思うことを。
精神的にも肉体的にもかなりキテいますね。自覚症状があるだけまだましなのかもしれませんが。この手の話を周囲に漏らしても「kanekoなら大丈夫」「仕事が集まってくるね」と言われますが、これって本当に正常な状況なのか。本当に疑問を感じます。「やるしかない」という状況に置かれて本当にそれが「正しいかどうか」の判断が難しくなる部分もあります。間違っていると思いますけどね。
blogに書くということはそれなりにリスクもある。しんどいなと思っていることを書くというのは難しい部分があります。「こんなに幸せですよ」と書く人もいるのでしょうが。大半はそうでもない。嫌だなと思うことのほうが圧倒的に多い。しかし、そういうSNSは好まれない。良いのですが。
金曜日、めちゃくちゃ雨が降りました。その影響で土曜日は全国版で学校周辺の様子が放送されていました。被害にあわれた方々が近隣に住まれているので心配です。この状況下でひたすら雨が続くというのはきついですね。「練習ができる」「練習ができない」という小さな話をしている場合ではない気がします。2011年、東日本大震災が起きたとき。同じような想いを感じていました。日本中が「笑ってはいけない」「喜んではいけない」という「感情を無にする」ような雰囲気がありました。同時に「練習なんかして」みたいな風潮も。実際問題、今回被害にあわれた方々は「日々の生活」が優先ですから他のことに気が回らないと思います。
とはいえ、「日常生活を送る」というのは必要なことだと思います。全員が「できない人に合わせる」というのであれば世の中は回っていきません。不謹慎かもしれませんが。それぞれが「できることをやる」というスタンスは変えてはいけない。「それどころではない」という状況の人に「やりなさい」と求めるのは違うと思います。同時に「できる」のに「やらなくていい」というのも違うと思うのです。
人の感覚というのは本当に違います。「電車が止まっているので登校できない」という部分に対して少し離れているけど自転車で行くという選択をする者もいれば「自転車ではいかない」という選択をする者もいる。批判することはできません。「条件」として「電車が止まっているから」という部分が事実としてあるからです。それに対して「何故来ないのか」という話はできません。そうであれば我々も「無理して何かをやる必要はない」のではないかなという気がしています。これまでの「常識」として「生徒のために何かをしてあげる」というのが「良い教員」でした。全ては自己犠牲の上に成り立っている。それが「美徳」でした。が、それによりすり減っていくことがあるのではないか。
「提出物を出さない」という者がいる。それに対して「出しなさい」と何度も話をする。それでも出さない。そこにかかる労力としては莫大なエネルギーと大きなストレスがありまs。ここ数年ずっと言っているのですが「自己責任」として処理できないのか。「期日」を示す。それに対して「提出しない」のであれば「放棄」しているのではないか。「忘れていたから仕方ない」という理由は「正当なもの」ではありません。大学受験の際に、教員が提出書類が遅れたということになれば恐ろしいほどバッシングを受けます。「人一人の人生」を大きく変えることになるからです。しかし、「生徒が提出物を出さない」ことに対しては「寛容」でなければいけません。それって間違っていないですか?「未熟だから」「忘れていたのだから」という理由であれば他のことも同じように「許される」べきだと思います。実際は許されない。
この話をすると「後でトラブルの原因になるから」というよくわからない理由で「期日を伸ばす」ことや「何度も確認する」ことを求められる。では、大学受験の時に事前に大学に「受けます」と申し出ていたら「期日」を過ぎても許してくれるのか。絶対に許されません。それなのに「許す」という行為を率先してやっている。大きな疑問を感じます。18歳で成人になる。それなのに「責任」に関してはほとんど背負わない。「学校教育」だから当然なのかもしれません。保護者対対応も同様。「やりません」という権利は全くない。何か言われたらそれに対して「親切丁寧」に対応する必要があります。そしてそれを強く求められます。「過剰サービス」であってもそれが「当たり前」になるから。
プリントを忘れる。「A先生は印刷してくれたのにB先生は印刷してくれないのですか?」みたいな会話になる。提出期限が過ぎていて「紙を無くした」と申し出てくる。それに対して「仕方ない」と印刷して提供する。これが「当たり前のサービス」になっています。「期日を過ぎた」という事実からは目が背けられて「提出する」ことがメインになる。そうであれば毎回同じように「期日を過ぎてから出せばいい」ということになります。最後は学校が何とかしてくれる。何とかしてくれなかったら学校が悪い。まーよくわからない理論の中で進んでいる。
疑問を投げかける。そこに対して「今までは」という明確な根拠もない理由で「やる」ことになる。おかしくないか。結局「やってしまう」からこんなことになるのではないか。
それなりに仕事はできるほうだと思っています。早く終わらせたらまた別の仕事が舞い込んでくる。「多重債務」のように次から次へと舞い込んでくる。「仕事ができない」という雰囲気を出しておけばいいのかなと思っています。やったふりをしておけば問題ないのでしょうし。何か本当に理不尽さを感じています。こんな「疑問」は意味がないのかもしれませんが。
しんどいですね。現状打破とはいきません。
精神的にも肉体的にもかなりキテいますね。自覚症状があるだけまだましなのかもしれませんが。この手の話を周囲に漏らしても「kanekoなら大丈夫」「仕事が集まってくるね」と言われますが、これって本当に正常な状況なのか。本当に疑問を感じます。「やるしかない」という状況に置かれて本当にそれが「正しいかどうか」の判断が難しくなる部分もあります。間違っていると思いますけどね。
blogに書くということはそれなりにリスクもある。しんどいなと思っていることを書くというのは難しい部分があります。「こんなに幸せですよ」と書く人もいるのでしょうが。大半はそうでもない。嫌だなと思うことのほうが圧倒的に多い。しかし、そういうSNSは好まれない。良いのですが。
金曜日、めちゃくちゃ雨が降りました。その影響で土曜日は全国版で学校周辺の様子が放送されていました。被害にあわれた方々が近隣に住まれているので心配です。この状況下でひたすら雨が続くというのはきついですね。「練習ができる」「練習ができない」という小さな話をしている場合ではない気がします。2011年、東日本大震災が起きたとき。同じような想いを感じていました。日本中が「笑ってはいけない」「喜んではいけない」という「感情を無にする」ような雰囲気がありました。同時に「練習なんかして」みたいな風潮も。実際問題、今回被害にあわれた方々は「日々の生活」が優先ですから他のことに気が回らないと思います。
とはいえ、「日常生活を送る」というのは必要なことだと思います。全員が「できない人に合わせる」というのであれば世の中は回っていきません。不謹慎かもしれませんが。それぞれが「できることをやる」というスタンスは変えてはいけない。「それどころではない」という状況の人に「やりなさい」と求めるのは違うと思います。同時に「できる」のに「やらなくていい」というのも違うと思うのです。
人の感覚というのは本当に違います。「電車が止まっているので登校できない」という部分に対して少し離れているけど自転車で行くという選択をする者もいれば「自転車ではいかない」という選択をする者もいる。批判することはできません。「条件」として「電車が止まっているから」という部分が事実としてあるからです。それに対して「何故来ないのか」という話はできません。そうであれば我々も「無理して何かをやる必要はない」のではないかなという気がしています。これまでの「常識」として「生徒のために何かをしてあげる」というのが「良い教員」でした。全ては自己犠牲の上に成り立っている。それが「美徳」でした。が、それによりすり減っていくことがあるのではないか。
「提出物を出さない」という者がいる。それに対して「出しなさい」と何度も話をする。それでも出さない。そこにかかる労力としては莫大なエネルギーと大きなストレスがありまs。ここ数年ずっと言っているのですが「自己責任」として処理できないのか。「期日」を示す。それに対して「提出しない」のであれば「放棄」しているのではないか。「忘れていたから仕方ない」という理由は「正当なもの」ではありません。大学受験の際に、教員が提出書類が遅れたということになれば恐ろしいほどバッシングを受けます。「人一人の人生」を大きく変えることになるからです。しかし、「生徒が提出物を出さない」ことに対しては「寛容」でなければいけません。それって間違っていないですか?「未熟だから」「忘れていたのだから」という理由であれば他のことも同じように「許される」べきだと思います。実際は許されない。
この話をすると「後でトラブルの原因になるから」というよくわからない理由で「期日を伸ばす」ことや「何度も確認する」ことを求められる。では、大学受験の時に事前に大学に「受けます」と申し出ていたら「期日」を過ぎても許してくれるのか。絶対に許されません。それなのに「許す」という行為を率先してやっている。大きな疑問を感じます。18歳で成人になる。それなのに「責任」に関してはほとんど背負わない。「学校教育」だから当然なのかもしれません。保護者対対応も同様。「やりません」という権利は全くない。何か言われたらそれに対して「親切丁寧」に対応する必要があります。そしてそれを強く求められます。「過剰サービス」であってもそれが「当たり前」になるから。
プリントを忘れる。「A先生は印刷してくれたのにB先生は印刷してくれないのですか?」みたいな会話になる。提出期限が過ぎていて「紙を無くした」と申し出てくる。それに対して「仕方ない」と印刷して提供する。これが「当たり前のサービス」になっています。「期日を過ぎた」という事実からは目が背けられて「提出する」ことがメインになる。そうであれば毎回同じように「期日を過ぎてから出せばいい」ということになります。最後は学校が何とかしてくれる。何とかしてくれなかったら学校が悪い。まーよくわからない理論の中で進んでいる。
疑問を投げかける。そこに対して「今までは」という明確な根拠もない理由で「やる」ことになる。おかしくないか。結局「やってしまう」からこんなことになるのではないか。
それなりに仕事はできるほうだと思っています。早く終わらせたらまた別の仕事が舞い込んでくる。「多重債務」のように次から次へと舞い込んでくる。「仕事ができない」という雰囲気を出しておけばいいのかなと思っています。やったふりをしておけば問題ないのでしょうし。何か本当に理不尽さを感じています。こんな「疑問」は意味がないのかもしれませんが。
しんどいですね。現状打破とはいきません。