続き。というか、書き始めたら収拾がつかなくなっています。書きたいことはそれなりにあるので。
「白か黒で答えろ」という 難題を突き付けられ
ぶち当たった壁の前で 僕らはまた迷っている
というミスチルの歌詞が浮かんだのでこのタイトルにして書き始めたのですが。なんだか何を書いているのかよくわからなくなってきました。昨日、親しい人と二人で「オンライン飲み会」なるものを実施。その中でいろいろと話をしました。そこで感じたことや「何のためにやっているんだろう」と湧き上がってきた自分自身への「疑問」を言葉にしておきたいなと思っていたので。だから「白か黒か」というタイトルに。
で、何の話か。勢いで書いているので微妙なのですが。
「吹奏楽団」の話でした(笑)。「自分がやっていることは不要なのか」と感じて失意のどん底だったと。しかし、「止まっていても何も始まらない」ということで「オンライン」で「楽団」が集まって演奏会をした。それをネットで配信するという「取り組み」をしたと。自分が「意味がない」と思って「やめてしまう」のではなく「何ができるのか」を考えて動くことで始まったと。
スポーツも同様です。「不要不急」だといわれて「外でやるな」という批判も出ました。人がいないところで活動することさえ「悪」とされる。もちろん、人が集まって活動をすることは「感染のリスク」があります。しかし、広い場所で各自で活動することで「他者に感染させる」ことはないでしょうし、「自分が感染する」ということもない。
「芸術」も「スポーツ」も本当に不要なのか。高校入試のように「主要5教科」さえ勉強しておけばよいのか。「多様な価値観」に触れることで「見えてくるもの」があるのではないか。「心動かされる」部分が「芸術」や「スポーツ」にはあります。もちろん、「主要5教科」も問題が解けたときに「嬉しい」と思うかもしれませんし、これまで知らなかったことを「知る」ことで喜びが生まれる。
「芸術」や「スポーツ」は数値化されにくい部分があります。「素晴らしい音楽」を聴いた時と聞かない時の差を「数値」で示すことはできません。必死に練習してきて「目標の記録」を出したことが「客観的数値」で示されることはない。陸上競技は記録が「数値化」されますが、ある選手にとって「12秒0」が目標値であって別の選手にとって「13秒0」が目標値となるとき、「12秒0」が素晴らしくて「13秒0」がダメだというものではない。単純に「記録を追う」のではなく「記録」が表面的に出るだけだと思っています。それぞれの人にとって「目標」に向かって進んでいくことが重要。
オリンピックで金メダルと獲得する。その瞬間だけを切り取って「感動した」という話にはならないと思います。「ナショナリズム」ではないですが「日本人が金メダルを獲得した」から「心が動く」のではない。そこに至るまでの様々な「プロセス」がある。その部分を「感じる」から「心が動く」のだと思います。
この「休業期間」において「学習」の遅れは取り上げられてきました。学校での「目的の一つ」には「学力向上」があります。しかし、前の記事にも書きましたが「オンライン授業」だけを考えると「予備校の講師」のほうが圧倒的に上だと思います。そこだけに特化してやっているのでから。「生徒指導」や「学校業務」に追われることなく「授業のことだけ」をやっていける専門家に勝てる要素は低いと思っています。
普段の授業の内容を「オンライン授業」でやる。「伝える方法が変わっただけ」という考え方もあると思います。しかし、私は「別もの」だと考えています。「教科内容を伝える」だけであれば本当に「オンライン授業」や「動画配信」ですべては事足ります。「知識」を増やすだけではあればそのほうが圧倒的に早い。予備校の「オンライン授業」を授業料を払って受けるほうが「知識」は飛躍的に高まります。そうであればもう「学校は不要」だと思うからです。
「塾があれば学校はなくてもよい」ということになるのか。形式的な話をすると「社会性」を養うのが学校教育の役割だといわれます。一人ではなく他社とのかかわりの中で「自分のやるべきこと」や「立ち位置」を理解する。そいういう「場」なのだと。他者と関わる中で「自分のやり方」を見つけていく。他者との違いを理解しながら「自分がどうするか」を考える。だからこそ「オンライン授業」であっても「何を伝えるか」を考えながらやる必要があるのかなと。
「オンライン授業」をすることが素晴らしいという流れがある。今の状況で「学習のサポート」という意味では必要だと思います。しかし、それが「すべて」ではない。ここは忘れてはいけないと思います。通常の授業のように「板書して説明する」というのではない。もっと「双方向性」を高めていく必要があると思うし、「生徒同士のやりとり」ができるようにしていかなければいけない。目の前に生徒がいるというのが「当たり前」だった状況からは変わっている。それは受け入れて「オンライン」だからできることをやる。「オンライン授業」と「教室での授業」は同じであり、違うのだと思っています。
また大きく話がずれ始めていますが・・・。
「学校」に登校できなくても「できること」がある。「学習」でのサポートは「オンライン」でやればいい。しかし、本当の意味で「止まっている」のは「学習」だけではないという部分にも目を向けていかなければいけない。「芸術」も「スポーツ」も「止まっている」のです。「学校再開」になっていきなりそれを「やろう」という話にはなりにくい。色々な部分が本当は「止まってはいけない」のだと思っています。「学習」の部分が議論されるのであれば「芸術」「スポーツ」も同時に議論されるべきだと思っています。
もっといえば「心」や「社会性」などの部分も「この状況でどう育てるか」を考える必要がある。「自宅待機だから心のケアが必要だ」という意見は多くあります。それは「止まった状況」だけ考えていないか。これから先にその「心」をどういい方向に進めるのか。「社会性」をどのように身に付けさせるのか。「自宅待機」だからできないという話ではないと思っています。
「学内での携帯電話の使用禁止」がどこの学校でも校則として挙げられていると思います。授業中に「SNS」をしたり「ゲーム」をする生徒が出てくる。学校にいる間は「目の前の生徒と向き合う」というような理由でしょうか。しかし、これから先は「授業においてどのように利用するか」を考えていく時代になっていくと思います。そうであれば「使ってはいけない」ということをいうのではなく「どのように利用するのか」を考えるべきだと思っています。「スマホを学校で使う」ことが「黒」ではなく「白」になっていく。もちろん、「使い方」を学ばせる必要があります。「家庭での指導」ではなく「教育の一環」として位置付けていかなければいけなくなる。
「部活動」が「黒」で「社会体育」が「白」なのか。「部活動」をやることが「黒」でやらないことが「白」なのか。休業中に「身体を動かす」ことが「黒」で「家から一歩も出ない」ことが「白」なのか。明確な答えはない。しかし、「スポーツ」を通じて多くのことを学ぶことができる。それは間違いない事実。「学習」と同じように「スポーツ」から学ぶことはある。
「数値化」されるものが「白」なのか。それは違う。「既得権」を守るためにいっているつもりはない。「本当に大切なもの」を見つけていく。人それぞれ「得意」なものがある。「多様性」を認めていく場面としてはやはり「学校」は必要なんだと思う。
またも全くまとまらない。まー仕方ない。文才がないなとつくづく思います。内容をまとめることもできない。好きに書いています。ただ思いつくままに・・・。
また書きます。たぶん。きっと。