでではないと思いますが「技術的な部分」は一定方向で進めています。「知っている」からその情報を提供する。知識の安売りとは思いませんが、これまで見てきた経験や感じたことをその場で極力伝えるようにしています。「知っている」から「与える」という形です。
「知らない」から「与えられない」というのが大半かもしれません。素人だから分からない。だから何も言わずに見守っている。それは一つの方法かなと思っています。が、選手のためにはならない。これも価値観なので押しつけはできません。が、せっかく選手が競技をやろうと思っているのであればそれに対して「最低限の情報」の提供はできるかなと。
人によっては「知らない」けど「与える」というのもあります。受け売りで「どこかがやっている」からそれを真似てやる。その本質的な部分が分かっていないのに「練習とはこうだ」と自信をもって伝える。メニューをやっていたら人によっては強くなるという感じだと思います。意味が分からないから動きが崩れたら戻すために何をすればいいかは分からない。「与えられない」からどうしたらいいのか見えてこない。それでも「これをやればいい」と押し切れる強さはすごいなと思っています。私にはできない。
更には「知っている」けど「与えない」というのもある。今自分自身に必要な要素はここなのかなと感じています。「近道」はある。しかし、何も考えずに「答え」だけを提供すると考えるという力は身につかない。もちろん、一定水準までは「与える」ことが必要になると思います。「考える」ための材料がないのに「考えてやりなさい」というのはあまりにも無謀。が、常に「与える」ことが本当の意味での成長を阻害するのではないか。「言われている通りにやれば結果が出る」という考え違いをする可能性がある。「言われたとおりにやったのに上手くいかない」とこちらに矛先が向くこともあります。
今までは「知っている」から「与える」という形が自分の中で「絶対的」でした。が、ここ最近感じているのは「与えられる」ことが「当たり前」になって少しでも「与えられない」とそこに対して不平不満が生じるのではないかという部分。前の記事にも書きましたが。「誰かが何とかしてくれる」という錯覚。そこから抜け出すための道が本当はあるのではないか。
技術的なことであれば「知っている」けどあえて「与えない」というのはあります。今その動きをすると狙いとしている動きから離れてしまう。だからそこは目をつぶっておく。将来的な修正は必要ですが今やるとかではないという判断をすることもある。
指導スタイルについて考えさせらる。本当の意味での「感覚作り」をするためには時間が必要になる。短期的に結果を出そうとするのではなく身体作りと含めて「感覚作り」をしていく必要があるのではないか。
中国新人の時にたまたま手にした本があった。「問題解決」についての本。これは高校生でも分かりやすいなという内容だった。が、今考えるのは「問題解決能力」の前に「問題発見能力」の方が大切ではないかなということ。問題解決について考える前に「今の問題は何か」を見つけなければいけない。そこができなければ「練習をやっているのに結果が出ない」という不平不満だけが生まれるのではないかと感じている。
「与えない」ことは伸びるチャンスを失う。「知らない」ことで「与えることができない」というのは、私の中では問題外。「知らない」のであれば「知っている」状態になるまで学べば良い。そこをせずに指導するというのは違うと思う。しかし、「与えすぎる」ことも成長を阻害するのではないか。そう思って師匠に相談をした。この年になっても未だに頼っている。こういう部分で私にとって唯一無二の存在。いつまで経っても学ばせてもらっている。
人によって関わり方が違う。「与える」方が良い場合もあるし「与えない」方が良い場合もある。選手を見ながら見極めていくことが必要になる。それを周りから見るとあの選手には「与えている」のに他の選手には「与えていない」と批判される部分はある。嫉妬とまではいかないが「あの人は言われているのに自分は言われない」という不満が生じる。ここにも大きなリスクがある。人それぞれの見方だから。
まとまらない。それでも考えさせられる。もうすぐ43歳になる。40歳で「不惑」と言われるがいまだに惑い続けている。10年前の自分が今の私を見たらどう思うだろうか。当時の私は今の私の考え方を「知らない」のだから想像することもできないだろう。
また書きます。多分。