蝶人物見遊山記第221回
クラーナハ。はてな?
名前は聞いたような気がするけれど、作品をみるのははじめての絵描きさんです。
1472年に生まれて1553年に81歳で死んだルネサンス期のドイツ人だそうですが、なんと宗教改革のリーダーとして知られるルターとほぼ同時期に生きた、と知ればなんとなく親しみもわいてきます。
藝術の前では名前も経歴もどうでもいいけれど、実際に作品の前に立つとそのリアルな写実にあっと息を呑んでしまう。
あの宗教改革のルター夫妻なんて、500年前の人物が目の前に実際に佇んでいるようで、思わず「やあルターさん!」と呼びかけてしまいます。
神聖ローマ帝国カール5世なんて厳めしい肩書だけど、こんな浅ましい顔つきの男だったのか、これではどこかの国の宰相といい勝負じゃないかあ、と言いたくなってしまう。
しかし美女の裸体のプロポーションなんかは上半身がちと寸詰りだし、目の表情もちと偏執の気味があるから、この節流行の微細カメラ的描法とは異なるけれども、もしかすると鎌倉期に頼朝や重盛の肖像を描いたという藤原隆信や江戸時代の渡辺崋山、現代の舟越保武を先取りする超絶的リアリズムかもしれません。
ところが被写体が同時代の人物ではなくて、歴史上あるいは神話的人物像、例えばヴィーナスやサロメ、とりわけ「ホロフェルネスの首を持つユディト」なんかを描くとなると、その女体に独特の奇妙なエロスの味付けが加わって、見る者を限りなく蠱惑するんですね。
ホロフェルネスを誘惑して酔わせてその首を斬った寡婦ユディトの絵は古来多くの画家によって描かれているけれど、クラーナハのユディトの冷たいニル・アドミラリなまなざしは嗜虐主義者の谷崎潤一郎ならずとも、世の男どもの愚かな劣情を揺り動かす。
うすらと目を開いたホロフェルネスだって、こう呟いているようです。
こんな美女なら、首なんかちょん斬られても、余は満足じゃ。 蝶人