かなり気分的に停滞しています。土曜日に文化祭がありこの準備に明け暮れました。クラス経営的には比較的安定していると思っています。適度な距離感があるのと「何が何でも」という部分がないからなのかもしれません。これが良いことなのかどうなのか相変わらず分かりませんが。これまでクラス経営で「これはまずい」と感じることはありませんでした。師匠が「上手くいかない人は学年が変わっても上手くいかない」という話をされていたことがあります。こういう部分ではクラス経営に関してはそれなりの適応力があるのかもしれません。
文化祭当日、何人かの卒業生が来てくれていました。前回担任をしていた子も数人。ありがたいことです。前日に「危機的状況だからタイミングが合えば来てほしい」という話をしていました。模擬店の売り上げに協力してもらうことに。そういう感じの中で卒業生が「先生、誕生日おめでとうございます」という話が出ました。「生徒にお祝いしてもらってんですよね」という話まで。何故そのことを知っているのか?と確認するとTwitterで「kanekoの誕生日」というのが拡散していたようです。確かに色々な生徒に「おめでとうございます」と言われました。この話をうちの妻にしたところ、「まー普通はそうやって祝ってもらえないんだから良いことなんじゃない」と軽く言われました。見えないところで情報が流れているというのはちょっと怖いなと思う部分がありましたが、生徒に祝ってもらえることというのはそうないのかもしれません。
が、気分的に停滞感があるのは間違いまりません。この文化祭準備の1週間、微妙な気持ちの中でやっていました。放課後すぐにあれこれ仕事が入る。こればっかりは仕方ないことだと思っています。やるべき仕事はやはりこちらですから。その部分を度外視して他のことをやり続けるというのは良いことではないと思っています。部活動業務はこういう所から考えると二の次。部活の指導をして給料をもらっているわけではありません。あくまで「ボランティア」の部分、趣味の延長の部分です。このことは一般的に受け入れられないでしょうね。中学校の顧問などは「専門外」であっても「半強制的」にその役割を求められます。
これも感覚の問題なのですが、自分の意志で「生徒のために何かしたい」と思う部分と周りから「生徒のために何かやれ」と言われるのでは全く違います。自分の内側から湧き出てくる「エネルギー」が存在して初めて「誰かのためにないかをやりたい」と思えるのではないか。これを「やるのが当たり前だからやれ」と言われるのは違う気がしています。教職員だから全ての人が同じ感情を持って人と関わっているかどうかというのは分かりません。私と同じ感覚で生徒と関わっている人がいるのかどうかも不明。これも客観的な指標があるわけではありませんから何を持って比べるのかもわからないという状況です。
あまりにも多くのことがありすぎて自分の「立ち位置」を見失っているのかもしれません。「授業をする」「付随業務をする」というのは給料をもらう対価であり、自分の人生の中の「時間」を売っていることになります。生きている時間は限られていてその時間をどのように使うか。今は最低限の生活をするために自分の人生の中の「時間」をお金で買ってもらっている。「時間」というのは限りがあります。いつも思うことですが明日今の命が失われてしまうかもしれない。その時、「時間」は止まってしまう。そうであれば限りある「時間」をどのように誰のために使うのかというのを考えなければいけません。ドライな考え方をすれば勤務時間の8時間のみで十分なのです。それ以外の時間を働くために使ってもその対価を得ることはありません。一般企業であれば多少なりと残業代が出るのかもしれませんが。今の仕事の中でそういう「対価」は一切発生しません。勤務時間をオーバーして働くことで得られる「対価」というものは形あるものとしては一切ないのです。
そうであれば「自分が納得できる形」で時間を使いたい。「生徒のために何かをしたい」と思うのであればその部分が「対価」だと思っています。しかし、ここを誰かから強制されて「生徒のために何かしなさい」と言われるのであれば自分自身の中の「気持ち」が上手く処理できないと思います。別に「何かしなさい」と強制されているわけではありません。そういう状況になった時に「納得できるか」どうかというのが自分の中の価値基準として存在しているというだけ。
気分的にかなり停滞気味です。何故そこまでしてあれこれやらなければいけないのか?そこに対価があるのか?分かりませんし、見えてきません。
文化祭当日、何人かの卒業生が来てくれていました。前回担任をしていた子も数人。ありがたいことです。前日に「危機的状況だからタイミングが合えば来てほしい」という話をしていました。模擬店の売り上げに協力してもらうことに。そういう感じの中で卒業生が「先生、誕生日おめでとうございます」という話が出ました。「生徒にお祝いしてもらってんですよね」という話まで。何故そのことを知っているのか?と確認するとTwitterで「kanekoの誕生日」というのが拡散していたようです。確かに色々な生徒に「おめでとうございます」と言われました。この話をうちの妻にしたところ、「まー普通はそうやって祝ってもらえないんだから良いことなんじゃない」と軽く言われました。見えないところで情報が流れているというのはちょっと怖いなと思う部分がありましたが、生徒に祝ってもらえることというのはそうないのかもしれません。
が、気分的に停滞感があるのは間違いまりません。この文化祭準備の1週間、微妙な気持ちの中でやっていました。放課後すぐにあれこれ仕事が入る。こればっかりは仕方ないことだと思っています。やるべき仕事はやはりこちらですから。その部分を度外視して他のことをやり続けるというのは良いことではないと思っています。部活動業務はこういう所から考えると二の次。部活の指導をして給料をもらっているわけではありません。あくまで「ボランティア」の部分、趣味の延長の部分です。このことは一般的に受け入れられないでしょうね。中学校の顧問などは「専門外」であっても「半強制的」にその役割を求められます。
これも感覚の問題なのですが、自分の意志で「生徒のために何かしたい」と思う部分と周りから「生徒のために何かやれ」と言われるのでは全く違います。自分の内側から湧き出てくる「エネルギー」が存在して初めて「誰かのためにないかをやりたい」と思えるのではないか。これを「やるのが当たり前だからやれ」と言われるのは違う気がしています。教職員だから全ての人が同じ感情を持って人と関わっているかどうかというのは分かりません。私と同じ感覚で生徒と関わっている人がいるのかどうかも不明。これも客観的な指標があるわけではありませんから何を持って比べるのかもわからないという状況です。
あまりにも多くのことがありすぎて自分の「立ち位置」を見失っているのかもしれません。「授業をする」「付随業務をする」というのは給料をもらう対価であり、自分の人生の中の「時間」を売っていることになります。生きている時間は限られていてその時間をどのように使うか。今は最低限の生活をするために自分の人生の中の「時間」をお金で買ってもらっている。「時間」というのは限りがあります。いつも思うことですが明日今の命が失われてしまうかもしれない。その時、「時間」は止まってしまう。そうであれば限りある「時間」をどのように誰のために使うのかというのを考えなければいけません。ドライな考え方をすれば勤務時間の8時間のみで十分なのです。それ以外の時間を働くために使ってもその対価を得ることはありません。一般企業であれば多少なりと残業代が出るのかもしれませんが。今の仕事の中でそういう「対価」は一切発生しません。勤務時間をオーバーして働くことで得られる「対価」というものは形あるものとしては一切ないのです。
そうであれば「自分が納得できる形」で時間を使いたい。「生徒のために何かをしたい」と思うのであればその部分が「対価」だと思っています。しかし、ここを誰かから強制されて「生徒のために何かしなさい」と言われるのであれば自分自身の中の「気持ち」が上手く処理できないと思います。別に「何かしなさい」と強制されているわけではありません。そういう状況になった時に「納得できるか」どうかというのが自分の中の価値基準として存在しているというだけ。
気分的にかなり停滞気味です。何故そこまでしてあれこれやらなければいけないのか?そこに対価があるのか?分かりませんし、見えてきません。