思うことを。
結構真面目に考えています。内容的には「面白い」と思わない人のほうが多いでしょうが。日々の葛藤というのがあります。別に誰かに認めてもらうつもりもありません。時間的に余裕もなく、押し寄せる色々なものに抗うこともできず。色々なことに「疑問」を持つ。そのことに関して周囲で賛同を得ることができない。難しいなと思っています。
前の記事にも書きましたが。「指導すること」について色々と考えることがあります。周囲では「クラブチーム」を作って指導に対する「対価」を受け取りながらやっているというのが見受けられます。きっとこれが「正しい形」なのだと思っています。「サービス」を提供する。そこに対して「指導を受ける」人は「対価」を払う。受益者負担。体のいい「ボランティア」で成り立ってきたこれまでとは大きく流れは変わるのだと思います。それは必要なことなのだと思っています。これまでの「部活動スタイル」という方向性が間違った「システム」の中でやってきたことから変わっていく必要がある。教育に関することの9割くらいは変更するべきだと思いますが。時代錯誤の取り組みをいつまで続けるのか。
「教員免許制度」がなくなりました。これって何だったのか。「教員に研修を義務付けて質を高める」みたいな話だったと思います。「お金を取れるところから取る」みたいな印象でした。やっていることは意味がない。「教育の最新事情」というテーマの中で退職した「元管理職」が話をする。どこが最新なのか。新しいことがすべて正しいわけではない。その中で教員免許を持っていない(失効している)教員が授業をしたといって「単位を認められない」というニュースが出てきました。ずっと授業をしていて「教科指導」はできる。それでも「教員免許」がないから「単位を認めない」という話。そんなことをいったら「教員」という肩書があっても授業が成立していない人間がどれだけいるのか。「身分保障」というのはあると思います。しかし、「指導力不足教員」を洗い出すための「システム」みたいなものを作っておきながら実際は「形骸化」する。それによりどれだけ多くの人に負担が出てくるのか。「仕方ないよね」で済ませる話ではない。それをずっと放置している。
そんな中で「教員になる人が少ない」という理由で「免許を持っていなくても教員になれる」という訳の分からないシステムが導入される。これってどうなのか。教職教養の授業を取って「教科教育」の授業を選択して(意味はない部分は多々ありましたが)、教育実習に行って教員採用試験のための勉強をしてそれで「合格」になる。しかし、もう「教員免許」はただの紙切れになっている。「教員免許」がないから教員にならないのではない。もっと根本的な問題が存在するのです。本当にそれが分からないのであれば幸せな人たちだと思います。間違いなく崩壊の一途を歩んでいるのでしょう。
ここ最近ずっと「あまりにも扱いがひどくないか」と思うことが増えていました。仕事はオーバーフローするくらい流れてくる。大会の部分では「明らかにおかしい」と思うことを口にしても「仕方ない」とか「こっちが悪い」みたいな話になる。それなのに色々なことをやらないといけない。他のことに関しても私はほとんど知らされないまま色々なことが進んでいって、最終的に「やって」みたいなことになる。そんな中でなんで自分だけが我慢してやらないといけないのか。「やれる人がやるしかない」みたいな意味の分からない理由で「理不尽」が「正当化」される。だったら「やらない」方が圧倒的にいいじゃないか。別にやりたいと言っているわけでもないのに「やらされる」のであれば「やらない」という選択をするのも必要なのではないか。これまでずっと「我慢」してきましたが、もうどうでもいいなと思う部分が大きくなっています。
「陸上競技」との関わり方。ここも自分の中で考えていく必要があるのかなと思っています。「思うこと」を話しても「また~」みたいな感じで流されることが多い。問題点を指摘したり、確実におかしいことを「kanekoが言っているだけ」という雰囲気がある。冗談じゃない。これまで我慢をしてきた部分がありますが、「正しいこと」を指摘しているのに「仕方ない」で済まされる。「招集時間」があってその時間内に選手が行くのに「嫌味」や「注意」をされる。ギリギリに行くのではなく余裕を持って「招集時間」にいっているのに。室内練習場でバトンを持っていたら「道具は使えない」ので出ていくように言われる。「山口県ルール」だとまで言われてなんで我慢しないといけないのか。しかし、それを指摘したところで「我慢」を強いられ、「不条理」な話で終わる。それにより「kanekoはめんどくさいやつだ」とまで揶揄される。
なんか本当に馬鹿らしくなってきています。これが「正しい」というのであれば私自身が歪んでいますから逆にそういう場面に行くべきではない。審判をすることも必要ないのではないかなと。そう考えると「指導」についても考えさせられます。「どちらが間違っているのか」という議論ではなく「めんどくさいから」という感じで本当にやらないといけないことが蔑ろにされる。
これまでずっと我慢してきました。限界に近いなと思っています。というかすでに限界を越えているのかなという気もしています。なんでこんな嫌な気持ちを抱えながらあれこれやり続けないといけないのか。本当に面白くないなと思う部分が自分の心の大部分を占めています。
無理かもしれないなと思っています。
結構真面目に考えています。内容的には「面白い」と思わない人のほうが多いでしょうが。日々の葛藤というのがあります。別に誰かに認めてもらうつもりもありません。時間的に余裕もなく、押し寄せる色々なものに抗うこともできず。色々なことに「疑問」を持つ。そのことに関して周囲で賛同を得ることができない。難しいなと思っています。
前の記事にも書きましたが。「指導すること」について色々と考えることがあります。周囲では「クラブチーム」を作って指導に対する「対価」を受け取りながらやっているというのが見受けられます。きっとこれが「正しい形」なのだと思っています。「サービス」を提供する。そこに対して「指導を受ける」人は「対価」を払う。受益者負担。体のいい「ボランティア」で成り立ってきたこれまでとは大きく流れは変わるのだと思います。それは必要なことなのだと思っています。これまでの「部活動スタイル」という方向性が間違った「システム」の中でやってきたことから変わっていく必要がある。教育に関することの9割くらいは変更するべきだと思いますが。時代錯誤の取り組みをいつまで続けるのか。
「教員免許制度」がなくなりました。これって何だったのか。「教員に研修を義務付けて質を高める」みたいな話だったと思います。「お金を取れるところから取る」みたいな印象でした。やっていることは意味がない。「教育の最新事情」というテーマの中で退職した「元管理職」が話をする。どこが最新なのか。新しいことがすべて正しいわけではない。その中で教員免許を持っていない(失効している)教員が授業をしたといって「単位を認められない」というニュースが出てきました。ずっと授業をしていて「教科指導」はできる。それでも「教員免許」がないから「単位を認めない」という話。そんなことをいったら「教員」という肩書があっても授業が成立していない人間がどれだけいるのか。「身分保障」というのはあると思います。しかし、「指導力不足教員」を洗い出すための「システム」みたいなものを作っておきながら実際は「形骸化」する。それによりどれだけ多くの人に負担が出てくるのか。「仕方ないよね」で済ませる話ではない。それをずっと放置している。
そんな中で「教員になる人が少ない」という理由で「免許を持っていなくても教員になれる」という訳の分からないシステムが導入される。これってどうなのか。教職教養の授業を取って「教科教育」の授業を選択して(意味はない部分は多々ありましたが)、教育実習に行って教員採用試験のための勉強をしてそれで「合格」になる。しかし、もう「教員免許」はただの紙切れになっている。「教員免許」がないから教員にならないのではない。もっと根本的な問題が存在するのです。本当にそれが分からないのであれば幸せな人たちだと思います。間違いなく崩壊の一途を歩んでいるのでしょう。
ここ最近ずっと「あまりにも扱いがひどくないか」と思うことが増えていました。仕事はオーバーフローするくらい流れてくる。大会の部分では「明らかにおかしい」と思うことを口にしても「仕方ない」とか「こっちが悪い」みたいな話になる。それなのに色々なことをやらないといけない。他のことに関しても私はほとんど知らされないまま色々なことが進んでいって、最終的に「やって」みたいなことになる。そんな中でなんで自分だけが我慢してやらないといけないのか。「やれる人がやるしかない」みたいな意味の分からない理由で「理不尽」が「正当化」される。だったら「やらない」方が圧倒的にいいじゃないか。別にやりたいと言っているわけでもないのに「やらされる」のであれば「やらない」という選択をするのも必要なのではないか。これまでずっと「我慢」してきましたが、もうどうでもいいなと思う部分が大きくなっています。
「陸上競技」との関わり方。ここも自分の中で考えていく必要があるのかなと思っています。「思うこと」を話しても「また~」みたいな感じで流されることが多い。問題点を指摘したり、確実におかしいことを「kanekoが言っているだけ」という雰囲気がある。冗談じゃない。これまで我慢をしてきた部分がありますが、「正しいこと」を指摘しているのに「仕方ない」で済まされる。「招集時間」があってその時間内に選手が行くのに「嫌味」や「注意」をされる。ギリギリに行くのではなく余裕を持って「招集時間」にいっているのに。室内練習場でバトンを持っていたら「道具は使えない」ので出ていくように言われる。「山口県ルール」だとまで言われてなんで我慢しないといけないのか。しかし、それを指摘したところで「我慢」を強いられ、「不条理」な話で終わる。それにより「kanekoはめんどくさいやつだ」とまで揶揄される。
なんか本当に馬鹿らしくなってきています。これが「正しい」というのであれば私自身が歪んでいますから逆にそういう場面に行くべきではない。審判をすることも必要ないのではないかなと。そう考えると「指導」についても考えさせられます。「どちらが間違っているのか」という議論ではなく「めんどくさいから」という感じで本当にやらないといけないことが蔑ろにされる。
これまでずっと我慢してきました。限界に近いなと思っています。というかすでに限界を越えているのかなという気もしています。なんでこんな嫌な気持ちを抱えながらあれこれやり続けないといけないのか。本当に面白くないなと思う部分が自分の心の大部分を占めています。
無理かもしれないなと思っています。