照る日曇る日 第2089回
ものの本には「我が国私小説の極北」とか書かれているから、まあそれには違いないのだが、妻子を郷里に置き去りにして愛人と上京し、貧困の中で「文学道」に精進しながら35歳で夭折した未完の作家の小説を読んでみると、このひとあまりにも宗教的、倫理的、道徳的な背骨に規矩されすぎた人格であったことに驚く。
捨てた妻子のことなど、出来れば忘れるか、無かったことにして、新しい恋人との新生活に猛進すればいいのに、と、超軽薄な私などはつい思ってしまうのだが、嘉村選手ときたら、おのが罪業を逐一小説で再現し、あまつさえ血が噴き出る傷口に塩を擦り込むような、ある意味嗜虐的な断罪行為をみずからの文学的営為の中心に据えるのだから、書く方もそうだろうけど、読まされる方も、たまったものではない。
岩田氏は、それを「文学という宗教への殉教」と解釈されているようだが、私なんかそんな宗教も文学もできたら勘弁してもらいたいと願う方なので、この文庫本の中では、彼の代表作として有名な「途上」「業苦」「崖の下」なんかよりも、運命の女性小川チトセに出くわす前に書かれたエッセイ「再び故郷に帰りゆくこころ」なんかで、孤独な雪舟の後ろ姿について自由に空想を羽ばたかせた、さりげない数行のほうが、ずっと心に沁みるのだった。
「とことこと西日を浴びながら歩いて寺に帰って行って、裏の池で、大きな緋鯉や真鯉が足の指をパクパクくわえるのを、コレコレと叱って追い払いながら、手足を洗って静かに離室に入って行くのであった」。
そこばくの貯え次第に尽き始め洗剤の量を少なめにする 蝶人