kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

やり場のない想い2

2020-05-24 | 陸上競技

続きを・・・。

 

「7月の記録会」の中止が分かる前の段階で「個人面談」がありました。学校が始まる前の段階で3年生の状況を把握しておくという感じで。色々とありましたから3年生は「不安」を抱えていると思います。そうであればこちらもしっかり対応していく必要があります。当然の話です。

 

その面談の中で担任をしている選手が最初から「ちょっと元気がないな」と感じました。進路の話をしていたというのもあると思いますが。「これは・・・」という感じがありました。話をしていくと「引退しようと思う」ということでした。前日まで毎日練習が終わった後に「様子」を報告してくれていました。少しずつ走りが作れているという感じを受けていました。それだけに「どうしたのか?」という部分がありました。

 

「県総体がなくなり中国大会、インターハイもない。」この言葉。私にとっては重かったですね。この冬、どんな思いで練習に取り組んできたのかは近くで見てきました。昨年、県総体で200mで7位となり中国大会に進めなかった。それをばねに県新人で3位に入り中国新人へ。中学時代に実績はない。決勝に残ったことがない選手が努力を積み重ねて中国大会をつかんだ。そしてこの冬は「リレーでインターハイへ」という思いの中で進んできた。それが「もうない」という状況の中でどうするのか。

 

私にそれを言うのは本人的にはかなりしんどかったと思います。それでもきちんと伝えてくれました。選手には前から言っていました。「自分の考えていることをしっかりと話してほしい」と。なんとなく引退するのではなく「しっかりと自分の考えを持ってほしい」という部分。譲れない部分です。この状況で私が「引き留める」というのはできません。自分の判断です。途中で「辞める」というのとは違います。やりたいけど何のためにやっているのか分からないという状況。それが痛いほどわかるから止める理由がない。

 

自宅の近くに「実業高校」がありますが、わざわざうちの学校を選んできてくれました。この意味は大きいと思います。「競技をしたい」という考え。周りがどこに進学しようと「競技を一生懸命できる環境」を選んでくれた。結果、これまで果たせなかった大きな目標を果たすことができた。そして「これから先」をみてやってきた中での「決断」です。本人もしんどかったと思います。

 

その話を聞いて全体にもう一度投げかけました。「記録会もない」状態でどうするか。しっかりと考えてほしい、と。7月末か8月上旬に「県内選手限定」で県選手権を実施する可能性がある。これも実際にできるかどうか分からない。「しっかりと進退を考えて欲しい」と。「何が何でも続けろ」とも「もうやらなくてもいい」とも言いませんでした。いや、言えませんでした。3年生の「想い」を考えるとこちらがなんと言葉をかけても「エゴ」になるのではないかと思っていたからです。一番辛い3年生に対して「想い」を尊重することにしていました。

 

上述の選手、夜個別に連絡をくれました。保護者と話し合って「引退する」ことにしたと。今まで走っているだけだった練習も高校に入って指導を受けて、初めて陸上競技を知れたと思っています。不完全燃焼なところはあるけど、とことんやって強くなろうという目標は叶えられたと思います。人としても選手としても成長できたと思っています。この文章を読んで涙が止まりませんでした。こうやって書いている中でもまた涙が出てきます。この子がどのような「想い」で「最後」を迎えたのか。考えると辛すぎる。しかし、その「選択」を何よりも尊重したいと思っています。

 

長くなりそうなので記事をいったん切ります・・・。すみません。

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やり場のない想い

2020-05-24 | 陸上競技

思うことを。これまでも書こうかなと思っていましたが・・・。

 

競技に関して。突然のように2月末に学校が「休業期間」に入りました。卒業式も卒業生のみ。きちんとした「別れの場」が作れない中での卒業。在校生は「先が見えない状態」で休業に入っていきました。この時点では「競技会」については一切触れられていない。通常通り試合が実施されるのではないかと信じて各自が練習に取り組むという形でした。

 

3月の「休業期間」に関してはかなり練習ができたと思っています。選手が練習について自分で「概要」を作成してそれに対してこちらが「詳細」を作り直す。毎日のように全員分をやっていました。作成しない者は一人もいない。集まって練習するというのは許可できないので「個人でやる」という感じでした。練習道具を持って帰って実施するという形。「なんとなくやる」というのではなく「計画をして練習をする」という部分を重視していました。「思い付き」で練習をすることが増えます。「身体を動かす」というのが目的ではなく「競技力を高める」ことを狙いとしてやっています。過不足が出ないような練習をしていかなければいけないと思っていました。

 

3月末、日本陸連から「6月中の競技会を実施しない」という通達が出ました。他の競技に先駆けてという部分がありました。春季サーキットの実施の関係もあったと思います。先が見えない状況で「6月末まで」というのは大きな衝撃を受けました。このことは当時blogに記していると思います。この段階で選手に対して「選択する」という話をしました。6月末まで。これは「5月末に県総体がない」という事実を意味します。この時点では「県総体中止」ではなく「県総体延期」ということになっていました。「先が見えない状況で本当に練習を続けることができるか」という部分です。かなり話をしました。選手を前に話をするということでこちらも涙を流しながらの対応でした。この子達の「想い」を考えると単純に「前を向いて練習をしよう」とはいえないからです。

 

実際、選手には「たぶんインターハイは実施されない」という話もしていました。状況が状況だけに「全国各地から人が集まる」というのは難しいと考えていたからです。「県総体延期」で「インターハイは通常通り実施」というのは考えると無理だろうなという感じがあったので。その部分も含めて「進退を考える」という提案をしました。「そんなに早く言う必要があるのか」と批判されるかもしれません。実際に「インターハイ」が実施されたらどうするのか。そういわれる可能性もあります。が、「暗闇の中ひたすら進め」ということが本当に「意味のある事」かどうかです。

 

さらに5月のGWに行われる予定の県選手権。通常であれば早い段階で「中止」または「延期」という判断をする必要があります。しかし、これも他県と比べてかなり遅い判断。申し込みをする必要があるのかどうかを他の指導者と悩みました。「実施される可能性があるのか」という部分。通常考えれば絶対に不可能です。県外に出ている大学生が戻ってきて試合に出るというのはほぼ不可能。そういう部分も踏まえての判断なのか。結局、申し込みをした後に「延期」が決まる。選手には「あるかもしれない」としか伝えられない状況でした。

 

この段階では選手は「7月に県総体があると信じて取り組む」ということでした。これは非常にしんどいなと思う部分がありました。4月に入って練習として学校で集まってできるようになりました。前向きに練習ができているなという感じを受けていました。通常、大会が実施されるかどうかわからない状況での「練習」というのは難しい。それでお「7月に実施されるであろう県総体に向けて」やるという思いで進んでいました。2週間経過してから、2週間の「自宅待機」期間となる。これにより私だけではなく選手も「自宅待機」となります。この2週間というのは大きいなと思います。この期間の終了とともに「山口県での県総体の中止」という通達が。私よりも選手のほうが先に知っていました。辛すぎる。

 

ここでもう一度、全体に連絡をしました。2・3年生に対して「進退を考える」という部分の話をしました。このあたりで中国大会も実施されないというのは決まっていたと思います。インターハイも実施されないだろう。それに加えて大きな目標であった中国大会までも実施されない。その中で「何を目標に進むのか」という部分。「7月に記録会があるかもしれない」という話はしていました。が、県総体と記録会では重みが違う。この時は「走る場所を提供できれば」と考えていました。実際、その話をして以後「現実」を突き付けられることが何度かありました。この状況で本当に競技会がができるのか。うちの選手を守る。それだけではなく「県内のすべての選手を守る」ということを考えると「7月に競技会」というのが適切なのか。

 

そしてこの「7月の記録会」も「中止」となる。この段階で「3年生」に対してどうするのか。「前を向いてやれ」というのは完全に指導者側の「エゴ」だと思います。「走る場所を」という思いがないわけではないですがそれは「こちら側の理論」でしかない。「選手の立場」からすれば「何のために?」「いつまで?」という気持ちが大きくなると思います。「7月の記録会」というだけで「進学校」にとってはすでに「参加する可能性はない」という大会になっています。すでに2か月勉強が遅れていてその中でまだ2か月も練習を続けていくことができるのか。「インターハイが8月だからそこまではやってみれば?」なんてことはナンセンスです。「力を試す」場所さえない状況で何を目指してやるのか。

 

「穴を掘れ」といって掘らせる。が、入れるものがないので「埋めて」といって穴をふさぐ。それを何度も何度も繰り返すことができるのか。私には無理だと思いました。選手にとって「意味のある時間」を過ごさせたい。それが一番の信念です。「続けることに意味がある」という人もいるのかもしれません。その「意味」を教えてもらいたい。「何もなくても続けていくことが大事だ」というのは違う。そう感じていました。

 

まとまりません。長くなるのでいったんここで切ります。

 

 

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悲しい事実

2020-05-20 | 陸上競技

「プラス」のことだけを書き続けることができればきっと理想なんだと思います。が、現実は「そんなことはない」という部分があります。こうやってblogを書いていたら「良いこと」を書き続けたいなと思うのですがそんなことは続かない。当然のなのかなと。

 

職場に行って「水槽」を見るとレッドビーシュリンプが2匹☆になっていました。このことに関しては非常に辛い。買い始めてもう少しで2か月が経過しようというところまで来ています。最初の1か月の半分はほとんど様子を見ることができない。それでもたくましく生きてくれていました。非常に順調。その後も順調だったのですが1匹☆になってからポツポツ死といわれるように少しずつ☆になっていきました。これを掬って埋めるという行為は非常にしんどい。

 

順調だった時には「気づかない」ことがたくさんあります。何もしなくても「うまくいっている」のだから。しかし、「こういう状況」になった時に「何が原因なのか」を探る必要があります。大切な「命」を預かっています。2㎝しかありませんが、大切な大切な命です。「育てる」というのはそれを全て受け止めることだと思っています。申し訳ないという気持ちが大きい。

 

少し前から兆候はありました。レッドビーシュリンプが隠れて出てこないというのが続いていました。そこから少しずつ☆になっていく感じがありました。昨日は餌をあげてそれに集まって来るという感じがありました。そう考えると数日前からは餌をあげても「ツマツマ」して食べている様子もない。これは「調子が悪い」というのを示していたのだと思います。

 

たぶん、この時点で「すでに手遅れ」だったのかもしれません。1週間前の状況がエビには出てくるようです。水質の環境も考えなければいけません。

 

要因はいくつか考えられます。一つ目は「サーモスタットを切ったこと」ではないかなと。レッドビーシュリンプは非常に繊細です。調べていくと温度差が2~3度あるとそのダメージで☆になるようです。お店の人に言われて素直に「切った」というのは私自身の責任です。レッドビーシュリンプの状況をしっかりと見ることができていなかった。それにより夜に温度が下がったことが考えられます。「暑さ」にも弱いのですが「寒暖差」にも弱いようです。一気に温度が下がってしまったことでダメージが大きかったのかなと。

 

さらには職場にいるとどうしても「餌をあげたくなる」というのも大きな要因だったと思います。水質を安定させるためには3か月から6か月くらいかかる。その間に餌をあげすぎるとよくない。余った餌を分解するバクテリアが活動する際にアンモニアなどを発生させる。それをきちんと分解するためにはやはり環境が整わないといけない。「関わりすぎる」ことで水槽内の環境を悪化させていたのかもしれません。「よかれ」と思ってやったことが実は「マイナス」になる。その部分を自分自身で考えないといけないなと感じています。

 

全部で14匹いたレッドビーシュリンプは現在7匹になってしまいました。申し訳ないなという感じが強くあります。今、私自身がしっかりと勉強することでこれから先の「命」を育てていければと思っています。責任をもって関わっている。その部分も自分で考えていきたいなと思っています。

 

これからどうするか。もう一度勉強したいと思います。最初がうまくいったからそれから先も順調に進むとは限らない。だからこそ「何をやるべきか」を学ぶ必要があります。

 

これまで「学んできたこと」を別の角度から、異なることに置き換えてみていくことで分かってくることがあります。世の中のことは最終的には「つながっている」と思います。その部分を理解してどう行動するか。どのように対処するか。勉強になります。

 

競技指導において「取り返しのつかないミス」を何度もしてきています。「次に生かす」というのは実は無責任な話だと思っています。目の前にある現実に対して「責任」をもつ。それを持ち続けていかなければいけない、魂に刻み込む必要があるなと感じています。

 

受け止めながらやっていきます。反省しかありません。ごめんなさい・・・。

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「部活動」の意味は??

2020-05-19 | 陸上競技

思うことを。とにかく「アクセス数が増えている」ことが不思議でたまりません。何度か書いていますが「それほど面白くない」と思っています。かなりマニアックなことを書いています。一般の人が見ても「こいつ何書いているんだ」を思われるかもしれない。基本的に「他者のblog」を読むことがないので私が書いているblogがどうなのかは分かりませんが。

 

「スポーツ」と「部活動」の違いは何かなと考えています。これがこれから先、自分の進む方向を示すのではないかなと。勘違いされやすいですが「部活至上主義」で陸上競技をやっているつもりはありません。以前コメントで書き込みがありましたが「技術指導だけしておけ」という意見もあるのだと思います。そういう「考え方」もあるのでしょう。私は違う。だからといって「技術指導だけすればいい」という意見がこの世に存在するというのも受け止めていかなければいけないのでしょう。それぞれが「考えること」がある。

 

生涯スポーツという言葉がある。やはり「スポーツ」というのは「楽しい」という中でやっていくものなのかもしれない。日本の「部活動」はどちらかというと「規律」を求められ「従わせる」ことが多いのかもしれない。最近はずいぶん変わってきていると思うが・・・。「コーチング」という視点から見るのかどうか。ここも考えていかなければいけないのかなと。

 

「スポーツをしている人」というのは何となく「きちんとしている」と思われがち。「ハロー効果」という部分もある。「競技力がある選手は人間性も素晴らしい」という偏見。実際はそんなことはなかったりする。「競技力」だけを求めていれば「力がある者が正しい」という見方をする人もいる。自分よりも「実績」がある人は素晴らしくて結果が出なかった選手に対して「見下す」こともある。もちろん、全員ではない。

 

ある組織の中心が「過去の競技力」や「過去の実績」によって編成されることは多々ある。そこには「俯瞰する」ことや「合理的に考える」という能力は問われない。これは「社会生活」のなかの大半はそうだと思っている。選手として競技力があったから「組織の上に立って動ける」というのはイコールではない。大きな差がある。

 

競技実績がある人が「白だ」と言えばそれは正しく聞こえる。私のような「普通のおっさん」が「黒だ」と言っても説得力がない。それは間違いなく「ハロー効果」だと思う。実験してみたら面白いと思うが競技実績がある人が「間違い」を言って私が「正解」を言ってどちらを信じるか。8割以上の人は「有名な選手が言っているのだから正しい」という評価をする気がする。

 

「部活動」は「多くの成功体験の上に成り立つ」という部分がある。ある選手が「速くなった」のだからその練習は正しい。経験則の中で「理論」が語られる。もちろん、全員がそうだとは言わない。指導者がいなくても「速くなる選手」がいるという事実もある。巡りあわせがよければ「指導は関係ない」という気もする。私からすれば「普通の選手」が「速くなる」というのが大きいのではないかと思う。そこに「重要なこと」があるのではないかなと。

 

「部活動」が一部では「進学するための一番の手段」となっているところがある。これは「部活動」なのかどうか分からない。中学生、高校生にとって「進学するための手段」として「結果」を求めるというのは少ないのかもしれない。しかし、指導者側にとっては「大きな要素」になる可能性もある。それにより「自分の評価」にもつながるから。こうなると「何のための活動なのか」というのは分からなくなる。こういうスタイルであれば今の状況からすれば「部活動なんかやらなくてもい」という世論が大きくなるのかもしれない。まー、そうでなくても「ブラック部活」みなたいな言い方をされて目の敵にされているのだから。

 

プロスポーツ選手でも「感情的」になって自分のプレーをコントロールできなくなる時がある。それにより「負けてしまう」ということも多々ある。そこに対してコーチが「足りない部分」を補うような形でやっていくのかなと。単純に「いわれたことをやっておけ」というスタイルではない。「対等の立場」でやっていく。まーこれに関しては「お金を払っているのだから勝てるようにしろ」という部分もあると思う。勝つために高いお金を払って「コーチ」を雇っているのだから。

 

「スポーツ」は「楽しむためのもの」だと思う。「部活動」も同じ部分があるとは思う。が、それだけではない。それは「教諭」が「コーチ」という立場になるから。行動において「相応しくない」と感じた部分があれば指摘する。叱責することもある。「子供だから仕方ない」という人もいるだろうが「ダメなものはダメ」というのを教えていくのもこういう場面ではないか。

 

「座学」として何かをやっているだけでは分からない部分もある。それが「他者と行動を共にする」ことで見えてくることが多々ある。それは今後のためにもきちんと指導していく必要がある。何かをやらせたら「不平不満しか言わない」という選手もいるだろう。その言葉を聞いたときに「周りがどう感じるか」を教えていくことは必要になる。「ああいう人だから仕方ない」と周りが妥協する場面が多すぎる。本当はよくなくても「言っても仕方ない」で終わってしまう。

 

これが「スポーツ」という場面だけであれば「自分には関係ないからいいじゃん」で終われるのかもしれない。別の場所でやればいいのだから。しかし、「部活動」は「学校施設」を利用しながらの「教育活動」になる。そうであれば「見て見ぬふり」をすることは「きちんとやっている選手」にとってマイナスになる。「別の場所でやる」という話にはならない。

 

「オンライン授業」がもてはやされる。「その場に行かなくてもできる」ということで。それが主流になるのであれば「学校」は「塾」には勝てない気がする。「学力」だけを追い求めて「点数を取る」ことだけをやるのであれば「他の活動を一切やらない」という中で「学力」に特化すればいい。「学力」が唯一の「人を評価する基準」となるのであれば「学校」よりも「塾」のほうが効率は良い。

 

「競技力」だけが唯一の「評価」である活動と何ら違わない。多くの活動の場面で「多様性」を認めていくことや「自分に足りないこと」に気づく、気づかせる場面は必要だと思う。「部活動」というのはそういう場面なのかなと思っている。「速くなる」ことを通じて「様々なこと」を身に付けていく。中途半端にやるのではなく「徹底的にやる」ことで見えてくるものがある。

 

「勉強だけ」「部活動だけ」という話をしているのではない。色々なものはつながっている。そのつながりを大切にしなければいけない。それが「学校」なのかなと。「部活」が批判されることは多い。今の私がやっていることも「批判の対象」なのかなと思う。選手からは「いつも怒られる」という話にしかならないのかもしれない。信念はある。それが「今」ではなく「これから先」選手が気付くことになるのかもしれない。

 

「結果」というのは「何か」を考えたい。

 

あー結局まとまらないんです。いつものことです。気が向いたらまた書きます。書きたいことを勝手に書いているだけなので。

 

とりあえずここまで・・・。では。

 

 

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育てています

2020-05-18 | 陸上競技
真面目なことばかり書くと面白くないので。もともとこのblogに何を期待されているのか分かりません。24時間365日、常に元気なわけではありません。日常的に何かをしているという部分を書いておくというのも難しいなと思う部分もあります。
 
とりあえず。現状やっていることを書いておきます。
 
雨が降っていたりなどいろいろなことがあります。通常であれば頻繁に職場に行きますが今は「在宅勤務」が基本。それでも1か月前と比べると全く違います。何度か「作物を育てている」ことを書いています。その続きに触れておきます。
 
先日も少し更新していましたが。先週、花壇を見に行くと雑草が生えていました。それが・・・。雑草どころか「生息している」というレベルでした。生物の先生に伺うと「エノコログサ」ではないか?と言われたのですが、表面的に抜いても全く意味がないレベルでした。とにかく根の張り具合が半端ない。これは「雑草」というレベルではないなと。表面的に出ているのは少しでもその「根」を抜いてみるとすごいことになっていました。根を張るというか・・・。花壇の土の中を埋め尽くすレベルでした。写真を撮り忘れていましたが。たぶんまた生えてくると思うので撮影します。詳しい人に聞きたい。
 
で、作物の話。トウモロコシ。気が付いたらシャレにならないくらい大きくなっていました。こんなに大きくなるの??という感じです。まだ5月なのですが。夏がメインだと思っていましたが。かなり大きくなっていました。
 
 
よく見てみると「実」の元になるであろうものが。これが成長していくと「実」になるのかなと。トウモロコシは「風」に吹かれて受粉するということでした。あまり離れたところに植えるとよくないとのことでした。何も考えずに植えていますが・・・。


 
トマトとカボチャ。最初のころは小さかったのですが。気が付くと大きくなっています。先日カボチャは花が咲いていました。が、これは「雌花」だけだったので何もできず。数日間休まざるとえなかったのですが、このタイミングで「雄花」だけが咲いていたようでした。この日、確認をすると新しい「雌花」が咲いた様子が。「雄花」も咲いていたので強制的に「受粉」をさせる。

 
これで最初の作業はクリアでしょうか。カボチャはどのような形でなっていくのか分かりません。が、蔓がどんどん伸びていました、。隣にあるトマトと混じっている感じもあります。もっと離して植えなければいけなかったのかもしれません。様子を見ます。

 
そしてレッドビーシュリンプ。前日に2匹☆担っているという連絡を受けていました。安定して育っていたのですが・・・。理由を考えると「手を加えすぎ」たのかなというのもありました。水槽の中にある「ウィローモス」という水草が伸びてきていたので整える作業をしたりしていました。それがエビにとってストレスだったのかもしれません。
 
さらには先日ペットショップに行ったときに「もう水温が上がりすぎるからサーモスタットを切ったほうがいい」と言われていました、うーん、気になるなと思いながらもそれに従う。そこからエビの動きが鈍くなっていました。案外まだ水温が上がらない状況だったのかなと。
 
ストレスの非常に弱いので・・・。温度差もダメージとして残る。そのダメージはすぐに出るのではなく1週間近くして出るようです。きちんと管理をしなければいけないなと反省しました。



この日は餌をしっかり食べていました。まだまだ勉強が必要です。色々なことをすることで「見えてくる」ものがあります。これが「教育現場」に生かされたり、「競技」に通じる部分がある。面白いなと思います。
 
とりあえず記録しておきます。面白くないかもしれませんが・・・。
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白か黒か2

2020-05-16 | 陸上競技

続き。というか、書き始めたら収拾がつかなくなっています。書きたいことはそれなりにあるので。

 

「白か黒で答えろ」という 難題を突き付けられ

ぶち当たった壁の前で 僕らはまた迷っている

 

というミスチルの歌詞が浮かんだのでこのタイトルにして書き始めたのですが。なんだか何を書いているのかよくわからなくなってきました。昨日、親しい人と二人で「オンライン飲み会」なるものを実施。その中でいろいろと話をしました。そこで感じたことや「何のためにやっているんだろう」と湧き上がってきた自分自身への「疑問」を言葉にしておきたいなと思っていたので。だから「白か黒か」というタイトルに。

 

で、何の話か。勢いで書いているので微妙なのですが。

 

「吹奏楽団」の話でした(笑)。「自分がやっていることは不要なのか」と感じて失意のどん底だったと。しかし、「止まっていても何も始まらない」ということで「オンライン」で「楽団」が集まって演奏会をした。それをネットで配信するという「取り組み」をしたと。自分が「意味がない」と思って「やめてしまう」のではなく「何ができるのか」を考えて動くことで始まったと。

 

スポーツも同様です。「不要不急」だといわれて「外でやるな」という批判も出ました。人がいないところで活動することさえ「悪」とされる。もちろん、人が集まって活動をすることは「感染のリスク」があります。しかし、広い場所で各自で活動することで「他者に感染させる」ことはないでしょうし、「自分が感染する」ということもない。

 

「芸術」も「スポーツ」も本当に不要なのか。高校入試のように「主要5教科」さえ勉強しておけばよいのか。「多様な価値観」に触れることで「見えてくるもの」があるのではないか。「心動かされる」部分が「芸術」や「スポーツ」にはあります。もちろん、「主要5教科」も問題が解けたときに「嬉しい」と思うかもしれませんし、これまで知らなかったことを「知る」ことで喜びが生まれる。

 

「芸術」や「スポーツ」は数値化されにくい部分があります。「素晴らしい音楽」を聴いた時と聞かない時の差を「数値」で示すことはできません。必死に練習してきて「目標の記録」を出したことが「客観的数値」で示されることはない。陸上競技は記録が「数値化」されますが、ある選手にとって「12秒0」が目標値であって別の選手にとって「13秒0」が目標値となるとき、「12秒0」が素晴らしくて「13秒0」がダメだというものではない。単純に「記録を追う」のではなく「記録」が表面的に出るだけだと思っています。それぞれの人にとって「目標」に向かって進んでいくことが重要。

 

オリンピックで金メダルと獲得する。その瞬間だけを切り取って「感動した」という話にはならないと思います。「ナショナリズム」ではないですが「日本人が金メダルを獲得した」から「心が動く」のではない。そこに至るまでの様々な「プロセス」がある。その部分を「感じる」から「心が動く」のだと思います。

 

この「休業期間」において「学習」の遅れは取り上げられてきました。学校での「目的の一つ」には「学力向上」があります。しかし、前の記事にも書きましたが「オンライン授業」だけを考えると「予備校の講師」のほうが圧倒的に上だと思います。そこだけに特化してやっているのでから。「生徒指導」や「学校業務」に追われることなく「授業のことだけ」をやっていける専門家に勝てる要素は低いと思っています。

 

普段の授業の内容を「オンライン授業」でやる。「伝える方法が変わっただけ」という考え方もあると思います。しかし、私は「別もの」だと考えています。「教科内容を伝える」だけであれば本当に「オンライン授業」や「動画配信」ですべては事足ります。「知識」を増やすだけではあればそのほうが圧倒的に早い。予備校の「オンライン授業」を授業料を払って受けるほうが「知識」は飛躍的に高まります。そうであればもう「学校は不要」だと思うからです。

 

「塾があれば学校はなくてもよい」ということになるのか。形式的な話をすると「社会性」を養うのが学校教育の役割だといわれます。一人ではなく他社とのかかわりの中で「自分のやるべきこと」や「立ち位置」を理解する。そいういう「場」なのだと。他者と関わる中で「自分のやり方」を見つけていく。他者との違いを理解しながら「自分がどうするか」を考える。だからこそ「オンライン授業」であっても「何を伝えるか」を考えながらやる必要があるのかなと。

 

「オンライン授業」をすることが素晴らしいという流れがある。今の状況で「学習のサポート」という意味では必要だと思います。しかし、それが「すべて」ではない。ここは忘れてはいけないと思います。通常の授業のように「板書して説明する」というのではない。もっと「双方向性」を高めていく必要があると思うし、「生徒同士のやりとり」ができるようにしていかなければいけない。目の前に生徒がいるというのが「当たり前」だった状況からは変わっている。それは受け入れて「オンライン」だからできることをやる。「オンライン授業」と「教室での授業」は同じであり、違うのだと思っています。

 

また大きく話がずれ始めていますが・・・。

 

「学校」に登校できなくても「できること」がある。「学習」でのサポートは「オンライン」でやればいい。しかし、本当の意味で「止まっている」のは「学習」だけではないという部分にも目を向けていかなければいけない。「芸術」も「スポーツ」も「止まっている」のです。「学校再開」になっていきなりそれを「やろう」という話にはなりにくい。色々な部分が本当は「止まってはいけない」のだと思っています。「学習」の部分が議論されるのであれば「芸術」「スポーツ」も同時に議論されるべきだと思っています。

 

もっといえば「心」や「社会性」などの部分も「この状況でどう育てるか」を考える必要がある。「自宅待機だから心のケアが必要だ」という意見は多くあります。それは「止まった状況」だけ考えていないか。これから先にその「心」をどういい方向に進めるのか。「社会性」をどのように身に付けさせるのか。「自宅待機」だからできないという話ではないと思っています。

 

「学内での携帯電話の使用禁止」がどこの学校でも校則として挙げられていると思います。授業中に「SNS」をしたり「ゲーム」をする生徒が出てくる。学校にいる間は「目の前の生徒と向き合う」というような理由でしょうか。しかし、これから先は「授業においてどのように利用するか」を考えていく時代になっていくと思います。そうであれば「使ってはいけない」ということをいうのではなく「どのように利用するのか」を考えるべきだと思っています。「スマホを学校で使う」ことが「黒」ではなく「白」になっていく。もちろん、「使い方」を学ばせる必要があります。「家庭での指導」ではなく「教育の一環」として位置付けていかなければいけなくなる。

 

「部活動」が「黒」で「社会体育」が「白」なのか。「部活動」をやることが「黒」でやらないことが「白」なのか。休業中に「身体を動かす」ことが「黒」で「家から一歩も出ない」ことが「白」なのか。明確な答えはない。しかし、「スポーツ」を通じて多くのことを学ぶことができる。それは間違いない事実。「学習」と同じように「スポーツ」から学ぶことはある。

 

「数値化」されるものが「白」なのか。それは違う。「既得権」を守るためにいっているつもりはない。「本当に大切なもの」を見つけていく。人それぞれ「得意」なものがある。「多様性」を認めていく場面としてはやはり「学校」は必要なんだと思う。

 

またも全くまとまらない。まー仕方ない。文才がないなとつくづく思います。内容をまとめることもできない。好きに書いています。ただ思いつくままに・・・。

 

また書きます。たぶん。きっと。

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白か黒か

2020-05-16 | 陸上競技

ちょっとだけ?更新します。前回更新してから完全に放置。恐ろしいことに異常なまでに「訪問者」が増えています。全く何もしていない木曜日に「訪問者」が「627」で閲覧数が「2,533」でした。なぜか?理由は全く分かりません。「辛いな」と思うことを書いたので「それは面白い」と感じる人が多かったのか。微妙です。

 

こういう時期だから多くのことを考えます。色々な角度からそれぞれの人が「意見」を述べる。国民総コメンテーター時代です。かくいう私もこうやってblogを書いている。そこには少なからず「私見」が含まれます。「俯瞰して物事を見たい」と思いながらもどうしても「感情」が入ってしまう。当然だと思います。振れ幅がどれだけになるのか。

 

1か月が経過しました。その間にニュースを見たり見なかったり。一番印象的だったのは「吹奏楽団」に所属している男性の話でした。「不要不急」の外出を控えるようにという「緊急事態宣言」が出される。その中で「吹奏楽団」でのコンサートなどは全て中止になった、と。その時に「自分がやて来たことは不要なことなのか」とかなり考えたということでした。

 

多くのエネルギーを注いできたことが社会から「不要だ」と言われている。それを突き付けられたという感覚になったのだと思います。「文化活動」や「スポーツ活動」は社会の仕組みとして「余裕がある」からできるという判断をされがちです。

 

経済的に厳しい状況であれば「楽器を演奏する」ことや「競技スポーツ」をすることは困難になります。ブラジルではサッカーが盛んです。それは「現状を打破する手段」として「プロサッカー選手になる」という方法が根底にある。また、「ボールが1つあればできる」というのも「普及率」に大きく影響しているのだと思います。

 

「緊急事態宣言」が出る。それにより「文化活動」や「スポーツ活動」をすることはまるで「悪」であるかのように批判されていました。「学習活動ができないのにそれ以外の活動のことを考える必要はない」という批判も多く聞きました。この考え方をすべて否定する気にはなりません。余力がないのに他のことにエネルギーを使う必要があるのかという問いかけだと思います。

 

「オンライン授業」について一気に加速していきました。「オンライン授業」ができるかどうかで「生徒のことを考えている」と思われる。ニュースなどでも「オンライン授業」の様子が多く放送されていました。「子供たちのことを考えたらオンライン授業が必要だ」という部分。否定する気はありません。「学力の保証」という部分では何かしらの形で「サポート」はするべきだと思っています。


この時に「プリントアウトした用紙」を示しながら実際に線を引きながら説明するという展開をされいた。学校の授業でも同様に「黒板に字を書いて線を引いて示す」という展開をされているんだろうなと。それが悪いとは思わない。しかし、「目の前に生徒がいる」状況と「スマホの前に生徒がいる」状況では「やり方」が全く違うのではないか。そう強く感じた。

 

これも以前も書きましたが「経済格差」がそのまま「学力格差」へとつながっていきます。「スマホ」を持っているのが「当たり前」の状況。だから「オンライン授業」をして学力保証をするのだ。もっともだと思います。しかし、ネットへの接続環境はどうなのか。携帯会社の主要3社は5月末まで「通信費の超過分の無償化」をしていた。が、「格安スマホ」を使っている子供たちはどうだろうか。実際問題、すべてが無償化にはならないはず。そうなると授業を受けるたびに「超過分の支払い」が求められる。それでも「オンライン授業」を推し進めるのか。

 

一人ずつに10万円が給付される「特別定額給付金」がある。こういう状況なので「もらえると助かる」というのは事実。「もっと欲しい」という人もいるだろう。が、この財源は「赤字国債」になっている。通常の予算では確保できないので「国債」を発行してそのお金を賄っている。日本の「歳出」の4分の1は「国債関係」になっている。これも授業で触れるようにしてきた。「歳入」が不足するので「国債」を発行して「収入」としているが、結局それを返すために多くのお金が使われている。今回のことでさらに負担が大きくなるのではないか。本来削るべきところを削らずに「表面的なサポート」をしていないか。

 

それぞれが「自分の立場」で話をする。それに賛同する人もいれば批判する人もいる。「オンライン授業」が主流になれば「予備校の先生」よりも優れた授業ができるのだろうか。「学習」だけのことを考えれば「学校」自体の存在価値が問われるのではないか。全員が「パソコン」を持っているのであれば「オンライン授業」は成立するかもしれない。が、私学のように高校入学時に「タブレット」を購入するシステムを作ればある程度の対応が可能かもしれない。

 

が、実際は「スマホ」で受けている。そうなると「小さな字は見えない」という部分がある。そうなると「講義」においては「プレゼンテーション」と同じような「技術」が求められるのではないか。パワーポイントで「プレゼン」をするときにたくさんの字を書く人がいる。「聴かせる」のではなく「読ませる」という「プレゼン」をする。それって意味ある?と常に思ってきた。「聴く側」の立場にたっての「プレゼン」にならなければ意味がない。「オンライン授業」を進めるならその部分を先に理解するべきではないか。

 

「オンライン授業」をしようと思って試行錯誤した。最初は白紙の用紙に「文字」を書いて示すような形にしていた。が、これは費用対効果が低い。再現性も低くなる。何よりも「字が小さくて見えない」という部分があった。だからそれから考えながらやっていった。スマホで見ても分かるようにする。それが「立場」を考えた授業展開なのかなと。展開を変えた。そしてある程度の流れを作ったらそこから「発展」させて技術的なことをやることはしない。そこから先は私の自己満足になるだろうなと感じたから。

 

「やる必要はない」ことではあった。別に休業期間中に「オンライン授業」をする必要性があるかないかと言われたら「やっていない人のほうが多い」というのが現実。さらには突然このような状況になったので「受け持っている授業」に参加している生徒全員の連絡先が分かるわけではない。それでも「何かできないか」と考えて「陸上競技部の選手」に対して「補習」の形で授業を行った。意味があったか。効果があったか。それは分からない。

 

あれ?書きたいことから大きく話がそれてきている。「白か黒か」という内容を書いていたはずなのに・・・。とりあえず話を戻したいので記事を替えます。すみません。


むちゃくちゃ見当違いのことを書いているかもしれません。まーいいんです。

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現実と向き合う

2020-05-13 | 陸上競技
少しblogを書き始めていました。とにかく止まらずに前に進む。そこを意識した生きていかなければいけないなと感じていたからです。出来るだけ後ろ向きなことを書かない。それを心がける。「こいつ気楽なことを書いてるな」と思われるかもしれないなという危惧はあります。しかし、後ろ向きな言葉を書き続けても何一つ変わらないのです。そう思っていました。

この数日間で色々ありました。「前を向こう」と思っていても「それは許さない」というのがこの世の中にはある。それは現実を突きつけられた人間にしか分からないことなのだと思います。綺麗事ではない。理想論でもない。自分の目の前にあることは「耐えるしかない現状」「避けられない現実」なのだと。これはどれだけ文字にしても絶対にわからない。「同じ状況にある」と思われる人でも「直面する」ことはほとんどない。今回、「耐えられるのかな」と思うことが実際にありました。それを言葉にして伝えても「本当?」としか受け止められない。

このことに直面する。それぞれの立場があってそれを尊重しなければいけない。「ノイジーマイノリティ」は両極端で存在する。実際に耳に入ってくるのはその両端の話が大半になる。「サイレントマジョリティー」は「物言わぬ大多数」なので何かを思っていたとしてもそれは伝わらない。

かなり危惧していたことがある。その話をしても「応援しているという声が多い」と言われる部分があった。本当なのかなという気持ちがずっとずっと心に残っていた。が、「現実」を突きつけられると「理想論」がぶち壊される。「そうであって欲しい」という強い願望はあくまで自分自身の「理想」であって世の中はそんなことはない。無力感というか虚無感というか。言いようのない感覚に全身が覆われている感覚があります。

大半の人にとって「対岸の火事」でしかない。矢面に立ってその矢を受けることでしか分からないことがあるんだなと痛烈に感じた。それはきっと「立場」が同じでも「打たれないと感じない」部分だと思う。そして直撃した時にどう受け止めるか。自分を保つか。

情けないことに今の私にはそこまでの度量はありません。苦しい。「そんなことは当たり前だ」と言われるのかもしれない。受け止めていくのが当然。そう言われるとなかなかしんどいですね。

世の中は少しずつ「平常」に向かっているのだと思います。が、本当は進んでない。それを突きつけられた時、今の自分に何ができるのか。「自分の利益」を最優先したり、「理想論」を言葉にしたりする。大切なものを置き去りにしているのではないか。

きっと分かってもらえない。同じ環境にあっても「直撃」しないと分からないことがある。「直撃」しても相対したときにしか分からないことがある。涙が出たとしても「泣いてる場合じゃない」と言われるのが現状。自分が辛くて涙が出るのではない。自分を守るために「苦しさ」と向き合うわけではない。

マイナスな思いを書いたってなにも始まらないのは分かっています。それは避けたい。そう思っていました。

できればこれで最後にしたいなとは思っています。進むためには「受け止める」しかないというのもあります。その受け止めるという作業が自分の中でできるかどうか。

うまく書けません。事実は小説より奇なり。ドラマよりはもっとしんどい現実がこの世にはあります。他人事ではなく自分のこととして起きている。それを受け止めなければいけない。


面白くないですね。すみません。
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考えさせながら

2020-05-11 | 陸上競技
陸上競技について。これは不謹慎だといわれる可能性があります。「自粛警察」にバッシングを受けるかもしれないなと思っていますが。
 
この休業期間中に「インターハイ中止」というニュースが出ました。「実施はできないだろう」という予想はありました。3月末に「陸上競技の大会は6月末まで実施しない」と日本陸連が発表した時点で「無理だろうな」と。このニュースを知った時点で選手から連絡がありました。blogにも書いていますが4月6日の時点で選手にはその旨伝えていました。中国大会もインターハイもない。県総体もどうなるか分からない。それでも競技を続けるかどうか。「先が見えない状況で続けていく」というのは難しいなと思っていました。
 
5月1日、選手から連絡がありした。「県総体の中止」が出されたことを受けてです。3年生にとっては大きな目標だった県総体。これがなくなったことにより緊張の糸が切れる選手も出てくると思います。2年生からの連絡でした。3年生が「県総体はなくなるのか」というのを私に聞いてほしいと頼んできたそうです。その状況で私が何も言わないというのはあり得ないなと思ったので文章を作りました。A4用紙3枚くらいでしょうか。本当は直接話をしたいなと思っていたのですがそれもかなわず。最大限にこちらの思うこと、考えていることを伝えました。
 
この部分はここには今は書きません。少し落ち着いたら記しておくかもしれません。選手にはPDFファイルにして送りました。前回の時と同じように「続けることを強制しない」という内容も含めてです。モチベーションが続かないからもうやめるという選択肢があってもいいと思っています。2年生も含めて。先が見えない状況の中で「練習だけをする」というのは無理だと思います。ましてや、こういう状況。練習をすることは悪だという人もいるでしょう。「練習する暇があったら学習面を整えろ」という意見もある。
 
だから私は休業になった時点から選手の「学習面のサポート」をやってきました。自宅待機期間中は練習に関しては一切口にしていません。選手もそれは感じ取っていたと思います。後で話を聞くと誰も人がいないところを早朝に散歩したり部屋で補強をしたりという感じだったようです。「風評被害」も間違いなくあります。そのような「リスク」を選手に負わせるということは許されない。練習どころではない。それは当然ながら分かっています。
 
 
練習に関しては「自分で考える」というテーマを与えました。やるのであればきちんとやりたい。しかし、これから先の時代に「すべてを与えらえる」ということはない。学習面も練習面も「やる者」と「やらない者」で大きな差が付きます。「部活動」というカテゴリー自体が大きく変わるのは間違いないと思っていました。そうであれば「与えらえる」中で練習をするのは違うなと。自分の「目的」にあったものを取捨選択して組み立てる能力を育てる必要がある。「いわれたことやっていたら強くなる」という時代ではなくなる。それは「社会生活」でも同様になるだろうなと。
 
クラウドを利用しながら情報共有をし、自分で道筋を決めていく「能力」を磨いていく必要があるのではないか。そう感じました。だから練習に関しては「自分たちで考える」というのが必要になるのかなと。しかし、「考えてやれ」というのは非常に「無責任」だと思います。考える方法さえ分からない状況の中で「考えろ」「決断をしろ」というのは不可能。ある程度の組み立てを作らないといけない。
 
数日間は「基礎的なことをやる」というようにしていました。3日くらいでしょうか。その間に時間を使って「練習計画基礎」を作りました。
 
 
ここには「基本的な組み方」だけを示していますが、この横に「A」「B」など「種目名」を列挙しています。そのメニューを自分で選択して組んでいく。目的に沿って組む。ここに示しているのは「前半メニュー」です。ここに「後半メニュー」を別に作って同じように「種目名」を示す。さらに各種目の「詳細」を作る。そこから「自分の目的にあったもの」を作っていくのです。
 
 
 
 
考えない者はとりあえず「メニューを入れる」だけになります。これも上述のように「やる者」と「やらない者」の「差」になると思います。それは全て自分自身に返ってくる。「競技」をすることだけを求めるのは違うと思います。結局は自己責任になる部分が出てきます。オンライン上で情報共有をしてそれをどのように利用するか。「情報リテラシー」の能力を「実践」を通じて身に付けていく。座学ではできないことをこういう場面を通じてやっていく。自分の能力を「磨く」場面を作るのです。それは非常に重要ではないか。「走っておけばいい」という話をするつもりはありません。
 
それだけでは面白くないので「練習メニュー提出」という領域を作成しました。これは「Googleドキュメント」を使って自分で「練習計画」を文字にして記録していく。そこに「練習の目的」と流れを示す。他の選手もそのフォルダは見れるようにしておきます。「編集者」と「閲覧者」が選べるので自分と私以外は「閲覧者」設定にしておく。自分以外がどのようなメニューの組み立てをしているのかもわかります。それを見て私は「不足分」や「」多い分を調整します。基本は選手が考えたものから大きく変えない。順番的にちょっと違うなという部分があれば変更していきます。
 
 
それ以外にも必要なファイルを作ってこのフォルダに入れていく。グループではPDFを示しますが期限があるので必要であればこちらから再度確認ができる。こうやって「陸上競技」を通じて何をしていくのか。あくまで「ツール」だと思っています。選手の「能力」を磨くための道具として「練習計画」も利用する。「社会性」を身に付けていくことも必要になります。こういう部分から学んでいく。
 
私自身が「考えながら」やることは必須。同時に選手に「考えさせながら」やることも重要。オンラインがないからできないという話ではなく「できる環境で何をするのか」を考えていく必要があると思っています。
 
長くなりました。また思うことは書きたいと思います。
 
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考えながら

2020-05-11 | 陸上競技
blogを書いていくと「マイナスな部分」について触れてしまいそうな気がしてかなりの間避けていました。何かを発信すればそれに対して批判的な意見も出る。それが分かっている。本当に大切なことは分かる人にだけわかってもらえばいいかなと。経験してみないと分からないことがいくつもあります。
 
で、自宅待機となったので「何もしない」ということはできない。オンラインで何ができるか探る。教材も何もない中で「教育活動」ができるのかどうか。それもかなり考えました。教室で授業するのが「当たり前」だったので教材の提示もできない。配布もできない。これではなにもできないなと。「できないから仕方ない」と思って止まっていたら先には進めません。こうなったら自学自習でできることをやろうと。
 
これまで情報共有は「OneDrive」で実施していました。3月の臨時休業中は選手が提示してきた練習計画に対して私がwordを使って「練習計画」を作って提示する。選手は「LINE」にしか慣れていないのでこういう部分を使っての「情報共有」をすることを学ぶ機会になるのではないかと思っていました。色々話を聞きながら「GoogleDrive」を使うことに。連絡をして「gmail」を取得させてそれを利用しながら「オンライン上のクラウド」である「GoogleDrive」に「教材」になるものを置く。それを使いながら「zoom」を使っての「オンライン授業」をしようと。
 
これを行うにあたって一番気にしたのが「ネット環境」です。Wi-Fiに接続できるかどうか。接続できない状況であれば「zoom」を使ったり、教材にアクセスすることが難しくなる。「やってしまわなければ先に進まない」という事実もあります。しかし、「休業中に授業をすることで追加料金が発生する」というのは避けなければいけない。「経済格差」がそのまま「教育格差」へとつながっていきます。これは以前から話をしていた部分です。3月に休校になった時に「経済的に余裕があってオンラインでの塾に参加できる者とそうでない者の格差が著しくなる」と師匠がずっと言われていました。まさにその通り。
 
幸いその部分は大丈夫だったので授業をしてみようと。連絡先が分かる範囲でということでうちの部活動の「1・2年生」のみで行うことに。補習と同じ感じでしょうか。私自身が初めてやることでもあるので選手に協力してもらいながらという感じでした。zoomもきちんとつかるのかどうか。「双方向」でやるのであれば人数に限界があるというのは最初の段階で感じていました。通常授業のように40人規模でやるのであれば「机間巡視」はできません。どうしても「一方向」の授業になる。今回は少人数だったので表情を確認しながらやっていくことができました。
 
 
 
 
選手にzoomをインストールしてもらいながらやる。初めてやるときはどうしたらいいのか分からないので「手書き」で用紙にポイントを書いて示すという形にしていました。が、やってみると「これは効率が悪いな」と気づく。用紙に書いてやるのは準備時間がかなりかかります。2回程度やってその形は取りやめ。非効率的な作業はやめることに。で、色々と調べてみると「パワーポイント」で作れば「共有」をかけて教材の提示ができることが判明。誰かに教えてもらうというのではなくこういう時代ですから「調べたら何とかなる」のです。根本的に「やろうとするかどうか」の話だと感じています。ほとんどの人ができる内容だと思います。
 
で、今回かなり気を付けて作成しました。なぜか。これも分かりにくいかもしれませんが「プレゼンテーション」です。電子黒板で大きくすることができるのであれば100歩譲っていいのかもしれませんが、うちの選手は「スマホ」を使って授業に参加する形になります。その中で「説明文」などを入れると小さくて読めないのです。これは普段の「プレゼン」でもいえること。内容を詳しくスライドに書き込む人がいます。配布資料を作ってさらにスライドで説明して「読ませる」という作業をする。これで本当に「情報伝達」ができるのか。
 
「プレゼン」自体は「内容を伝える」のだと思っています。スライドを読ませるのではない。その部分は自分の言葉で説明していけばよい。イメージするべき「ワード」を示してそれを分からせることが大事。「文字」だけではなく「視覚」的に訴えかける必要があると思っています。色々と聞いてみると「生徒が飽きるのでノートをに書き込むところを示す」というのもあるようです。いやいや、私の感覚からすれば「スマホ」の小さい画面では難しいのではないか。タブレットなら大丈夫なのか?うーん。読ませるのではなく「見せる」ことで理解を図るのが必要なのではないか。
 
本当はもっともっとシンプルにするほうがいいと思うのですが。下の図は「当座預金」についての説明です。


 
商品を購入して代金を支払う。大きな取引をするときに「現金」を持ち歩いているとそれを「強盗」に奪われる危険性がある。これは話しても分かりにくいと思うのですが「城南電機」の宮地社長の例を挙げたりしていました。「物を買うのは絶対に現金だ」と言われていたので何度となく「強盗」に襲われていました。下手をすると命を奪われる危険性もある。生徒は物を購入する時に「現金」で買うというイメージですからその「リスク」を示す。これはパワーポイントなどを使いながら「イメージ」で理解させるというのは効果的。板書して説明するのも必要だとは思いますが。
 
そして、スライドに載せるのは「大きな字」で。最小限にする。
 




 
パワーポイントで作成したものを「Googleスライド」で開いたものなのでレイアウトが崩れていますが。実際はパワーポイントを使いながら実施しました。説明に合わせて「取引」のポイント示し、「仕訳」を考えさせる。問題文は細かく載せない。必要な部分だけで十分だと思っています。他の問題では「PDF」の一部を切り取って示したりはしています。でも小さい字は読みません。キーワードになる部分だけ線を引いたり、枠で囲んだりして示します。それ以上の細かいことは必要ないのではないかと感じました。
 
もちろんまだまだ研究の余地はあると思います。しかし、「全員ができる」というのが条件だと思っています。「スライドを作る」ことや「オンラインで授業をする」ことが必要なのではない。プレゼン自体も同じだと思うのですが「読ませる」のではない。シンプルに「必要なこと」を示すほうがよくないか。これは私の個人的な意見なので「絶対に違う」と言われるかもしれませんが。
 
動画も作成しました。これも比較的簡単です。YouTubeでも「大きな文字」で示しています。スライドを示していくので話した言葉は文字にしていません。授業形式で話している姿を録画しながらやるのであれば「文字」を入れたほうがいいと思います。これもやってみて初めて分かること。
 
教材研究をしていたとは言えないかもしれませんが、この手のことをひたすらやっていました。かなりの回数実施しました。枝葉の話をするつもりはありません。しっかりと見極めながらやってきたいと思います。活動はしています。
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